陽炎の夜

御伽話ぬゑ

プロローグ


「待って・・!」


 己の発した悲鳴に驚き見開いた彼女の視界に、無機質な白い天井が広がる。

 自宅の檜天井とは、違う。


 あら・・どこかしら?


 彼女は、仰臥したまま視線だけを緩慢に周囲へ滑らせ、頭のネジを絞め直すようにして記憶を手繰り寄せ始めた。

 早朝の白み始めた空間は、大量生産品らしき特徴皆無のテーブルと椅子が二脚だけの殺風景さである。花一輪、写真一枚、ない。けれど、窓を覆う桜色のカーテンと、暖色の花柄カバーに包まれた掛け布団を見る限り、病院ではなさそうである。そこまで確認して、やっと思い出した。

 ここは、三ヶ月前から暮らしている有料老人ホームの一室だ。

 先程、懇願の声を漏らしたのは、彼女の夫が殴り掛かってくる悪夢をみたからである。だが、当の夫は、要介護五の寝たきり状態となった末、二年程前に肺炎を拗らせて他界。夢で怯えた恐怖や介護は、とっくに過去の遺物だという事実に辿り着いた彼女は安堵した。同時に萎縮していた体がどっと脱力し、寝汗で濡れた浴衣が纏わり付いてきて不快感を催す。

 物故して二年が経過しているにも拘らず、未だ妻の夢に侵入し、狂虐を再現する夫。躯は葬っても、記憶まで遺忘することは許さんとでも言うのか。こうして、陰鬱な目覚めを迎えることが、度々ある。


 だけど、もうあの人は、この世のどこにもいないのだわ・・

 怯えることは、ない・・はずよ・・


 繰り返し言い聞かせ、残夢を思考の隅に追いやると、腰痛が自己主張を始めた。

 彼女を地味に悩ます腰痛は、夫の没後に発症したもの。

 夫の葬儀の翌日、突然襲われた激痛を抱えて這うように訪れた整形外科で、体が歪みの影響で湾曲した背骨への負荷のため、仙骨が磨り減っていると見立てられたのである。

「随分と無理されてたようですね。でも、そのおトシで、これだけで、済んでるんですから、お元気ですよ」

 医者が感心するように、彼女はペースメーカーや人工関節などの医療器具の類い、杖や車イスとは無縁で、入院経験や度重なる手術経験もなく、調子の悪い差し歯と、最近目立ってきた老眼が気になるくらいの御歳九十七。健康な部類に属する高齢者だ。だが、彼女は頬に手を添える。納得いかない時の癖である。


 この丈夫な体が、仇になったのよ、きっと・・


 彼女は己の健康体を、悲憤慷慨していたのである。

 幼少時から、頑強な肉体に恵まれ、人より治癒力が高かった彼女は、通常ならば大怪我になることも、擦過傷や切り傷、痣やたん瘤程度で済む。亡夫が存分に暴力を奮っても壊れないサンドバッグであった。夫が脳梗塞を起こし、半身麻痺状態の寝たきりとなってからは、凄惨を極めた暴力被害。癇癪を起こしたら最後、暴れだす夫は、動ける半身で叩く、噛み付くだけでは飽き足らず、掴んだ物を投げるのである。自由に動けない夫の苛立ちが変換された物品が、脅威の速さで飛んでくる恐怖。食器や介護用品を始め、尿瓶、枕元で花を生けていたガラスの花瓶や、飲み終わったコーラの瓶が飛んできたこともあった。当たれば大怪我、大惨事である。彼女がどれだけ怨嗟し、気絶や脳震盪を切望したかは想像に難くない。広い屋敷内では通報もされなかった。我ながら、よく殺されなかったものだと呆れてしまう。そうして生き延びたが、整形外科から帰宅した途端、燃え尽きた。


 疲れたわ・・


 虚無で覆われ、呼吸すら億劫になった彼女は、然りとて生死を選択するでもなく、廓寥とした家中を閉め切り臥せっていた。死んで夫の召使いはご免被りたいが、生きるための動力は枯渇していた。茫然自失のまま過ごし、餓死寸前のところを、偶然訪問してきた区役所のケースワーカーに発見されたのである。

 パグに似た目元を眼鏡で囲ったケースワーカーの小娘は、仏頂面をぶら下げて急遽弁当を買いに走ってくれた。

 そして、曇った眼鏡が乗った小鼻に皺を寄せ、購入した弁当を彼女に渡しながら、忌々しそうに切り出したのである。

「住替えられては?」

 憔悴しきっていた彼女は、無言のまま弁当を受け取り、蓋を不器用に開封すると、庭に視線を移す。椿が咲いていた。

「こんな大きな家に独り暮らしなんて、現実的じゃありません。非効率です」

 黒ぶち眼鏡に吹き出物の目立つ小娘は、二十代だろうか。独り立ちしたばかりの、マニュアル頼りの過剰な自信が漲っている物言いだ。なにが現実的だ。なにが非効率だ。なにかと小難しい言葉を陳列し懐柔しようとするやり口が、いかにも頭でっかちの大学出である。

「・・余計なお世話よ」

 久方ぶりの食物で生気が湧いてきた老婆は、椿から目を離すことなく意固地な呟きを漏らした。小娘の目元がぐにゃりと歪む。マニュアルにはない例外らしく、小娘は尖った口で反論する。

「私が来なかったら、間違いなく餓死してました。孤独死、ご存知ですよね?」

 彼女の視線はひたすら窓の外、椿に注がれていた。

「・・そうなったらそれまでよ」

 融通の効かない役人は嫌いだし、高齢者は子ども同然だと侮辱している上に、世界で一番自分が正しいと勘違いしているらしい生意気な小娘には辟易する。

「世の中には、生を渇望するのに叶わない不憫な方々が、星の数程います。贅沢なことです。健康なことは、幸福なことなのに」

「健康だったから、ずっと夫に殴られてても、死ななかったのよね。なんて贅沢で幸福なことかしらね」

 昔話に登場するヤマンバのように伸び放題の白髪頭を振り乱して、弁当を搔っ込んで皮肉を垂れる老婆の言葉に、小娘は異物が喉に詰まったように顔を顰めた。老婆は、こう言えばああ言う。拉致があかないと悟った小娘は、腕時計を一瞥すると、小さく咳払いをして立ち上がった。

