僕は私を愛している

カルムナ

貴方のおかげで

私と僕は、幼いころからずっと一緒だった。

それに違和感を覚えることは決してなかった。

私と僕は幼馴染、双子、一心同体。




日用品も時間も体も、感情も意識も共有する二重人格の片割れ同士。

でも、二重人格という単純な言葉で表しきれるような関係でもない。

常に同時にここに存在し、それでいて別の存在として確立している。



それが私と僕だ。


ああ、課題をしなければ。

そう言ったのは果たしてどちらか、それとも同時だったのかもしれない。

二人とも考えることは一緒で、体は満場一致で勉強机に向かう。

教科書を開いて頭を使って。




僕と私の二人がいれば、十分以上に文殊の知恵。

あれよこれよという間に終わっていく。

こういうものは集中して即終わらせる方がだらだらとやるより良いのだ。


一人では集中できずとも、お互いがいればサボることなく頑張れる。

僕と私は最高の相棒だ。


果たして、私たちはいつから一緒だったか。

覚えちゃいない、赤子のころからそうだったか。それとも、一人だった頃があったのだろうか。

母に聞けば、首を傾げた。

「小さかった時も、十分変な子だったけれどねえ。」


私たちは記憶を共有しているが、どうも幼いころの記憶が抜けているようで。或いは、塗りつぶされているのか。

どうしても、思い出せない。


最も、今としては何だっていいのだ。

こうやって最高の相棒がいれば、私と僕は幸せなのだ。


「幸せとは、何だろうか。」

教授は教室にそう問いかけた。

哲学の話に入ってしまうと、私も僕もあまり理解ができない。

小難しい言葉が並べられた教科書を開いても、目が滑るばかりで内容が頭に入らない。

興味を持った分野だから、軽率な気持ちで履修したものの、これは試験が随分と大変そうだ。


先が思いやられながらも考える。幸せとは何か。

幸せなんて個人的な感情でしかないから、客観的に学問としての側面を問われれば答えに詰まる。

あなたにとっての幸せは、結局他の人にとっての幸せではないのだ。


私たちは、幸せよね?

私はそう僕に問いかけた。


そうだね、僕らは幸せだよ。

僕は私にそう答えた。


安心した、そうだ、二人いるんだから。

何も心配はいらないのだ。

学問はわからないが、自分達の中での幸せは定義されているのだから。

二人でずっと一緒に居れば、この先も幸せなんだ。


「この後暇?お昼ご飯一緒に食べようよ。」

授業後に席を立って振り返れば、同じ学部の先輩だ。

顔見知り程度の仲であるが周囲からの評判も良く、私自身も心優しい良い人である、と認識している。


時計を見れば、お昼の丁度良い時間帯。普段は食堂できっちりしたものを食べるか、或いは弁当を休憩室の空いたスペースで適当に食すか...確かにこれは暇があるというのだろう。


