あしたへ

汐なぎ(うしおなぎ)

長い夜の始まり

 夜のとばりが降り、銀色に輝く冷たい三日月のかかった空の下、少年は独り、ひざを抱えてうずくまっていた。月明かりに照らされた薄茶色の髪が風に吹かれて辺りに光をまき散らすのも知らぬ気に、ただじっと目の前に流れる小川を見つめている。


 ぽたり


 少年の目から一粒ひとつぶしずくが落ち、小川に小さな波紋はもんを作り、水面みなもに映る三日月を粉々に砕いた。


 月が形を取り戻しては砕き、取り戻してはまた砕く。


 それが幾度いくどか繰り返された後、水面のざわめきを鎮めるように、どこからともなく竪琴たてごとの音色が聞こえてきた。


 ポロン……


 ポロン……


 美しい竪琴のにのせて、綺麗な歌声が聴こえ始める……。



  涙でった小さな川の

  きつく先は悲しみのふち


  深い深い孤独こどく水底みなそこ

  傷つき疲れた体を沈め

  あなたはなにを願っているの?


  冷たい月に心は凍り

  あなたは そのまま 死んで逝くだけ


  冷たい氷を溶かすような

  そんな 暖かい想いが欲しいなら

  嫌になるほど あなたにあげる


  だから 涙をふいて顔を上げて

  泣いてちゃなにも 始まらないから



 やがて歌声も止み、竪琴の音も聴こえなくなると、少年はゆっくりと顔を上げた。そして、歌声のぬしを探すように、泣きはらした真っ赤な目のまま辺りを見回す。


 すると、しばらくして、少年は大きな木の陰に小さな少女が立っているのを見つけた。少女の輪郭りんかくは、冷たい三日月の光を背にうけて、神秘的な輝きにいろどられていた。


 少年は女の様子をじっと見る。


 頭の上でゆらゆらと風に揺れる大きなリボン。手には小さな竪琴。ひらひらと風になびくワンピースのすそ……。


 少女は視線に気付くと、ニッコリと笑って少年の前に飛び出してきた。


「はじめまして」


 少女はそう言うと、ワンピースの裾をつまんで、ゆっくりとお辞儀じぎをして見せる。少年はその様子をぼんやりと眺めながら少女にたずねた。


「誰?」


 唐突とうとつにたずねられ、少女は面食めんくらったように、もともと大きな目を更に大きく見開くと、ふてくされたように、そっぽを向いた。


「誰って……。そんな不躾ぶしつけに質問するのって失礼よ」


「じゃあ、なんて言えばいいのさ」


 問いかける少年に、少女はニッコリと笑って答える。


「人に名前を聞く時は、自分の名前を先に名乗るのが礼儀ってもんでしょ」


「僕の名前?」


 少年が聞き返すと、少女はすました調子で答える。


「そう。だから、もう一度やり直してごらんなさい」


 少年はズボンの汚れを払いながら面倒めんどうくさそうに立ち上がると、ゆっくりと口を開いた。


「僕の名前はシェサ。君の名前はなんて言うの?」


「あたしは歌の精。人間たちは、あたしのことを『ルティア』って呼んでるわ。世界中のあらゆるものを歌にするのが、あたしの仕事なの。よろしくね」


 ルティアが自己紹介を終えると、シェサは彼女の顔をまじまじと見つめてからポツリとつぶやく。


「嘘だよ」


 それに、ルティアは不思議そうに首をかしげる。


「嘘って、なにが?」


「だって『なんとかの精』って言うのは綺麗きれいなものだよ。なのに、ルティアってちっとも綺麗じゃないもの。……それに、歌の精って割には、詩も下手じゃない」


 シェサは、ルティアがなにも言わないのをいい事に、しれっとした顔で自分の感想を最後まで述べる。ルティアはシェサの態度に腹は立ったが、それでも気持ちを落ち着けるように、一呼吸ひとこきゅうおいてから話し始めた。


「あのね。歌の精なんて、歌が上手ければいいの。声が良ければいいの。それに、あたしは確かに綺麗じゃないかもしれないけど、人間界の『かわいい』の基準には入ると思うのよね。それに詩が下手なんて言ってくれたけどさ。あんたが泣いているからなぐさめようと思ってうたってあげたのよ! 文句言われる筋合すじあいなんてないんだから! そんなに下手だって言うならあたしより上手く作れるんでしょうね⁉︎」


 ルティアは感情をおさえようとしていたはずなのに、最後の方は見事に爆発して、ほとんど発狂寸前はっきょうすんぜんの大声でわめき散らしていた。それに対し、シェサはそっぽをむいて答える。


「慰めてくれなんて頼んでないもの……」


 それだけ言うと、また地面に座り込む。


「なによ! こっちだって、あんたがいくら泣こうがわめこうが、知ったこっちゃないわよ! でも、月も小川も森も、皆あんたに同調して騒めいてるのほっとけないじゃない!」


「じゃあ、僕なんか構ってないで、どっかへ行けばいいだろ」


 相変わらず淡々たんたんと話すシェサの声に、ルティアは悲しそうに俯く。


「だって、あたしがいなくなったら、あんた、また泣くじゃない……」


「関係ないだろ」


「だって、そうしたら、またあたしの仕事が増えるじゃないの。歌をうたってみんなを幸せにするのが、あたしの役目なのにさ……」


 困ったように言葉をつむいでいるルティアに、シェサがニッコリと笑いかける。


「じゃあ、僕と一緒にいればいいじゃない」


 シェサはそう言って、小川の水で顔を洗うと、また立ち上がる。ルティアはその様子をぽかんと見ていたが、あきれたように大きく息をはくと、シェサの背中に向かって叫ぶ。


「なんて子なの! なんて子なの! なんて子なの!」


 ルティアは不満そうにしながらも、シェサの後について、月と星の光に彩られた小川の隣を沿うようにして歩いた。


 出発する前に、シェサは一度だけ笑顔を見せたが、あれからは口も聞かずに歩いている。そんなシェサの様子に、ルティアはつまらなそうに足元の小石をった。


「ねえ。なんであんなところで泣いてたの?」


「別に……」


 シェサは、ルティアの質問に面倒くさそうに答える。


「じゃあさ、いったいどこに行こうとしてるの?」


川下かわしも……」


「ねえ。夜って人は眠るものでしょ? なんで休まないの?」


「疲れてないもの……」


 ルティアは、だまって歩いていてもつまらないので、退屈しのぎに話しかけているのだが、シェサのそっけない答えに、会話はすぐに途切れてしまう。


「ふう」


 ルティアはため息をひとつつき、諦めたあきらめたように黙り込む。二人の間に沈黙ちんもくが流れると、自然の騒めきが音楽のように辺りに満ち始めた。


 三日月の光、小川のせせらぎ……。


 ルティアはそれらのかなでる音楽を聴きながら、持っている竪琴を「ポロン」とかき鳴らす。


  月だけが見てる


  月だけが見てる……


 同じ言葉を同じメロディにのせて、何度も何度もうたってから、ルティアは竪琴を弾く手を止めた。


「ねえ。この続き、なにがいいと思う?」


 シェサに尋ね、ルティアはまた竪琴をかき鳴らす。


  月だけが見てる


  月だけが見てる……


 一向に答える気配のないシェサに、ルティアはつまらなそうに視線だけ向ける。


「なにか足りないのね。だから歌が出来ないんだわ……。シェサ、あんた、まだ、あたしに話す事あるんじゃないの?」


 ポロン……


 ポロン……

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