「とにかく、衣食住が満たされる老人用住宅への入居をお勧めします。なにがあってもおかしくない歳で、一人暮らしは危険過ぎる。老人用住宅の資料をいくつかお持ちしますので、考えてみてください」

 老婆は鼻を鳴らすと、ぷいっと横を向いた。

 去り際にふと立ち止まった小娘は、老婆を顧みた。眼鏡が反射して白く光っている。

「これからは、残りの人生の時間をどう使っていくのかが課題なんです。自分の幸せだけを考えてみてください」

 小娘の捨て台詞『自分の幸せ』という言葉が、彼女の心にすっと刺さった。

 椿が一つ、ふつりと落ちて、小娘に対しての罪悪感が一瞬過った。

 結局、それから半年後、弁当持参で粘り強く通ってきた小娘の口車に乗せられるようにして、最終的には荻窪にある介護つき有料老人ホームに申し込む羽目になったのである。幸か不幸か間もなく空きが出るとのことで、数ヶ月後の入居許可が下りた。彼女は夫の生命保険で、入居費用と向こう二年分の家賃を先払いし、家は不動産屋に委託した。無事に売却されれば、その資金を家賃に当てるつもりである。

 こうして、小娘が訪ねてきてから約一年半後。

 彼女こと佐伯節子は、『介護つき有料老人ホーム スノードロップ』への移住が決定したのである。

 引越しの荷造りと言っても、ベッドを始めカーテンからテーブル、椅子やソファーまで備え付けられ、風呂場も食堂も完備されているので、僅かな小物と肌着、数枚のタオルと、衣類としては、祖母から譲り受けた藍染めの着物と帯が一本に、台所の板敷きの下に長年隠しておいた節子が二十歳になったお祝いに祖母に買ってもらった宝物である千鳥格子のAラインワンピースと黒いウールのステンカラーコート、寝間着にしている朝顔の浴衣のみ。段ボール一つで事足りる内容だ。

 衣類が極端に少ない理由は、それ以外を全て廃棄したからである。

 倹約家の夫の影響で、彼女が着ることを許されていたのは、お下がりや古着などの薄汚れた地味な服だった。節子が好んで着ていたわけでも、思い入れがあるわけでもない。なので、捨てた。そうして取捨選択して身軽になり、第二の人生に踏み出す決心を固めた節子。ツクツクボウシが鳴く杪夏の頃である。



 食堂の窓際に設置されたカウンター席の端っこに陣取った節子が憂鬱そうに朝食の箸を動かしていると、トレーを持った『スノードロップ』の館長、井出妙子が近付いてきた。

「おはようございます。佐伯さん、お隣、いいかしら?」

 節子は、誰も隣に座れないように、わざと膝掛けを置いていた。それをどかせと言うことらしい。

 拒めそうもない雰囲気を察した節子が不承不承、膝掛けをどかすと、館長は椅子を節子に少し近づけて腰を下ろした。

「佐伯さん。いつも、どちらに、お出かけなんですか?」

 介護ベテランの貫禄を放つ井出妙子館長は、作ったような薄笑いがトレードマークである。

 白髪は染められているが、顔や手の皺や滲みから七十くらいの歳だと推測された。淡い色のカーディガンの下にはウサギ柄のエプロンをかけ、手編みらしい小豆色のネックウォーマーを常に首に巻いている。温和な口調とは裏腹に、入居者の行動を常に把握する油断ならない館長。これまでのやり取りから、節子は彼女にそんな印象を持っていた。節子の行動を探る糸があからさまな井出の質問には、用心しなければいけない。

 『介護つき有料老人ホーム スノードロップ』の生活は、予想していたものとは違ったのである。

 どこに行くのか、なにをするのか、なにを食べたのかまで、日に何遍も、人を変え手を変えして、のべつ幕無しに質問される毎日。まるで、監視されているようで息が詰まった。馴染めない環境から逃れたい一心で、節子は用もないのに外出申請を提出し、頻繁に外出するようになった。井出館長はそのことを確認したいのだ。節子は、煩わしい!放っといてちょうだい!と怒鳴りたいのを辛うじて飲み込む。

「習い事やお友達との付き合いでね・・」

 嘘をついた。習い事の経験は皆無で、友人はいない。

「あら、初耳ですね。どんな習い事をやってらっしゃるの?」

 井出館長は大袈裟に驚いた素振りをする。わかっているくせに、忌々しさが迫り上がってきた節子の顔に汗が滲む。

「色々・・色々やってますよ。そうね・・社交ダンスでしょ・・お花でしょ」

 全て出任せである。夫に束縛されていた節子に習い事なんて、夢のまた夢の話。

「あらあら。社交ダンスに、お花? 素敵なご趣味ね。でも、社交ダンス用のお衣装なんかは、どうしてるんです? 佐伯さんの少ないお荷物の中には、それらしきものは見当たらないようでしたけど。それに、いつもお着物を着ていらっしゃるようですし。藍染めのステキなお着物よね。てっきり、日本舞踊でもおやりになっているのかと」

 日本舞踊!しまった、と気付くが時既に遅し。前言を撤回すれば、ますます不審がられる。それに、帯締めや帯留めなしで、だらしない着付けをしている猫背の老婆に日本舞踊もクソもない。けれど、入居して三ヶ月経過したのに毎日同じ恰好をしている自分のせいもあるのだろう。節子は顳顬を伝う汗を見つからないように手の甲で拭った。

 ここ数日の外出で、服を購入するために洋品店や衣料店へ出向いていたのだが、豊富な品揃えに圧倒され、選択できず困惑しているうちに気分が悪くなり退店することを繰り返していた。一品だけでも・・と念じてから店に入るのだが、やはり同様の事態となる。店員に接客されたこともあったが、自分がなにを購入したいのかが決まってないので、こちらなどいかがですか? と薦められても決断できない優柔不断さであった。

「・・必要な物はすべてね、お教室の先生が・・預かってくれるのよ」

 口から出任せも言葉にしてしまうと、本当にそんなような気になってくるから不思議だ。

「あらあら、そうでしたか。でも、そんなにご立派な趣味がおありでしたら、せっかくですから、ここでも教えていただきたいわ。お花に社交ダンスなんて、皆さん喜ばれますよ」