「はい、いいですよ。ご一緒します。」

私は、そう答えた。

僕も無言の肯定を返した。


食堂で適当なおかずとサンドイッチを買い、先輩の向かい側に静かに座る。

先輩はどうやらご飯派のようで、鮭のふりかけを沢山かけて、いただきますと小さく言った。

どことなく上品さを感じさせるような、やたらと可愛らしい仕草が印象に残る。


「前からずっと話したかったんだよね、君ってなんか変わってるから。」

食事の合間に嬉しそうに話す先輩に、これは褒められているのか貶されているのか、私と僕は戸惑った。

最も悪口のつもりで言っているわけではないのだろう。少なくとも悪気があって言っているわけではないだろうし、先輩は嫌味を言うような人ではない。

きっと素直に感じたことを言っているだけなのだろう。

相手の表情からそう判断し、そうなんですか、と適当に相槌を打つ。


「そうだよ。何というか、静かな雰囲気で大人びていて、中性的で。一人でいる時も妙に落ち着いているというか...」

表現に困った風に先輩はううん、と唸り、まあつまり、魅力的ってことだよ、と笑って見せた。


先輩には以前にも勉強や学科について等教えてもらったことがあるから、優しく真面目な人という印象があった。

一方で、こんな可愛い笑顔も見せるんだな、と初めての表情に私は眉を上げて僕は僅かに見開いた。



先輩は話しながらも少しずつ食事を勧め、自分も同時にペースを合わせてサンドイッチを齧る。

友人と昼食を取ることも少なくないが、その時よりも少しだけ、ほんの少し楽しい気がした。


「ね、駅前に新しくレストランできたの知ってる?あの外観がお洒落な所。今度一緒にあそこのレストラン行こうよ。前から行ってみたかったんだよね、一人じゃ入りにくいからさ。」

食べ終わった後にも食事の話か、と思ったが確かにそのレストランは自分も気になっていたところだ。

新しくできたところで、イタリアンを主に取り扱っているとか...


「いいですね、一緒に行きましょうか。」

「本当?やった、嬉しいなあ。」

本当に嬉しそうな様子に、私まで少し嬉しくなって、その笑顔が妙に記憶に残った。


ただ、その後僕は、少しだけ顔を曇らせた。



帰宅し、カバンを置いてベッドに身体を投げる。

一息つけば、先輩の笑顔をふと思い出した。


良い人だ、と思ってはいたが。

これ程他人が可愛らしく、愛おしく見えたのは初めてかもしれない。

しかし一方で、同時に何だかもやもやとした気持ちが湧いてきた。

この気持ちは一体何だろうか。


好意と嫌悪か?


矛盾する感情が一気に自分の中で競り上がって気持ち悪くなる。

今日は疲れているのだろうか、早めに寝てしまおうか。


幸い直近の課題提出日には余裕がある。

今日はとっととお風呂に入って夕飯も食べて、ゆっくり休憩しよう。

僕も私も考えていることは同じの様だ。

やはり自分達は随分と気が合う。


身体はスムーズに動き、いつもよりも1時間以上早く部屋の電気を消した。


「おはよう。元気かい?」

学部の建物の角で、すれ違った先輩に声を掛けられる。

おはようございます、と軽く会釈すれば先輩は軽く手を振って返してくれた。


またあの笑顔だ。

嬉しくてモヤモヤするこの感情は、一体何だろうか。

彼はこちらに駆け寄り、ほんの数分話してから廊下の先の教室へと消えた。

講義があるのだ、自分も急いで別の教室へと入った。


これだけ小さなやり取りだが、毎日続けば段々と強く意識し始める。

そのほんの数分が妙に心躍る瞬間で、期待してしまう自分を認めざるを得なかった。

ああまただ、と嬉しくなる気持ちが強まるにつれて、悲しいような辛いような冷たいガラスが私の奥底に積み重なる感触を感じていた。


こんなにも嬉しいのに、こんなにも悲しい。



「それは、恋では?」

この謎の感情を友人に打ち明ければ、呆れたような表情でそう返される。

ぽかんとする自分に、友人はまあ、そういうことだ、と肩を叩く。


なるほど、それは盲点だった。

友人はどこか馬鹿にしたように今更なのか、とため息をつく。

「気になる気持ちは大体恋だろ、最も悲しくなるってのがよくわからんが...あれじゃないか、その先輩と数分しか会う機会がないってのが寂しいとか。」


確かに、先輩とそれ以上話す機会はない。

学年も異なれば取る講義も異なる。

部活が一緒という訳でもなく、家が近いわけではない。

ただ、挨拶を交わす程度の関係で。


「食事にも誘えばいいだろ、連絡先交換してさ。恋愛初心者か?」

さも当たり前のことのように言い放つが、恋愛なんて今までやってこなかったんだから、分かる訳ないだろうに。

いや、世間一般では当たり前かもしれないが、少なくとも自分にとっては当たり前ではないんだ。

いや...そもそも恋愛をするということすら自分たちの中にはなかった。自分達以外の存在を、受け入れる?


