弱者、強者

 海斗はちょうど一時間経って戻ってきた。その頃には安藤は仕事に戻っていて、事務室は三人になった。


「とにかく時間が無い。こっからはスピード重視でいくぞ」


 由奈に状況を一通り説明した後、三人は机で額を突き合わせるように作戦会議を始めた。というよりも、海斗の作戦を聞いていた。


「まずは安藤さんの持ってる大麻をどう生かすか、だ」


 海斗は得意げに声を潜めた。まるで秘密基地の計画を思いついた小学生のように。


 ——手っ取り早く、社内の人間を貶めようと思う。

 社長秘書の周辺を探ってる時に『ちょうどいい人材』を見つけたんだ……何が『ちょうどいい』のかは接触してみてのお楽しみ。

 そいつに潜り込み、大麻を所持していると『思わせる』写真を撮る。そして写真をマスコミと警察に流す。


 誰が、と聞こうとしたら、海斗の嬉々とした目が茜に向いた。


 ……茜、いけるな?


 ***


 今野はその日の会社帰り、行きつけのバーに寄ろうと電車を途中下車した。

 バーに行くのは久しぶりだ。行かない期間が長くなるにつれて、比例するように疲れが溜まっていた。凝った肩を回しながら小さくため息を吐く。


 ここ最近は残業続きだった。それも今野の担当する仕事のせいではなく、最近あった『事件』の後処理のせいで。


 というのも、ほんの数日前の夜、何者かが本社に不法侵入したのだ。社長室が漁られた形跡があり、金庫も開けられていたという。盗まれたものがあったのかは調査中らしいが、何かしらは盗られているだろうと今野は思っていた。


 それだけなら、百歩譲って許せる。

 しかし不法進入があった同じ日の同時刻、社長が密かに企てていた裏事業が失敗したのだった。


 運のいいことに警察沙汰にはならずに済んだため、最悪の事態にはならなかったが、問題は同じ日に二件も事件が起きたということだ。


 社長は自身の企みが失敗したことにより機嫌が悪いし、その二つの事件の関連性を疑って関係者の中に外部との内通者がいるのではと神経を尖らせている。


 今野ももちろん、裏事業の関係者だった。目的が武器のバイヤーになって裏の人間から儲けを得るためであることも、社長にそれを持ちかけたのが秘書であることも聞いていた。


 だからといって疑われては迷惑だ。社長の恨みを買うようなことなどするわけがない。今野には『目をつけられては困る』理由があるのだ。


 そうだ、久しぶりにその『悪友』にでも連絡してみよう。暇なら飛んで来るかもしれない——


 ケータイを取り出しながら、今野は店の扉を押し開けた。扉の軋む音とカランコロンと鈴の音がして、静かで落ち着いた雰囲気が漂ってくる。


 いつも座るのはカウンター席の壁際から二つ目。しかしその日は先客に取られていた。


 若い女だ。せいぜい二十五、六くらいだろう。長い黒髪をお団子にしている。洒落た格好でスマホをいじっているから、彼氏と待ち合わせでもしているのだろう。


 ツバのついた女はいても意味がない。

 今野はその女から二つ空けて腰掛けた。


 意味がないと思いつつ、今野は隣をチラリと見た。

 彼女はいつから待っているのだろう。

 グラスの中身は減っていないのに、グラス自体はずいぶん汗をかいている。氷の溶け具合からしても来たばかりでないことは確かだ。


 あれが男待ちでなければ、良い酒の肴になったというのに。


 そんなことを思っていたら女のスマホが震えた。

 女は待ち焦がれたようにスマホを手に取り——悲しそうな顔をした。

 そして画面を下に向けてスマホを置く。


 ……もしや?

 今野は内心ニヤついた。

 女が俯きがちになるのを見て、今野はグラスを持って体を女の方に向けた。


「彼氏が来ないのかな?」


 話しかけると、女の瞳が驚いたように今野に向いた。ほらそれ、と今野は女のスマホを指す。

 あぁ、と呟いて、綺麗に化粧された顔が悲しそうに崩れた。


「仕事が長引いたから、って……本当かな」


 しめた、と思いつつ、今野は肩をすくめてみせる。


「どうかな、彼が仕事熱心なら本当だろう?」

「仕事人間ではあるけど……約束すっぽかされたのはこれが二回め」

「なんだ、うまくいってないのか?」

「……そうかもしれません」


 女が汗のかいたグラスを指でなぞる。いじらしくて、艶やかだ。

 彼氏よ、こんないい女を放っておくのはよくないぞ。

 今野はほくそ笑みながら、空いている席を一つ詰めた。


「どうだろう、連れがいないもの同士、一緒に話さないか?」


 すると女は悲しそうに笑って、小さく頷いた。


 綺麗だ。

 お世辞抜きにそう思えるほど、目の前の不幸な女は整っている。

 白い肌に映える、黒く艶のある髪。意志の強そうな目は弱っていて、赤めの唇もキツくない。グラスを弄る指は細く、スラリと伸びる長い足には無駄な肉がない。


 これは——そこらに転がる安い女より、ずっと良い酒の肴になりそうだ。


 今野は幸運に感謝しながら、女とグラスと合わせた。

 ルナです、と女は名乗った。旅行会社に勤めているらしく、彼とは取引先で出会ったらしい。


 そうして酒を飲み交わし、ほどよく酔いが回ってきた頃、女はお手洗いに席を立った。

 クラッチバッグを片手に抱え、もう片手にはスマホを手にしている。


 約束をすっぽかされたとはいえ、彼氏とのやりとりは続いているのだろう。

 チラリと寂しさが過ぎるのを感じながら、女を見送る——と。


 クラッチバッグから、小さな袋が落ちた。


 女は気付いていないようで、今野は咄嗟に拾って声をかけようとする。

 しかし拾った拍子に、透明なビニール包装の中身を見てしまう。今野は思わず手を止めた。


 乾燥し、粉々に砕かれた植物。

 反射で頭に浮かんだそれの名前は——


 今野は浮かれた酔いが覚めるのを感じた。

 ちょうどその時、今野のスマホが光った。バーに来る前に連絡した『悪友』からの返信だった。


 それを見た今野の心中で、悪魔が笑った——


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