「いいえ!とてもとても・・無理だわ・・しょっちゅう、先生に叱られますもの」

「あらあら。お家でも旦那さんの介護が大変だったでしょうに、習い事でも叱られるなんて、息抜きだかなんだかわかりませんね」

 当たり前だが、井出館長は、節子の事情は粗方承知していた。その上での茶番なのである。

 外出して公園で暇を潰したり、喫茶店で長居している真実は口が裂けても公言できない節子は、これ以上追及されては敵わないと、朝食を途中で中断すると席を立った。食堂を後にしても、井出妙子が追い掛けてくるような気がして、肩を縮こまらせ猫背を傴僂にしてエレベーターの呼び出しボタンを連打する節子。

「佐伯さん?」

 おはようございます、と、やんわり声をかけてきたのは、目元の泣きぼくろが特徴的な介護福祉士の丹下靖子だった。

 彼女は、この『スノードロップ』で唯一親しみやすい職員である。

 白髪混じりの髪を引っ詰め、動きやすいフリースやブラウスにスラックス、足元はスニーカーのラフな恰好をして、いつも快闊な笑顔でテキパキ働く丹下は、なにかを強制するということがない。

 節子は、レクリエーションやイベントに引き摺り出されるのが嫌いである。狷介固陋といった大層なものではなく、無知さや暗愚さが露見するのを恐れる見栄っ張りだったため、入居当初はインターホンが鳴っても覗穴から確認するだけで無視し、入浴と食事以外は誰とも接しない態度を貫いていたが、半強制的に参加させられるようになってしまった。丹下は、苦痛に満ちた顔で固まる節子を、さりげなく逃がしてくれる。楽しんでやらないことに意味はないからと、慈悲深い笑顔を向ける丹下の気遣いによって、辛うじて四面楚歌を免れていた。

「なにか、お気に触ることでも、ありましたか?」

 いくら信用の置ける丹下でも、真実を漏らしたりすれば、いつ口外されるともしれない。業務上では丹下より、雇い主の井出の方が立場は上なのである。正当な理由がない外出を問題にでもされたら、『スノードロップ』という名の檻に閉じ込められてしまうかもしれない。それで、節子は黙って俯いた。

 丹下は、そんな老婆を見つめていたが、明日は外出ですね、と不意に話を変えた。

「そう・・かしらね」

 また、尋問されるのかもしれないと、ゆらりと頭を擡げた不審感のため、言い淀んでしまう。

「あの、佐伯さん、よければ、」丹下靖子が、急に声のトーンを落として囁いた。

「個人的に、ご案内したいところが、あるんですけれど・・」

 節子の反芻していた憤りが霧散した。代わりに落胆と歓喜が先を争って涌き立つ。矛盾した感情を抱えて、丹下を仰ぎ見た瞬間、到着したエレベーターから老人達が緩慢な動きで排出された。

 節子と共にエレベーターに乗り込んだ丹下は、行先階ボタンを押しながら、再び切り出してきた。

「無理にとは言いません。でも、もし、佐伯さんさえよければ、明日」

「でも・・あなた、いいの?」

 もしかしたら、丹下は自分の行動を探るために井出に依頼されたスパイかもしれないという懐疑は拭えない。


 いくら優しくて親切な人でも、なにがきっかけで豹変するかなんて、わかったもんじゃないわ・・


 簡単に他人を信用すべきではないのは、散々舐めてきた苦渋と共に身に滲みているつもりだ。

「大丈夫。気にしないで下さい。明日は私も休みなんです。じゃあ、外出の時間に合わせて、駅で待ち合わせましょうね」

 節子の不安とは裏腹に、とんとん拍子に段取がついてしまった。これで、佐伯節子の外出には、大した用事がないのが決定づけられてしまったことになる。丹下は井出館長に報告するかもしれない。

 節子は眠れぬ夜を過ごすこととなった。



 翌日、予定通り外出した節子は、一瞬躊躇したが、結局、丹下との待ち合わせ場所の駅に進路をとった。

 天気予報通りの爽やかな秋晴れの下、行く宛もなく侘しい我が身。公園のベンチに踞り、無意味な時間が過ぎるのを耐え忍ぶよりは、丹下と行動したほうが最良だと判断した。

 合流した丹下は、黒いタートルネックと透け感がある黒のプリーツスカートというシックな出で立ちである。きちんと化粧をして染められた髪を夜会巻きにし、タートルネックの首元には星型のネックレスが輝いていた。

「ごめんなさいね。せっかくの外出を、私に付き合ってもらっちゃって。ここからそう離れていない場所ですから」

 『スノードロップ』の介護福祉士としてラフな恰好をした素っぴんに近い丹下とは、別人のようである。

 丹下の瀟洒な変わり様に仰天した節子は「あらヤダ、観劇にでも行くの? あたし、こんな成りで来ちまったわ。言ってくれればよかったのに」と、己の恰好を恥じつつも、かといって着た切り雀である。

「観劇? あぁ、私の恰好ですね。私、プライベートではこんな感じなんですよ。介護するのに、おめかしは、必要ないですからね」

 丹下の真っ赤な紅を引いた唇の口角がゆっくりと上がり、同時に目が細く垂れていく。化粧のためか『スノードロップ』勤務時より数倍若く見える丹下。細めた目元の泣きぼくろが、今日はやけに艶っぽい。

「よく似合っているわ。あなた、お化粧が上手なのね。羨ましいわ・・」

「ありがとうございます。でも、お肌がキレイな佐伯さんこそ、化粧映えすると思いますよ」

「そうかしらね・・」と、節子は頬に手をあてる。

「あたし、化粧したことが、ないの・・」

 唇に紅一つ引こうものなら、亡夫の平手が飛んできた辛酸な記憶が蘇る。女親族達や近所の主婦が流行の化粧や髪型や服で装い、最新の化粧品の話題で盛り上がるのを青痣だらけの顔で、羨望の眼差しを向けるしかできなかった若かりし頃。祖母が形見として残してくれた口紅や、友人からプレゼントされた白粉を火に焼べられたことは数え切れない。