二人きりの世界に人を入れるなんて、想像もつかなかった。

だって、今までもこれからも二人っきりだと思ってたから。



「おはよう、どうしたの?」

先輩を見つけるなりチャンスだと小走りで近寄れば、先輩は首を傾げた。


「あの、先輩。今度一緒に、この前言っていたレストランに行きませんか?」

「え、ああ、あそこか。いいよ、一緒に行こうって言って全然行けてなかったもんね。いつ予定空いているかな?」

「その、しっかり後で確認したいので連絡先頂けませんか?確認次第すぐに連絡するので。」


勿論だよ、と笑って私の携帯に先輩は連絡先を登録した。これで、気軽にメッセージを送り合える。

並ぶ名前の中に先輩の名前だけが輝いて見えた。


早く家に帰って何かメッセージを送ろう。

何て送ろうか、迷惑にならないような文を考えなければ...


その日の講義はいつもより長く感じられた。



いつも通りの部屋に入り、携帯だけを手にしてベッドにダイブする。

この時を待っていたのだ。


携帯を開いてさあ何を打とうか、と考えた時に手が震えていることに気が付いた。

ああ、またこの感情か。


恋かもしれない。

そう自覚した時から可笑しいとは思っていたのだ、寂しさにしては冷たすぎるこの感情が。


嫌なの?

私はそう、僕に問いかけた。


嫌だ。

僕はそう、私に答えた。


以前から感じていたこの負の感情、それは僕が感じていたものだ。

知らず知らずのうちに、自分でも意識できなかったこの感情。

私が抱いていた恋愛感情に対するネガティブな感情。


それが私の中の冷たいガラスの正体だ。


何が嫌なの、折角一緒に居て楽しい人ができたというのに。

貴方だって一緒に居たでしょ、話してて楽しいし、優しいし...


私には分からないさ。僕の気持ちなんて。

今までずっと二人だったのに、突然ぽっと出の奴にそこまで入れ込んでさ。

僕は裏切られたのか?ってね。


裏切ってなんかないじゃない。

僕以外にも気の合う人ができただけ、二人きりにもう一人仲のいい人が加わっただけでしょう。


それを裏切りというのさ。

今までずっと2人で生きてきて、今更他の人を受け入れられるとでも思うのか?

二人で一緒に同じ相手を好きになれるのか?


普段は気の合う自分達の意見が別れていく。

異なることを同時に思考するのは大きな負担のようで、脳がメモリ切れでオーバーヒートを起こし、警告音を鳴らす。

鐘の音が鳴り響くような、揺さぶる衝動が吐き気を催した。

気持ち悪い。


私は負けず嫌いだ。

吐き気に負けず、急いで携帯を取り出し、連絡先から先輩の名前を選択する。


今週末の夜、空いています。


その一文を打つのを僕は必死に阻害した。

ずっと二人きり、これからもそうだろうと思っていたのに、今や反対して他人に近づこうとしている。


それが私だけならまだいい。

僕と私は一心同体。

我が身は私のものでもあり、僕の物でもあるのだ。

いつも上手くやってきたのに今回だけ私は身勝手で、そんなの、許せないじゃないか。


最も行動は私の方が早かった。

衝動は抑制よりも強いらしく、僕の抵抗はままならず指は勝手にメッセージを送信した。


その瞬間僕の力は抜け、私の勝利を確信した。


そうやって自分の殻に籠ってたってしょうがないよ。私達はこれから色々な人と関わるべきよ。


ちょっとばかり申し訳なくて、後から言い訳のように付け足しても僕はそれに反応せず、意識を反らした。



その日、僕と私はそれ以上話をしなかった。

いつもの温かい布団は冷たかった。



「誘ってくれてありがとう、ずっと楽しみにしてたよ。」

日曜日の日も暮れるころ、先輩は先に待ち合わせ場所に来ていた。

いつものラフな格好ではなく少しお洒落したような、皴一つない良い生地のシャツを着ていた。

自分との時間の為におしゃれしてくれたんだ、と思うと私の心は高鳴った。

僕の反応がないことに私は少し戸惑ったが、特に悪い感情も湧いて来なかったので、もういいや、と無視をした。

どうせ変にひねくれて居るのだろう、放っといていい。

それよりも、先輩との時間を楽しみたい。


そう、二人っきりで。


「こちらこそ、来てくれてありがとうございます。」


お勧めのコース料理を頼み、雑談を交えながら上等な食事を口に運んでいく。

特別豪華ではないが、丁寧な味付けと凝った盛り付けは目も舌も楽しませてくれる。

憧れの人とこんな場所で話せるなんて夢のようだ。

学食を共に食べる時もずっと贅沢で、嬉しくて...


