音楽と悲恋

牧木

夜想う

すっかり秋めいた空。

少しだけ肌寒さが服を通って心にしみた。


そういえば、こんな時期だった。

君との思い出はずっと深いところに張り付いていて、冬が近づく事と一緒に鮮明に蘇っていく。


そういえば、君があの時よく弾いていた曲は何だったっけ…


高校三年生の秋。

古びた寒い校舎の三階、端には空き教室があった。


誰も近寄らない、用途も知らない空き教室。

その扉を開けると、寂しそうにぽつんと置かれたアップライトピアノと君がいた。


別に目立つわけじゃないし、特に話したこともないクラスメイト。

特に気にしたこともなかった彼女は、寂しそうに見えた。

そして、なによりも…


「何してんの?」

僕は声をかけた。

「ピアノ弾いてただけ」

「それは見ればわかるけど」

「ただそれだけだよ」

僕が彼女をよく知らなかったように、君も僕のことなんて興味がない。

そんな様子だった。


「ピアノって…音楽室にもあるのに」

「だって、あそこは合唱部が使っているでしょ?」

「まあ、そうなんだけど。じゃあ、なんのために?」

「言いたくない」

「そっか…」

とにかく彼女のことが知りたかった。

どうしてピアノを弾いているのか。

でも、君は答えてくれなかった。


「それより、なんであなたがここにいるの?」

「いや、音が聞こえてきたから気になって」

「そう」

君はそっけなかった。

よく知らないし、仕方ないか。と思いながら僕は教室の引き戸に手をかけた。

僕も受験とかで暇ではない。


「ねえ、どうせなら聞いていったら?」

「…え?」

しばらく呆気にとられた。

「私のピアノ、誰にも聞かせたことなかったから」

「それなら…」

流れで僕は少しだけ、彼女のピアノを聞くことになった。


にしても、ピアノを弾いているイメージなんてなかった。そもそも、よく知らなかったけれど。

よく見ると、指は不安になりそうなほど細い。あんな指でピアノが弾けるのか…


「じゃあ、弾くよ」

君が指を鍵盤に置く。



衝撃だった。

君の音は、僕の心を一瞬にして掴んだ。


細い指が鳴らしたとは思えない重々しい音。

目に見えないほど、なめらかに動く指。


今でも不思議だと思うけど、君の音には何か説得力というか、心を動かす力があった。


狭い教室に反響した音。

ページをめくる音。

ペダルを踏み込む音。

すべてが僕を包み込んだ。


なんて、きれいなんだろう…


「…どう?」

少し恥ずかしそうに、君は言う。

「…すごい!めっちゃ上手いし、なんていうか…迫力っていうか」

上手く言葉にできない。けど、とにかく素晴らしい。そんなピアノだった。

「そう、かな。ありがとう」

「こんなに上手なんて知らなかった。それに、なんていうか僕は好きだって思うよ」

「…そんな大したことないけど」

どうして、こんなに心を掴まれるんだろう。


これが、彼女との初めての出会いだった。


僕はその日、寝ようとしても彼女の曲が頭から離れなかった。

あぁ、曲名を聞いておけばよかったなぁ。


数週間が経つ頃には、僕は放課後あの教室に行くことが習慣になっていた。

「今日も来たの?」

「なんていうか、君のピアノ聞きたいし」

「そっか」

相変わらず言葉数は少ない。けれど、少しだけ角が取れたような気がする。


「今日は何弾くの?」

僕はそう尋ねる。

というのも、初めて聞いたあの曲を彼女は二度と弾かなかった。

「ショパンのエチュード」

「へぇ」

「いい曲だよ」

そう言い、彼女は鍵盤に指を落とす。


僕はピアノに興味なんてなかった。

でも、あの日君と出会ってから少し調べた。

その頃にはもう、ピアノにも君にも随分と飲み込まれていた。


流れるような指が奏でるフレーズ。

なぜだかわからないが、秋風にさらわれて舞う枯れ葉のように聞こえた。


「…秋っぽい曲だね」

僕がそういうと君は少し嬉しそうな顔をした。

「そうなの。木枯らしって言う曲ね」

「そうなんだ。なんか難しそうだね」

「難しいけど…」

君はそこで言葉を止める。


「どうしたの?」

「私ね、音大受験するの」

彼女がそういった。

なるほど。そのためのピアノだったのか。


僕らは出会ってから色んなことを話した。

でも、君がピアノを弾く理由は、今初めて知った。


「そう、なんだ。それでピアノ弾いてたんだ」