 俯いた節子の背中を擦りながら、じゃあ、お化粧品を買いに行きましょう!と、丹下は前向きな提案をした。

「佐伯さんの人生は、これからですよ!したかったこと、しましょう!」

 丹下は早速、節子を連れて駅近のドラッグストアーに向かった。

 店に入った丹下は、慣れた手つきで次々と商品を取り上げては、棒立ちの節子の手や顔に試し塗りをしていく。

「佐伯さん、今までお肌がかぶれたりとかありませんか? 普段のお手入れはどうされてますか?」

 矢継ぎ早に聞かれる丹下からの質問に、『ない』『してない』だけで返答する節子。

「信じられないわ!よく、そのお肌を保ってこれましたね!奇跡としか言いようがないわ」

 結局、スキンケアから基本の化粧品一式までを見繕い、結構な値段になってしまった。

 お化粧品って割に高いのねぇと呆れて、がま口を取り出しながらも節子は、買物カゴの中で揺れる色とりどりの容器達を、誕生ケーキを前にした子どものように目を細める。

 その後、化粧品がたんまり入ったビニール袋を手に、二人は電車に乗って隣町へと向かう。

 到着した時間がちょうど正午だったので、駅前にある洒落たオムライス屋に入った。

 こんなハイカラな店は初めてよと、興奮しながら着席した節子は、渡されたメニューを広げた途端、しかめっ面が始まった。

 選択の多いメニュー内容である。まず、数種類のオムライスから一つ選び、次にソースの種類とサラダを選び、スープかパンを選び、セットのドリンクとデザートも選ばなければならない。一点を指して、コレ、では済まされない複雑なセットメニューの注文を、丹下の助けを借りてなんとかやり果せた節子は、ほっと胸をなで下ろしながらお冷やを飲んだ。

 選択肢が増えることは、いいことのように言われがちだが、決定しなければいけない事項が増え、手続きが複雑かつ難解になっていくので、歳を取る程、混乱をきたして苦痛にすらなる。若者であれば、自分自身の好みや考えがより細かく反映しやすい結果を生み、より自分らしく楽しんだり味わったりすることが可能になるのだろうが。

 でもねぇ・・と節子は微苦笑する。衣料品店での苦悩が苦々しく口内を満たす。

 洋服と一口に言っても、ブラウス、カーディガン、スカート、スラックスの種類・色・素材の豊富なこと。節子は廃棄したような無難な形と色のものをまず選択肢から外すのだが、それが却って余計に混乱を招くらしい。

 あたしみたいな優柔不断な年寄りには、買い物だってどんどん難しくなるばかりだわ・・

「佐伯さんの息子さんは、外国に永住されているんでしたっけ?」

「そうなの。紅茶で有名な国にね」

「スリランカ? ですかね。じゃあ安泰ですね。私なんてバツだらけで、お恥ずかしい限りです」

 気まずそうに苦笑いを浮かべる丹下に、そんなこと・・と尻窄まりな返答をしてしまう節子。

 セットメニューのように、洋服の選択のように、人生の選択肢が増えている現在では、丹下のような女性は珍しくない。 

 結婚は恋愛結婚が主流になり、家同士が決めた見合い相手の家、両親を始め兄弟や親族に至るまで、己の人生を捧げる心持ちで嫁ぐ結婚が大半だった節子が若かった時代とは、大違いである。現在は結婚した後は核家族となり、連れ添った相手に愛想を尽かせたら離婚すればいい。離婚は家の恥だなどという考えは時代遅れである。バツが幾つついていても肩身の狭い思いとは無縁。伴侶と死ぬまで添い遂げるなんて過去の遺物である。

 『安泰』ねぇ・・

 夫の葬儀に遅れて来た上、始終一貫して目に余る態度だった息子。

 息子は、読経の最中に現れ、焼香もせずに遺影を睥睨しただけで、出棺時間まで式場の外で酒瓶片手に酔い潰れていたのである。火葬場では赤鬼のような憤怒の相で、火葬炉に納まる直前の棺を蹴って「ざまあみろ!」と吐き捨てた。

 息子は父を嫌悪していた。帰国しただけで孝行なのだろうが、それにしても・・

 思いに耽る節子の目元にチラチラと光が戯れて我に返った。

 丹下の胸元で陽光を反射していたのは、ペンダントトップである。

「首飾り、素敵ね」

 存在を主張する首飾りは、星は星だが、五芒星である。それも逆の五芒星だ。それが丸い円の中でキラキラと太陽の光を反射して揺れている。丹下は、ありがとうございます、と微笑した。

「それ、見たことあるわ。京都の晴明神社のよ。ちがう?」

「よくご存知ですね。あれは、ペンタグラムです」そう言って、ペンダントトップを目の前に持ち上げる丹下。

「素敵ね。あたし、そういう飾り物に縁がなかったものだから・・」

「佐伯さん、アクセサリーもお持ちでないなんて、今までどれだけ質素な生活をしてらしたんですか?」

「あんな物々しい家に住んでおいてねぇ。おかしいわよね」

 冷笑した節子は、お冷やのグラスに口をつける。

「夫がね、とにかく厳しい人だったから・・着飾るのは、許されてなかったのよ」そこまで話して、節子ははっと口を噤んだ。こんな事情、誰にも打ち明けたことはない。誰かの憂き耳なんて、他人にはただの噂話。相手に期待するだけ無駄である。余計な情報は知らないほうが、お互いのため。それなのに、丹下相手だと、うっかり口が滑ってしまう。

「・・ご苦労、されたんですね」

 そうなのよ!ほんっとに大変だったわ!とついもっと話してしまいそうになる。丹下の人柄や相性の成せる技である。

「それじゃあ、今度はアクセサリーを買いに行きましょうか」

「でも・・付き合ってもらうのは、悪いわ・・あなた、お休みなのに、仕事してるようなものじゃないの」

「気にしないでください。私も佐伯さんとこうして過ごせて楽しいんですから」

 破顔一笑の丹下に「そうは言っても、烏滸がましいわよ・・」と頬に手をあてる真似をしたが、本音は、丹下に頭を下げてでも買い物に付き合ってもらいたかった。実際問題、節子は服や靴の買い物に困り果てていたのである。なんせ、八百屋やスーパーでの食品や日用品の買い物とは訳が違う。未知のスキル、センスなるものが必要なのである。物知りな上に的確なアドバイスを与えられる丹下が付き添ってくれた方がどんなに心強いか。けれど、彼女は遠慮して渋る様子を演じた。おんぶに抱っこして嫌われたくはなかったからだ。