「人と一緒に食事をしてて、こんなに嬉しい気持ちになったのは初めて。ありがとうね。」

へにゃりと素直な笑顔に対して、自分もです、と笑顔を返す。


食事はゆっくりと進み、デザートが運ばれてくる。

これを食べてしまえばこの特別な時間も終わり、それが惜しくてちょっとずつ口に運ぶ。

ふと先輩を見れば、同じことを考えていたのか、ちまちまとフォークでデザートを掬っていた。

先輩もこれに気が付いたのか、ばっちり目が合った。

数秒見つめ合った後、ふふっと同時に吹き出した。


「またこうやって一緒にご飯食べようね。」

「はい、お願いします。」


”また”、それはつまり次があるということ。

こんなにうれしいことがあるだろうか。

先輩とまたこうやって楽しい時間を過ごせる。

一度っきりではない、この先にも幸せがある。

それが約束されたようで私は心の底から喜んだ。

私は。


僕は、出てこなかった。

暗闇の下、鈍い意識の中で深い眠りにつくように、息をひそめて隠れるように、私にできる限り意思を悟られないようにしていた。

僕の考えていることは私には理解できない。

しかし、それと同時に僕の考えも私には理解できないのだ。



同じ体、同じ脳、同じ人生を共有してここまでわからないことはなかった。

それがどうしようもなく不安で、どうしようもなく不快だった。


それでも私は、先輩との時間をもっと取りたい。

先輩と一緒に居たい。


その気持ちが脳を支配し、僕は嫌というほど理解させられる。

そして僕はそれを否定できないのだ。共感こそできないが、それが私の本心だということは分かってしまうから。

僕がそれを嫌だと感じることを知った上で。



蛍光灯が照らすはずの部屋はどこか薄暗く、室温もいつもより低く感じる。


なぜ、嫌だと感じるの。これからもずっと、私たち二人だけで生きていくつもりだったの。

会話に集中するために消灯し、真っ暗な自室で僕へ語りかける。


そうだ、二人っきりで。誰とも一緒になることはなく。友人は何人もいるけど、人生のパートナーは一人だけだ。

そして、私に一番適した相手は僕だ。一番の理解者だから。


私と僕以外の人間は、所詮何を考えているか分からない、信用に足らない赤の他人なんだよ。


僕は、そう言って譲らなかった。内臓を圧迫するような感触に、私は身震いした。

この感情は、生まれて初めて味わった感情だ。僕も私も今まで味わったことのない特別な感情。

自分の意志ではない感情に吐き気を催し、しかし涙目で抗い続けた。


でも、そんなの、人間って皆そうじゃないの。世の人間はそうやって関係を築いて行くものよ。私たちだけ二人ぼっちで生きていくなんて無理よ。

もう自分の世界に引きこもってられない。外の世界に触れるべき。


なぜそうやって離れていこうと考えるんだ。何が私をそうさせたんだ。


分からない、むしろどうして僕は嫌だと感じるの。僕はなぜこんな感情を抱くのか。


なぜ、どうして。


血管が熱い。全身から血が沸騰した血が溢れそうなくらい張り詰めた感覚と、同時に心臓がドロドロに溶けて地中に落ちていってしまうような気持ち悪さが僕と私の境目を分からなくさせる。

そうだ、意思は2つあっても体は一つ。脳も一つなのだ。それなのに、どうして自分は「二人」なんだろう。

だって、おかしいじゃないか。二重人格なんて、普通じゃないのに。


普通じゃないことを、なぜ今までずっと受け入れてきたんだ?


