笹井さんは気づいてる?

九乃カナ

笹井さんは気づいてる?

第1話 笹井さんは気づいてる?

 僕は人を殺した。昨夜のことだ。まだ手に血の感触が残っている。手を見ていると、赤く染まっているように錯覚する。

「うわぁー」

 本当に視界が真っ赤に染まった。手が血濡れている。感触は錯覚ではない。彼女の血が。血が。

「渡辺くん、ごめんなさい」

 声をかけてきたのは笹井さんだ。手に缶をもって立っている。

 ここは中学校の美術室。僕は課題の絵を放棄して物思いにふけっていたらしい。笹井さんはとなりの席で、目を向けるとからっぽの席に画用紙は手つかずのまま暇を持て余していた。

「絵の具がもったいないから、いい?」

 笹井さんは僕の手を取る。お、女の子の手がっ。お互いの手をぬるつかせて、僕の手は笹井さんの画用紙に押しつけられ、血ではなかった赤の絵の具をこすりつけ、僕たちの淫靡な行為は現代的な模様を、なしているか? 絵心はないらしい。発想だけ現代的。

 僕は手の感触だけ得をしたような。いや、絵の具をぶっかけられて大参事じゃねえかぁ! なにしてくれてるんだぁー! 笹井さんは画用紙に塗りたくるため、缶に大量に絵の具を用意したのだろう。水道からの帰り、なにもない床でつまづいたのか? ほとんど僕がかぶったわけだ。勘弁してくれ。

「ふんっ」

 手の絵の具がつかないように手首のところを腰に当てて仁王立ち、満足げだ。

 いやいや、赤の部分は塗り終わった、みたいな満足感は隠しておこうよ。被害者が目の前にいるんだからさぁ。

「なんだっけ。ああ、渡辺くん。次は黒なんだけど」

 なんだっけってなんだよ、存在を忘れてたのかよ。手伝わないぞ。また頼むよみたいな流れにもっていこうとしているけど、もともと手伝う気なんてないからなっ。


 笹井さんからの攻撃をかわしてどうにか手を洗いに行き、席に戻ったところで美術の授業は終わった。教室の自分の席に落ち着く。はぁ。ひどい目にあった。手にまだ赤い血が、いや絵の具が洗い残されている。爪のまわりとか。

「あの、これ」

 教室でもとなりの席の笹井さんが、僕に体操着のジャージを渡してくる。

「え? これは?」

「絵の具で汚しちゃったから、よかったら着て」

 僕も体操着もってきてますけど? 給食の前、体育で着てましたけど? って、笹井さんが体育で着たほかほか体操着を僕に着ろって? どんなプレイだよ! 嫌いじゃない。嫌いではないが。笹井さんのほかほかジャージ。

「サイズは大丈夫じゃないかな」

 恥ずかしそうに言うけど、僕はたしかにちっちゃいし、着たらたぶんジャストサイズなのは悔しいけど、そこじゃないからな。

「いいよ、自分のあるから」

「くさくない?」

 失礼だな!


 僕は午前中、自分の思考の中に沈んでいてまわりが見えていなかったのかもしれない。なにも気づかなかった。今は、笹井さんがめっちゃこっちを見つめてくるのが、気になってしかたない。もう、なんなんだよぉ。

 笹井さんが、どう見つめてきているかというと、イスから体をこちらに乗り出して顔を精一杯ちかづけている。そんなにしたらバランスくずしてイスから落ちるんじゃないかってくらいだ。

「あっ」

「へ?」

 笹井さんが声をあげて、僕の方に倒れ込んできた。つい僕まで声が出てしまったじゃないか。しかも間抜けな。

 笹井さんは頭から突っ込んできて、危険を感じて体を机から離そうとした僕の股間に、顔をうずめた。勢いはそれで止まるわけもなく、仰け反って、床に手をついたけれど、僕の股間からずり落ちる頭を支えられず、額を床に打ちつける音が教室に響いた。

「きゃー、なに?」

「どうした?」

 イスは倒れたし、笹井さんは頭を床に打ちつけて倒れているし、気づかれないはずはなく。教室は騒ぎになり。でも僕は股間に笹井さんの頭の感触が残って、きっと笹井さんも頭に僕の股間の感触があったわけで、なんだかとっても恥ずかしい事態になった。そっちの方が気になって仕方なかった。

 それに、笹井さんは僕が人を殺したことに気づいているのではないかという疑念を、僕はやっと抱いた。

「どうした渡辺、なにがあった」

「ああ、いやあ。さあ」

「大丈夫か、笹井」

 先生の言葉も周囲の喧騒も頭にはいってこなかった。

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