「それじゃあ、あなたがほんとうに暇な時にでも、お願いしようかしら・・」

 喜んで!と笑った丹下の笑顔をそのまま色にしたような鮮やかなオムライスが運ばれてきた。

 食事を済ませ、店を出た二人は、線路沿いに歩いていく。

 先程まで出ていた太陽は雲に隠れてしまい、薄ら寒い。

 節子は曇天を仰ぐ。

 夫が戦争から帰還した日も、こんな陰気な空模様だった。

 泥と垢と血で染まった軍服。真っ黒く焦げたような顔に、三白眼だけが餓えた獣のように獰猛に光っていた。その異様な剣幕に、彼女は鬼が来襲してきたのだと勘違いし、幼い息子を抱きすくめながら後退ってしまったのである。妻の怯える様子を睨みつけた夫は「売女でもしておったか!」と怒声を発した。

「佐伯さん!」

 呼ばれて我に返ると、丹下が彼女を覗き込んでいた。

「大丈夫ですか? 何度も呼びかけているのに、答えてくれないから。疲れましたか?」

「ごめんなさいね・・大丈夫よ。ちょっと昔のことでね」

 なにかにつけて蘇る忌まわしい記憶。うっかりすると、鬱屈してしまう。

「昔のことって、旦那さんのことですか?」

「・・そんなところよ」

 節子の歯切れの悪い返事に、丹下は何度か目を瞬かせたが「ここ、着きましたよ」と目の前の建物を示した。

 建物の入り口らしき扉に視線を向けた節子の色素の薄い黒目に映ったのは、円の中に描かれた逆五芒星のマークである。彼女の傍らに微笑みを讃えて寄り添う丹下の瞳に映っているのは、老婆の不思議そうな横顔。

「あら・・またあの星」

「逆五芒星ですね」闊達に笑む丹下。

「ここは、そういう所なの?」

「まあ、パワースポットと言えなくもないですね」

 丹下に連行されるようにして足を踏み入れた建物の中は、美術館のようなモダンな雰囲気が漂う空間だった。

 大理石の床に、闊歩する丹下のハイヒールの音が響く。コンクリート打ちっ放しの壁には、等間隔に豪華な金色の額縁に縁取られた絵画が設置されていた。まるで闇の世界へ通じる窓ででもあるように一面に漆黒で、抽象的に蠢く『なにか』が画布の上に描かれている絵画だ。節子がいくら目を凝らしても、何が描かれているのかの判別は困難だった。

「あれは、なにが描いてあるの?」

 回廊のようなところを少し行ったところで、節子は丹下に尋ねた。

「全て、明けの明星について描かれたものです。ただ、出典元が違うだけ」例えばこれは、と一枚の絵画に歩み寄る丹下。他のと同様に漆黒の闇が渦巻いている絵だ。

「イザヤ書第十四章の一場面。佐伯さん、聖書はご存知ですか?」

 節子は首を横に振る。聖書だなんてカソリックじゃあるまいし。

「三大予言書の一つ、イザヤ書は旧約聖書の一種で、全六十六章からなります。この十四章に書かれていることは、かいつまんで言うと、こんな内容です」


「黎明の子 明けの明星よ あなたは天から落ちてしまった

 諸々の国を倒した者よ あなたは切られて地に倒れてしまった

 私は天に昇り 私の王座を高く 神の星の上におき 地の果てなる集会の山に座し 雲の頂きに昇り いと高き者のようになろう しかし あなたは地獄に落とされ 穴の奥底に入れられる」


 歌うように朗読する丹下。

 節子が知っている介護福祉士としての優しげな顔は消失し別人のようである。

「この十四章の場面を、特殊な技法を使う画家が描いたものなんです。ちなみに、この隣のはルカの福音書第十章の場面を描いたもので、あっちはヨハネの黙示録。全て、明けの明星を描いたものです」

 丹下の蘊蓄をお供に、額縁をいくら睨んだところで、漆黒の闇に蠢く『なにか=明けの明星らしいもの』は老眼が進み始めた節子の目には一向に顕現しなかった。絵画も高尚になると、一般人では何が描かれているのかを見ることすら不可能になってくるものらしい。節子は疲労した目を瞬かせながら、溜め息をついた。

 それにしても、ここは、いったいなんなのかしら・・

 丹下が口にしていた聖書や協会という言葉から察するに、キリスト教のようであるが、十字のマークはない。疑問を風船のように幾つも頭上に浮遊させながら、丹下に誘導されるまま奥へと進む老婆。

 すると出し抜けに、銀色の逆五芒星モチーフが大きく掲げられた開放的な空間が開けた。

 天井からは巨大なシャンデリアが幾つも垂れ、突き当たりの段の上には黒いフードを被った誰かが直立していた。

「佐伯さん、私ね、いっつも歯痒く思っていたのよ。佐伯さんって、卑屈で、後ろ向きで、捻くれてて、臆病で、気弱でしょ。先の展望もないくせに意固地で、そのくせ、なんとなくカナダモみたいに優柔不断で。でも、それって罪なことなのよ?」

 丹下に手を取られながら歩みを進めていくにつれ、逆五芒星のモチーフの中に顔があるのが見えてきた。人ではない。なにか角の生えた龍にも似た、山羊のようである。それが星の中に納まっていた。

 丹下の独り言のような言葉は止まらない。

「本当は、こんな勧誘紛いはルール違反なんだけど。サタニズム九箇条の一つに当て嵌まるって主張して例外を認めてもらったのよ。だから、わかって欲しいんです。私、見てられなくて。人生がもったいないわ。あのね、佐伯さん、人生って、誰の目も気にせずに、もっと合理的に生きられるものなのよ!」

 節子は段の下に辿り着いた。黒いフードを被った何者かは、手にした杖を振り翳した。

「ルシファーの名において、私たちは、汝、佐伯節子を歓迎し、あなたの足を左側の道に置きます。あなたは人生を愛、情熱、耽溺、ルシファー、そして闇の道に捧げるのです。佐伯節子よ!悪魔を称えよ!」