一度疑ってしまえば、その疑念は晴らされない限り段々深いものへ変わっていく。

僕も私も、信じられない。

自分自身が、信じられない。


矛盾する自分は、一体誰なんだ?



ピーッと警告音を鳴らす体温計を片目に大きくため息をついたのは私だろうか、それとも僕だったのか。

朝日の淡い光が昼の明るさに変わる頃、身体が重いことに気が付いた。

今日は午後から大学の講義がある。朝はゆっくりしていようと思ったのに、寝過ごしてしまった。

そんな後悔を引きずって体を起こそうとしても、ぐらり、と視界が揺れてどうにも上手く立てない。


その原因が高熱であることを確認した後、講義の欠席をメールで教授に伝えた。

起き上がれなくなる前に軽い食事と水だけ準備しておこう。大学に行く為に借りたこのアパートに、自分を看病してくれる人はいない。


身体が熱い。

いや、頭が熱い。

全身が燃えるように熱い。


その原因はどう考えても昨日の喧嘩だろう。

自分の中に矛盾を抱えて生きていけば体が先にダメになってしまう。

この熱はきっとこれ以上は無理してはいけないという警告だ。

早くどうにか対処しろ、との命令に自分達は逆らえない。


それでも、私も僕もお互い譲る気はなかった。


口を利かないだけで思考も感情も互いに分かりきっている。

嘘はつけないというのは、他人と自分達を隔てる大きな壁の一つだ。


だから、僕らは二人きりで生きていかねばならない。下手に人と関わってはいけないんだ、だってこうやって僕らが苦しむことになったのもあの先輩のせいじゃないか。


でもそれは、不可能だよ。私達は二人だけど身体は一つで、生きていくには他の人の助けも必要なんだ。私達のどちらかが苦しむとき、同時にこうやって苦しむ羽目になる。ほら、この高熱だってどちらも看病できないんだから。