「…そう」

「でも、どうして今になって?」

「…誰にも言わなかったから」

「そうなの?」

「私ね。ピアノを弾くことは好きだった。だけど、誰かに聞かせたことなかったの」

「…うん」

「だから、ピアノで受験しようと思ってはいたけど、不安だったの。誰かに言ってもきっと無理だって笑われると思ってた」

「でも、僕には言ってくれるんだ」

「…聞いてくれたから」

「それだけ?」

「それだけ」

君が音大を受験するなら応援したい。

なにより、僕はもう君の音に飲み込まれていた。


「君ならできるよ!頑張って」

「…あなたならそう言ってくれると思ってた」

そう言って彼女は笑った。


時は流れ、いろんなことがあった。

彼女は音大を受験した。

結果は合格。

春からは東京の大学に行くらしい。


僕はというと、神奈川の大学を受験した。

受験が近づくと空き教室に行く頻度は減ったが、君の音は密かに僕を応援してくれた。


「合格おめでとう。あなたなら受かると思ってたよ」

「…君も。ずっと前のことだけどおめでとう」

「あなたが私の音がいいって言ってくれたから」

「それなら僕も。君がピアノを弾いてたから頑張れたって、思うよ」

「なにそれ、恥ずかしいね」

「うるさいなぁ」

ニ月。そろそろ、卒業が近づく。

新生活が待っているということに多少心は踊ったが、僕には心残りがあった。


もう、君の音が聞けなくなるんだ…

そう思うと、どうにも耐えられなくなった。


「ねえ、あのさ…」

「なに?」

「…なんでもない」

僕は言いかけた言葉を飲み込んだ。

君は東京でもピアノを弾くんだ。

僕の入る隙なんてどこにもない。

好きだっていう気持ちも、君には迷惑をかける気がしていた。


そしていよいよ、卒業式。

泣くクラスメイト。まだ進学先が決まらなくて暗い顔をしたクラスメイト。

色んな人で溢れかえった教室を後に、僕はあの教室に向かう。


確証なんて、ない。でも、君ならきっと…


「こっち来なよ。座って」

教室を開けると君は、座っていたピアノの椅子を軽く叩いた。

「…いいの?」

「いいよ。座って」

少し強引に誘われ、僕は狭いピアノの椅子に腰掛けた。

君の肩が微妙に触れない距離にあるのがわかった。

なんだか、とてもドキドキする。


「この曲、覚えてる?」

「もちろん…覚えてるよ」

君はあのときの曲を弾いた。

あれから一回も弾かなかったのに。


相変わらず君の音は素敵だ。

三拍子の心地よいリズムと、少しだけ哀愁を帯びていながら優しいその音は、僕を君色に染めた。




「…好き」

思わずに呟いた。弱々しい僕の声は、力強い君の音にかき消された。




「どうだった?」

君は笑顔で言う。

「…良かったよ」

どうやら聞こえてはいないみたい。

でも、それでいいんだ。僕はきっと君の邪魔になるから。


「これでお別れだね…寂しいね」

「うん」

「元気でね」

「君こそ。プロになったら聞きに行くから」

「…待ってる」

少しなにか言いたげな顔をした君は僕にそう言った。

ずっと待ってる。また君の音を聞ける日を…


最後の下校を知らせるチャイムがなる。

教室から出た僕らは、門を出た。

「あのさ…」

君が何かを言いかける。

「ん?」

「なんでもないよ。元気でね…」

「君こそ、頑張って」

「うん。忘れないから」

「僕も」

ああ、これでお別れなんだ。

でも、これでいいんだ。

今、ここで君に想いを伝えても…


数センチ伸ばせば届く距離に、僕は怯えた。


「忘れないよ…あなたも、あなたの言葉も」

彼女のその言葉は、僕には届かなかった。





もうそろそろ、四年が過ぎようとしていた。


少し勇気を出していれば届いた距離だったのに。

あの時はあの教室が僕らのコミュニケーションだったから、連絡先すら交換していない。

もう連絡する手段なんてない。

今でもなんだか、もどかしい。


今でも、思い出す。

君も、君のピアノも。

たまに夜思い出して、切なくなる。


でも、あの曲名は思い出せない。

というか、思い出したくないんだ。


また君に会えたら、教えてもらおう。


そんな願をかけたような僕の想いは、

不意に吹いた秋風にさらわれた。

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