世界は私が思っていたよりも広かった

紫月 文

世界は私が思っていたよりも広かった

 自分の夢を絶対に叶えてやると意気込んで上京したあの時からもう4年、とうに貯金は尽き、生活していくためだけのバイトに時間の大半が消費されていく現状に耐えられなくなった私はついに帰郷した。夢は叶わなかったし、そのスタートラインにすら立てていたのかどうか分からない。情熱は消え去り、無心で接客をこなす日々だった。とにかく、私は失敗したのだ。そんな私を嫌な顔をせず迎え入れてくれた両親には感謝しかない。


「1カ月くらい休養して、そのあとこの辺りでゆっくり仕事を探せばいいから」


 と母は言ってくれた。私の部屋は以前と同じようにしてあるからそこで寝るということになったが、夕食の時にふと思い出したことを実行してから今日を終えることにした。


 日が落ちて間もなく、私は母に借りた自転車を走らせた。高校時代の思い出の場所に向かうためだ。全速力で自転車を漕ぎながら、私は自分の高校時代を思い出す。高校時代の私は、良くも悪くも優等生だった。与えられたことだけをきちんとこなし、親や先生の言うことだけをちゃんと守った。非行や怠惰を責められない代わりに、情熱や独創性が微塵も感じられなかった。


 それが変わったのは高校3年生の夏、東京の大学で開かれるオープンキャンパスに足を運んだ時だった。大学だけではない、東京という場所を目の当たりにして、私は自分の置かれた環境がいかに生ぬるかったのかを理解した。そして、東京に出て起業して自分の力で成功するという、人生で初めての夢を持った。


 それ以降の私はそれまでの私よりも希望に溢れていた。およそ半年しか残っていない高校生活を全力で使い、様々なことに挑戦し、様々な失敗を経験した。その期間が私の人生で最も濃密な時間だったと思う。そんな私はいつしか、勉学でも、部活でも、進路のことでも、何か大きな問題に直面するようになり、そういう時には決まってその場所で過ごすようになっていた。

 

 「よかった。今でもまだ入れる」私は少し安堵した。ほっと溜息をついて扉を開ける。とある建物の屋上。私だけの秘密の場所。そこからは見下ろす街も、見上げる月や星も、私が日々神経をすり減らしながら惰性で生きている世界と同じとは到底思えないほど綺麗に映った。だから私はここにいる時間が大好きだった。どんなに冷たく汚い世界でも、ここから見れば美しく見えたから。そしてそれは昔も今もずっと変わってはいないし、これからも変わることはないのだろう。その意味で、私とは真逆の場所だった。


 何が間違っていたのか、と私は自問する。情熱に任せて自分の能力を過信したことだろうか、誰の力にも頼らず、自分一人だけで成功しようとしたことだろうか、大学で知識や経験を積まなかったことだろうか、それとも今の私が見落としているもっと重要な要素があるのか。ともかく、私はこの場所に来て初めて、落ち着いて自分を客観的に見ることができたような気がした。


「世界は私が思っていたよりも広かった」


 東京で実感したそれが今の自分にはより鮮明に感じられた。


 帰りの自転車は安全運転で、家に着くとすぐに長風呂に入った。私の部屋にはまだ、何をするにも全力だった時の私が微かに息づいていた。壁に掲げられた自分に向けてのスローガンが目に入ってきたが、わざわざ剝がしはしなかった。そうして私は、何を考えるでもなく明日のために静かに床に就いた。

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世界は私が思っていたよりも広かった 紫月 文 @shidukihumi

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