共に喜び共に苦しめばいいじゃないか、それが共に生きるってことじゃないか。


伝え合う必要が無いという便利さは、伝わってしまうという欠点にもなり得ることを自分達は初めて知った。

自制できない意思の疎通は苦痛だ。究極の信憑性の先にあるのは最高の疑心暗鬼でしかない。

これはきっと、世界で自分達しか知らない事実だろう。今こんなことを学んでしまうなんて、何とも皮肉だ。



頭が働かない。

そりゃそうだ、こんな高熱の中人格を2人分作って言い争いをさせている我々の脳みそはこの上なく馬鹿だ。

ある種の自傷行為だ。


これ以上考えても無駄、話し合っても互いに心身ともに弱り切るだけだと分かっている。

一度頭を冷やそう。

ああ、やっぱり僕と私は気が合う。馬鹿な程に。


切っても切り離せない関係を疎ましく思ったのは初めてだ。

軽く水で喉を潤し、冷たい感触が頭をキーンとよぎる。

柔らかい布団に身を任せ、意識を枕の下へ沈めていく。

こうすれば、僕も私も関係ない。

一度意識を落としてしまえば、そこにいるのはたった一人の眠れる人間だけだ。



泥の様に眠り、起きた時には時計の針が明後日の方向を向いていた。

熱は少し下がっただろうか。身体は怠いし頭も働かないが、少なくとも寝る前よりはマシと言える。


僕と私は大体いつも同時に目が覚める。

熱がある時でも例外ではないようで、二人の間で初めて気まずい空気が流れた。

少々の沈黙の後、おはようと声をかけたのはどちらが先だったか。


ねえ、私たち、これからどうしようか。


どうしようか、だなんて今まで考えなかった。これまでもこれからもずっと同じ。

そう信じて疑わなかったのに。

でも、お互いの疑念はよく分かる。嫌な程に、理解出来てしまう。

このままだと自分達の自我は崩壊してしまうだろう。


二重人格が精神疾患として扱われる理由が今ならよくわかる。意思が統一出来ないと心身共に磨り減っておかしくなってしまうのだ。

幼かった自分達は同一人物とほぼ等しかった。同じ遺伝子を持ち同じ人生を経験してきたはずが、なぜ異なる意識になってしまったのだろう。

その原因はなんだろうか。


いや、本音を言えば分かっていたのだ。僕はそれを隠し、私はそれに気が付かない振りをしていた。

それはあの先輩と出会った時自覚してからずっと感じ続けていた感情で、温かい心地良さに甘え続けていた。


どうしようもなく愚かで人間らしい、原始的な感情で。


僕は私を、愛しているから。



再び熱が上がったようで、世界が歪んで見える。ぼやけて霞んで呼吸が苦しくて。先輩からの連絡すら見えない程に重い症状に涙をボロボロと零すも、その涙を拭ってくれる指はない。


歪んだ視界の先に、人影が立っているのが見えた。

それが夢と気がついたのは、その人影がよく見知った形をしていたから。


「僕、か」


「私、だね」


「始めてだね、こうやって向き合うの」


人影と自分か口を開き、僕と私が向き合う。

不思議だ、僕も私も視点が異なるはずなのに同じ光景を見ている。鏡のように全く同じ人間が向き合い、しかし異なる思考を持っている。

今先に口を開いたのはどぢらだったか?

いや、それ以前の問題かもしれない。


果たして、僕と私は別人なのか。


「ずっと今まで、見ないふりをして来たんだ。それは意識的にも、無意識的にも、僕も私も。」


「今までは全てを分かちあった2人として、その境界を誤魔化してきた。」


「それでも、結論付けるべき日がやってきた。」


「どうすればいい?どうすれば互いの為になる?」


もうどちらが話しているかも分からない。

今までは僕と私、二人の意識は分離していた。こうやって思考が混ざることはあっても、境界がおかしくなることなんてなかったのに。

いや違う、わざと溶け込ませているのか。

わざと同一の意識にするように、二人ではなく一人になるために。


なぜ。


「僕でしょ、こんなことをするのは」

危なかった。もう少し溶け込んでいたら完全に意識が混ざり切ってしまうところだった。


「どうしてこういうことをするの、こんなことしたら二人とも消えてしまうじゃない。」


私は怒鳴った。

今だけは自分が私であることをはっきりと認識できる。

怒っているのが私で、困った顔で微笑んでいるのが僕だ。


「大丈夫、二人とも消えたりはしないよ。消えるのは一人だけだ。」


再び混ざるように輪郭が暈けていく。二人の状態はそれぞれの意志のうち強い方が優先される。

僕の意志は強く、私は抗えない。

必死に抵抗するも、僕は着実に揺らめいていく。


「僕さ、思ったんだ。」


「どうしたらいいんだろうって。このままじゃ衰弱して二人とも死んでしまうって。どちらかが譲らなきゃいけないけど、譲った所で不満が消えるわけじゃない。そしたら、どちらにせよ双方に負担がかかるだろう。」


「これから先、同じように意見が食い違うこともあるかもしれない。そうなった時、こうやって毎回弱るのかなって。苦しい思いをして、二人の内どちらかが諦めなければいけない。しかしその不満は優先された方にすら負担になる。こうやって体を壊してね。」