 厳かなテノールが空間に木霊した。そして、呆然とした彼女の首に例のペンダントがかけられたのである。

「よかったわね、佐伯さん。初めてのアクセサリー。私とお揃いですよ」

 よかったの、だろうか? 節子の思考は停止したままだ。けれど、一つだけ捻り出した意志を叫んだ。

「・・金なんてないよ!」

 黒いフードを脱いだ体躯のいい外国人男性と、丹下が破顔した。



 挽きたてのコーヒー豆の香りが店内に漂い、停止した思考をほぐしてくれるようだ。

 悪魔協会を後にして入った喫茶店で、丹下は鞄から老眼鏡と黒い本を一冊取り出した。

 『THE SATANIC BIBLE』と名打たれた表紙には逆五芒星が赤く描かれている。もちろん、例の山羊の顔も同じだ。老眼鏡をかけた彼女は、それを慣れた手つきで繰りながら説明し始めた。

「私たちサタニストに必要なことは、お金じゃありません。悪魔理論の理解と伝達です。サタニストが信仰する主義をサタニズムって言うんですけど、サタニズムにおいては神は愚か悪魔であろうと存在しないと見なします。なので信仰はしません」

 白いマグカップが二つ運ばれてきた。

 鼻白んだ顔の節子が肩を竦めながら一つを引き寄せると、丹下は本から目を離した。

 眼鏡のレンズ越しに彼女の化粧した目元が拡大される。黒いアイラインがひかれ、バッチリとマスカラで固まった睫毛が別の生き物のように老婆を注視している。

「サタニズム的には、サタンイコールイデアなんです。イデアって理念とか理想のことね。サタニズムでは、自身の物質的・身体的な発展と解決が殊更重視されるんですけど、それがイデアでありルシファー」

 鼻息も荒く力説する丹下の泣きぼくろを、はぁ・・と愚鈍の相でなんとなく見つめる節子。

 正直、丹下がなにを説明しているのか不明である。わからない。けれど、わからないと言うのも失礼な気がして黙っていた。丹下の気を損ねて、彼女との仲が拗れてしまうようなことがあれば、『スノードロップ』での生活は地獄になってしまう。節子は丹下の一顰一笑を窺いながら、なんとか話を合わせようとして、人差し指で宙に円を描きながら、彼女の話で頻繁に繰り返される横文字を口に出してみた。

「・・その、ルシファーって?」

「ルシファーは、明けの明星のことです。堕天使なの。サタンはルシファーの別名とも言われていますね」

 会話は成立したが、丹下の答えがわからない。横文字は苦手である。節子はわかりそうな単語を見つけて問い掛ける。とりあえず、問い掛けておきさえすれば、相手が喋ってくれるので、それを聞いて頷いていればいい。

「・・天使?」

「ええ。ルシファーは現存する大天使の長で、最も美しくて別格の力を持った大天使でした。それなのに、どうして落とされたって疑問に思いますよね。諸説ありますけど『人類救済計画』を提案したら、神に否定されて地獄に落とされ、今も地獄の番人をしながら後悔の憂鬱を抱えてるって説が、私は個人的に好きですね。他には、神に戦いを挑んだからとか、神が作っていた人間に仕えろと言われて逆らったとか、人間に嫉妬したとか色々あります。なんだか、神の世界も人間世界と変わらないと思いませんか?」丹下はコーヒーを一口啜ると薄く笑った。

「まあ、ともかく、サタニストには守るべきルールとサタニズム理論があります。あとでコピーして渡しますね」

 節子は、はぁぁぁー・・と、大きな溜め息をついた。

「なんだか壮大な話ねぇ・・あたしの耄碌頭で、覚えられるものかしらねぇ・・」

 ペンダントを弄りながら節子が自身なげに返す。そこに、店員が注文していたモンブランを持ってきた。

「うわー!おいしそう!私、大好物なんです!佐伯さん、食べましょう!」

 顔を綻ばせた丹下は、手にしたフォークでモンブランを大きく切り取り、口に入れる。おいしいーと至福の表情だ。

 丹下は、その時の感情に忠実である。昼にオムライスを食べた時にも、一口ごとに幸せそうに頬張っていた。見ているこちらまで、幸せな気分をお裾分けさせてもらっているようである。彼女は、人生を、毎日を、楽しんで生きているのだ。

「大丈夫ですよ。日常的な当たり前のことばかりだもの。私たちサタニストがすべきことは、サタニックバイブルの中に自分自身を認識して、そこに概説されている教義に乗っ取って自由に生きることだけ。こうして、好物を味わったり、好きな服を着たり、自分がしたいことを、するんです」

 早くもモンブランを食べ終えた丹下は、もう一個食べちゃおうかなーと、メニューを広げた。

 そんな丹下を尻目に、頂上の栗を脇に落としたまま手つかずのモンブランに、視線を落とす節子。事なかれ癖で考えもせず、丹下と同じものを頼んでしまったことを後悔していた。聞き慣れないモンブランなるものが、まさか自分が苦手な栗のケーキだとは思っていなかったのだ。それでも、一口だけ食べてみようと、とりあえず頭頂の飾り栗だけ除いてみたが、やはり食欲が湧かずに放置していた。

 栗は亡夫の好物だ。秋になると、夫がどこからか仕入れてきた大量の栗を、来る日も来る日も剝いて調理させられた。その後遺症からか、節子は栗が大嫌いである。

 丹下に譲ってやろうかと思案したが、口をつけてないまでも、他人のフォークが触れた食べ物は穢らわしいと忌み嫌う人もいるので、逆に失礼かもしれないと逡巡しているうちに、丹下は店員を呼んでチーズケーキを頼んでしまった。

「・・集まりはあるの?」

「集まり? 黒ミサのことですか? ないですよ。あれは、有神論的サタニズム達が神を冒涜することを目的にしたものですから。生贄だの魔法陣だので悪魔を呼び出す怪しい儀式みたいなもの、もしかしてイメージしてたりします? ないない。悪魔協会は、無心論的サタニズムを信仰してます。集会もなければ、怪しい儀式もありません。でも、」

 丹下は言葉を切って、わざとらしく咳払いをした。

「魔術は、あるみたいですよ」

 口許に手を添えて囁くと、節子のモンブランの皿を自分のところに引き寄せた。

「まじゅつ?」

「地上におけるサタニストの十一のルールに、記述があるんです。魔術を使って願望がうまく叶えられた時は、その効力を認めること。首尾よく魔術を行使できても、その力を否定すれば、それまでに得たもの全てを失ってしまう、って。文面通りだと、魔術はあるけど、必ず使えるとは限らないし、使えても奢るなよってことだと思うんです。と、いうことは、魔術自体は存在するということで」