強い振動が体を襲う。

強い耳鳴りが聴覚を刺激する。


それでも不思議と、僕の声だけははっきりと聞こえてくる。


「だから、僕は思った。もう二人では居られないと。」


「だから、これからは二人ではなく一人で生きようって。」


「僕は、消えようと思うんだ。」


儚げな表情で笑う僕と無表情で涙を零す私は、もう完全に分離した存在ではなくなった。

僕の意志が、私にも伝わる。

私はいつの間にか抵抗を止めていた。流れるままに身を溶かし、混ざり合う感触を鈍く感じていた。


「ねえ、私はもう知っていると思うけれどね。僕、私のこと愛してたんだ。これ以上ないくらいに。私以外何も要らないくらいに。」


「だから、他の人が入り込んでくるのが嫌だった。でもそれはきっと私の幸せにはならなかったね。」


「だからちょっと考えたんだ。どうするのが最適か。僕はね、いっぱい考えて悩んで、考えた結果、私を幸せにしたいと思った。」


「私が幸せになるためなら、僕を犠牲にしても構わない。」




「だから、これからは私だけで生きていくんだ。」


僕という存在が意思から記憶へと変化していく。

常に同時に確立していた人格が、私の想像へと吸収されていく。




嫌だ、消えて欲しくない。

そんな願いも僕の意志を取り込んだ今、否定することはできない。

だって、僕は本当に私を愛していたんだから。

その愛が、苦しい程に理解できてしまったから。


もう人影は完全に消え去った。取り残されたのは、ぼやけた霧の一塊だけ。

私は、そこにいた。

僕は、いなかった。


熱が下がり、身体も軽くなった。

休んでいた分の講義ノートを友人にお願いして借り、自習室に籠る。

二人で協力して問題を解くことはできなくなったが、その分一人で集中して取り組めるようになった。

脳みそいっぱいに思考を広げ、私は目の前の課題を効率よく終わらせていく。


「ねえ」


小声で肩を叩かれ、びっくりして後ろを振り返る。

先輩がシーッと人差し指を口に当て、微笑んでいる。自習室で私語は慎まなければ。


急いで荷物をまとめ、手招きする先輩の後を慌てて追いかける。

グループワーク用の自習室に入り、先輩と私は一番端の机に向き合って座った。ここならば声を出しても構わない。


「熱大丈夫?凄くしんどそうだったけれど。」

心配したような、しかしどこか安心したような声で微笑んだ。

私はそんな先輩と一緒に居ると落ち着いた。もう、あの冷たい感情は綺麗さっぱり消えてしまった。


「大丈夫です、ご心配おかけしました。」

軽く頭を下げると、先輩はいやいや、と首を振る。

「いや、一緒に出掛けた時に何かあったかなって。食中毒とかだったら嫌だなあって...」


私はクスリと笑い、違いますよ、と首を振った。

そんなことを心配していたのか、とちょっと申し訳なくなりながらも同時に先輩が可愛らしく思えてくる。


他愛もない話で盛り上がり、二人きりの穏やかな時間が流れていく。


そこに僕の姿はもうない。


「そういえば、君何か変わったことあった?」

突然の質問に首をかしげる。


「あのさ、なんか雰囲気が前と違うんだよね...うーん何というか、難しいけれど。さっぱりした?」


「...そう感じますか?」


「いや、悪い意味じゃないよ!今までは何というか、君ってよくわからないミステリアスさがあったんだよね。今はどちらかというと、透明感があるって言うのか...いや分からない!」


性格で透明感とはどういうことかと困惑したが、なるほど先輩は恐らく私自身の変化に気が付いているのかも知れない。

見透かされたようで驚きながらも、不快とは感じなかった。


「...実は、自分の中で大切な人を失いまして。それで、少し変わってしまったかもしれません。」

自分の中、という概念を具体的には言わず言葉を濁す。大切な人を失ったことに嘘はない。


「そっか、それは大変だったね。」

心を痛めたような表情をする先輩は本当に優しいのだろう、慰めの言葉をかけてくれる。


「いつも、二人で一緒だったんです。常に隣にいて、困った時は助け合って、こういう課題とかも協力し合ってて...とても気の合う相棒だったんです。でも、ふとした瞬間に消えてしまったんです。」


「そっか、そんな人がいたんだね。突然消えてしまったというのは...」


ちょっと気まずそうに言葉を濁す先輩に、私は急いで首を振る。


「いえ、亡くなったとかではないのですが。ただ、二度と会えないところまで行ってしまいました。その理由が、私の為だったんです。」


「君の為?」


「はい、一緒にいると私が幸せになれないから。私を幸せにするために、二度と会えないように...すみません、抽象的で変な話ですよね。」


「いや、大丈夫だよ。」

謝らなくていい、と彼は私の顔を覗き込むと、目を合わせた。




「あのね、ちょっと君にお願いがあるんだ。」


「何でしょう。」


「あのね...」


突然しどろもどろになり何度も言いよどむ先輩に、首を傾げた。

暫くそのまま迷っているようだったが、次の瞬間意を決したようにこちらを真面目な顔で見つめた。


「もしよければ、これからは自分がずっと一緒にいてもいいかな?」




僕が消えてから1年。

既に僕は記憶の中で本当に存在したかも危うくなっていた。

もしかしたら自分の中の幻覚でしかなかったのでは?とさえ思えた。


周囲の人間だって僕のことを認識していたわけではない。

母に聞けば、そういえばそんなことも言ってたわねえ、と返すだけ。

あくまでも僕という人格は、私だけが認識できる存在だった。


そもそも思考も感情も共有した一つの身体の中に存在する私以外の人格なんて、存在していたとはっきり言いきれるのだろうか。

ただの同一人物ではないのか。

それは一体、私と何が違うというんだ?私と僕の境界とは何だったのだろうか。


長い夢でも見ていたか、私が勝手に作り出していた妄想だったという方が余程現実味がある。


それでも、そうと言い切れないのは何故だろうか。

部屋を見渡すと、ふととあるノートが目に入る。哲学と自分の名前が表紙に目立つように書かれている。


そういえば、僕と私がまだ一緒に居た頃のノートだ。協力して難しい問題に取り掛かっていたような...

パラパラと適当にページをめくり、文字列を眺めていく。所々文字が乱雑にはなっているが、ぱっと見復習しやすいようなレイアウトで纏められている。



幸せとは、何だろうか。


とあるページ上部に大きく書かれた疑問が目に入り、私はそれにくぎ付けになる。

ああ、確か講義で聞かれたっけ。

それに対して、僕と私は何を思ったっけ。


私たちは、幸せよね?

そうだね、僕らは幸せだよ。


あの時の記憶が蘇る。

あの時は、確かに僕に問いかけていた。それに対して賛同の返事を受けた。

二人いるんだから、だから幸せだよ、と。

あの頃の私にとっての幸せとは、僕と一緒に居ることだった。


本当に?


あなたにとっての幸せは、結局他の人にとっての幸せではない。


ノートの端にメモのように記載されている文章が私に問いかけてくる。

こんな文を書いた記憶がない。最も、講義で書いた内容なんて一年経ったらすっかり忘れてしまうものだと思うけれど。

しかしこの文は講義の内容をメモしたものではない。明らかに自問自答を促している。


これは過去の僕が過去の私に言ったのか?過去の私が僕へ言ったのか?それとも、過去の私から今の私へ宛てた言葉か?


幸せなんて、個人的な感情でしかない。果たしてその個人に僕と私はどのように当て嵌まるのだろうか。

僕にとっての幸せは、私の幸せとは矛盾した。

しかし、私の幸せは僕の幸せになりえると判断した僕は、私が幸せになれるように自己を犠牲にした。


それとも、2つの個々をたった一つの個人へ統一することで、幸せという感情を統一したとも言える。どちらにせよ、僕と私が両立しながら双方が幸せになることはついに無かった。


今の私は、過去の私からみたらきっと幸せではないだろう。僕という存在を失うなんて、この頃には考えられなかったから。

それでも、今の私なら分かる。僕の意志は記憶として確かに残っているから。僕の存在自体は不安定でも、僕の意志が存在したことははっきりとわかる。

例え、客観的に見て到底あり得なかったとしても、自分にとって真実ならそれで構わない。


僕は、私を愛してくれた。

それは私にとって、夢でも妄想でもない、紛れもない事実だ。


それでいい。


「今日、久しぶりにあのレストラン行かない?新しいメニューがあるって噂だよ。」

家に遊びに来ていた先輩がひょっこりこちらに顔を出す。

私は振り向き、大袈裟なくらい大きく頷いた。

また先輩と二人で談笑しながらご飯を食べよう。

そして、あの和やかな空間でゆっくり時間の流れを味わうんだ。


それは今の私にとって、紛れもなく幸せなんだ。



ありがとう。


"貴方"のおかげで、私は幸せです。

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