 語りながら、節子のモンブランに嬉々としてフォークを突き立てる丹下。そこに、チーズケーキが届いた。

 彼女はモンブランを咀嚼しながら、チーズケーキを受け取ると節子の前に置く。

「佐伯さん、チーズケーキお好きでしたよね? この前のお祝い会でも、残さず食べているご様子でしたから」

 チーズケーキは、節子の大好物である。

 夫が昼寝している合間を狙ってスーパーに買いに走ったパック入りチーズケーキ。家に持って帰れないので、スーパーのトイレの便座に座って、大急ぎで口に詰め込んだ。あの罪な味ったら・・

「佐伯さんは、もうサタニストなんですよ!自己欺瞞と見通しの欠如は、罪なことだって言ったじゃないですか。ご自身が、食べた後にも後悔しないような心から食べたいものを、きちんと主張すべきです。勇気を出さなきゃ」

「・・遠慮しただけ、なんだけどね」

 節子は苦笑しながら、チーズケーキの先端をフォークで切り分けて口に運んだ。上等のチーズケーキだった。

「遠慮なんてする必要ありません。だって、それで、結果的に、佐伯さんがおいしく食べられないなら私は不幸ですもの。いつでも、自分の思うようにやって、したいように生きる。これが佐伯さんの今日からの課題になったんです。これを、どんな時にも心掛けないと立派なサタニストにはなれませんよ!」

 二つめのモンブランを頬張りながら力説する丹下。栗の匂いが漂ってきて、気分が悪くなる。

「・・ごめんなさいね・・それで、あたしの罪って、なんなの?」

「サタニズムには九つの罪っていうのがあるんです。さっき言った自己欺瞞と見通しの欠如以外にも愚鈍さ、虚栄心、唯我主義、群れに従う、過去の正統の忘却、無駄に高いプライド、美意識の欠如。佐伯さんは、ご苦労や経験にも拘らず、他の同年代の方々より不幸そうで、この9つの罪の殆どを実践しているように私には見えたんです」

 節子は唐突に腹が立った。思わず皿の音がするほど乱暴にケーキを切断してしまった。

「経験なんてそんなものね、泡か煙みたいなものよ。それに、苦は色を変えるって言うでしょ。あたしの苦労が特別なことなんかじゃないのよ。精神とは無関係なの!だってね、この歳まで、なにをしていたと思う? 疲れて居眠りしたり、家族の食事の仕度のことばかり考えたり、叶わない夢を抱いたり、夫を恐れたり、ただ実践のない憧れに憧れを積み重ねていただけよ!」

 チーズケーキの最後の片鱗を乱暴に口に運びながら、彼女は一気に捲し立てた。

 丹下の指摘はもっともで、とっくの昔に自覚済みだ。畏服していた夫の遺訓とも言える悖った姿勢。だが、そうしなければ生きていけなかった。そうしなければ自分を守れなかったのだ。幸せだ不幸だと悠長な思考を捏ねている余裕なんてない。慍色の顔でコーヒーを飲み干す節子の様子に、丹下は戦いて頭を垂れた。

「ああ!すみません!本当にすみません!佐伯さんの気持ちも考えないで勝手に!騙すつもりはなかったんです!でも、私、ただ、佐伯さんに、もっと自分の人生を自由に生きて欲しくて・・」

 自由に生きるなんて難しいことなのに・・と呆気に取られる節子。

 だが別に、このままサタニストでいたとしても、高額のお布施を請求されるわけでも、仏像だの数珠だのを買わされる気配もなさそうである。老い先短い暇な身であることに変わりはない。目的もなく生きるよりは、少しは面白いかもしれないと合点する。

「・・その本には、どんなことが書いてあるの?」

 緩頬した節子の言葉に、丹下の顔色が明るくなり、ちょっと待ってください、と老眼鏡を押上げる。

 『THE SATANIC BIBLE』を再度開くと、あ、ここです、と見せてきたが、無数のハリガネ虫が張っているようにしか見えないページだ。

「・・ルーペ、持ってないかい?」

「残念ながら」

「字を大きく印刷してちょうだいね」

「もちろんです。実は、私も、この本読むのは、相当苦労してます」若作りしてても六十ですもの、と朗笑する丹下。

 今日一番の気持ちいい笑顔に、節子も、いやねぇとつられて笑ってしまった。



 翌日、スノードロップで会った丹下靖子は、まるで魔法が溶けたように、年相応の地味な姿に戻っていた。

 介護福祉士として働いている丹下をどんなに観察しても、昨日の片鱗は微塵も見当たらない。彼女もまたプロなのだ。

 それとも・・これが、彼女の言っていた魔術というヤツかしら?

 『THE SATANIC BIBLE』のコピーは、節子の要望通り、拡大されて読みやすい濃さのものが数枚、紙袋に入って部屋の扉に差し込まれていたため、節子は、慣れない勉強を始めねばならなかった。丹下のように、これを理解して暗記できるようにしなければなるまい。

 そうして、居眠りの枕にしながらも、少しずつ『THE SATANIC BIBLE』の中身を思い出せるようになった数日後。

 新月の晩である。

 彼女は奇々怪々な夢を見た。


 夢の中で節子は、あの悪魔協会の講堂に佇んでいた。

 掲げられた逆五芒星のモチーフを見上げているのである。

 銀色に輝くモチーフは、反射する毎に五芒星に描かれた山羊の顔が、ぬらぬらと人の顔のように変化してくるようだ。


 あら、不思議・・


 男の顔に変化していくモチーフ。

 唐突に強い反射光が節子の目を射た。そうして再び瞼を開けた彼女の目前には、黒い山羊の下半身と角が生えた奇妙な男が顕現していた。

 銀色の蹄をつけた黒山羊の二本足ですらりと立つ漆黒色の毛皮に覆われた下半身には、逞しい男の裸の上半身が繋がっており、少し癖っけの黒髪を、美しく整った顔に纏っている。ふさふさした黒い睫毛に縁取られた瞳の色は、ワインレッドよりも深くて濃い扇情的な血紅色。音もなく燃える炎のようだ。えも言われぬ美青年である。

「こんばんは マダム」

 男、と判別してもいいのかわからないその生き物の声は、谷間を悠々と渡る山風のように猛々しく静かな声だ。

 圧倒的で暴力的とも言える美しい形貌を前にして、恍惚と唖然が入り交じる顔で立ち竦んむ節子。

「・・どなた?」

「我は ルシファー」

 どこかで聞いた横文字だ。どこでだったか。横文字が苦手な節子は必死に考える。

 ルシファー・・ルシファー・・

「もしかして、あなたは、この悪魔協会の?!」

 ルシファーは、薄く笑う。さぞかし、間抜けな老婆だと思ったのだろう。だが、節子は構わず続ける。

「想像していたより、素敵な方だったもので、正直驚いていますわ」

「どんな想像を していたのか」

「もっと、厳めしくて怖い顔よ。あの顔も山羊ですからね。こんなに素敵な方だったなんて。お会いできて光栄です。得した気分だわ」

 易々と言葉が出てくる上、大胆な物言いに我ながら驚いてしまう。『THE SATANIC BIBLE』の内容を暗記していたことが、功を成したのかもしれない。知らずに行っていた自身への言い聞かせという暗示方法はよく効くようだ。

「それで、あたしになにか御用ですか?」

「提案をしに きた」

「こんなおばあちゃんに、なんの提案かしら・・どうぞ、お続けになって」

「汝は その歳まで 大病もなく怪我もなく健やかに生きてこれた それは誠に素晴らしいことなのだ」

「まぁ・・それはそれは・・」節子は、また健康のことを言われるのかと、憂鬱な目つきをした。

「嬉しくなさそうだな」

「闇穴だって思われるでしょうけど、健康だからどうだっていうんです? 老年は熱病みたいなものですわ。気まぐれ病にかかって、ただ悪寒に震えているだけなんですもの。人間三十を越してしまったらもう、死んだも同然。こんな老年になってから人生楽しめって言われてもねえ。あたしみたいな年寄りは、いっそ叩き殺したほうが功徳かもしれないですわ!」

 丹下にも暴露しなかった胸の内に燻っていた不満。

 初めて夫に殴られた時、介護していた夫が息を引き取った時、息子の暴行を目にした時、丹下靖子に連れられて悪魔協会に入会した時、様々な分岐点において、彼女の不満の火は燃え上がり、燻り続けていた。これが夢で、相手が人間ではないからか、遠慮なく気焔を上げる節子。

 「汝は よほど 長寿に倦んでいるのか」

 顎に手を当てた悪魔は、激昂する老婆に向かって莞爾に笑んだ。

「だが残念ながら 汝の余命は あと十五年だ」

 節子は我が耳を疑った。

 悪魔は確かに余命十五年と口にした。百十二歳だ。日本最高齢の記録に名を残すことになる。だが、天涯孤独の身に相応しく陽炎のように消えたいと常々切望している節子は、自分が生きていた証など残したくはなかった。

 それなのに、あと十五年も息をするミイラのように意地汚く生きねばならない・・

 なんだこれは、なにかの罰なのだろうか・・?

 どん底に突き落とされたような目眩に襲われ、崩れ落ちる老婆。

 ルシファーは、節子が絶望に打ち拉がれる様子を、面白そうに観察している。

「我からの提案は こうだ」

 どっぷりと肩を落とす彼女に、悪魔が提案したのは『節子の未来の十五年分の寿命を引き換えにして、三十回若返れる』という内容であった。

「・・寿命と引き換えに、若返れる、ですって?」

「そうだ 一回の若返りには 半年分の生命エネルギーが 必要だ」

「でも、それは、あなたと契約することになるのね。対価はなにかしら?」

「魂を 三十回目の若返りが終わった時 汝の寿命は尽き 汝の魂は我のものとなる」

 つまり、成仏できないということを意味する。

 節子は反射的に生唾を飲んだが、次の瞬間、でも、別にあの世に逝っても会いたい人はいないどころか、むしろ会いたくない人ばかりが揃っているんだわと気付き、悪くないわと考え直した。


 死んであの人と同じところに逝くのだけは、ご免だわ・・

 もっとも、あの人は、地獄に落ちているかもしれないでしょうけどね・・


 だが、節子の嫌悪する両親や姉妹は確実にいるはずである。会いたくない。残り十五年を、目的も宛てもなく屍のように生きてギネスブックに載った後に嫌いな人が揃っているところに逝くくらいなら、いっそ、若返って思いっきり遊んだほうが未練なく死ねるであろうし、その後、美しい悪魔のものになれたほうが俄然面白そうである。

「感覚も体液の巡りも鈍りがちな侘しい孤独から 広く賑やかな世界へ 汝を招こうというのだ 悪い提案ではないだろう」

 ルシファーは魅惑的な笑みと、しなやかな指を弧を描くように節子に向けた。

「三十日後に、あたしの魂は、あなたに食べられちゃうのかしら?」

 節子の問いに、ルシファーが教会の鐘のような神々しい高笑いをした。その様子を恍惚の表情で見つめる老婆。

「汝の魂は 永遠に 我の側にあることになる」

「側に? あなたのお側使いになるの?!」

 節子は素っ頓狂な声を出して狂喜した。ルシファーはまた笑った。

「汝は 面白い それに とても美しい 申し分ない」

 さあ、どうする? とルシファーは答えを迫った。

 彼女は爽然と顔を上げると「それは、もちろん、」と口を開いた。



「待って!」


 自分の切ない声に驚いて覚醒した節子。

 いつも変わらぬ自室の無機質な白さの天井が視界を埋める。

 白々と開けようとしている夜に紛れて、あの美しく蠱惑的な悪魔は、節子の懇願も虚しく去ってしまったのだ。

 落胆の息をついた彼女は、ふと思い出して、ベッドサイドテーブルに置いたノートを引き寄せた。

 揺曳な残夢を手繰り、忘れる前に書き付けておかないといけない。


 ルシファー 若返り 三十日間 太陽が沈んだ夜の間だけ 合い言葉


「合い言葉、なんだったかしら・・」思い出すのよ、節子!がんばって!

 五分程、頭を悩ませた末に、やっと思い出した。

 美しい悪魔は、慈悲に満ちた潤んだような真紅の瞳を彼女に向けて、愛おしそうにこう口にしたのだ。


『時よ戻れ 汝はいかにも美しい』

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