陽炎の夜
御伽話ぬゑ
プロローグ
「待って・・!」
己の発した嘆願の声に驚いて目を開けた彼女の視界に、無機質な白い天井が広がった。
自宅の見慣れた檜天井とは、違う。ここはどこかしらと、彼女は混乱する視線を周囲に投げた。
早朝の白み始めた空間は、特徴のないテーブルと椅子が設置されているだけの、花一輪、写真一枚ない殺風景さである。一瞬、病室かと焦ったが、幼少期から風邪すらひかない丈夫な体だけが取り柄で、九十七歳になった現在でも、入院や手術経験は皆無どころか、杖や車イスとも無縁なのだ。有り得ないわと、彼女は即座に打ち消す。けれど、記憶に関しては自信がない。最近、物忘れが多いのだ。だから、もしかしたら・・
彼女は軽い混乱をきたしながら、窓を覆う桜色のカーテンや暖かみのある華やかな花柄をした布団カバーといった視界の情報を元に、頭のネジを一つずつ絞め直すようにして、慎重に記憶を手繰っていく。そうして数分後、ここは数ヶ月前から暮らしている有料老人ホームの自室なのだと、合点するに至った。
うなされていたのは・・青筋を立てた夫が殴り掛かってくる悪夢をみたから。
癇癪持ちで暴れだすと手が付けられない夫により七十年以上に渡って日常的に繰り返された家庭内暴力。妻をサンドバッグ兼下女だと認識していた夫との生活は、彼が脳梗塞を起こして半身麻痺の要介護となってからは更に凄惨を極めた。現状に不満しかない夫の介護は命がけだった。動ける半身で、叩かれ蹴られ噛み付かれ、時にはガラス製の尿瓶や枕元で花を生けた花瓶など危険物が飛んでくる。よく殺されなかったものだと我ながら呆れてしまう。
その夫は・・二年程前に肺炎を拗らせて他界。
彼女は、生き延びたのである。夢で怯えた恐怖は、既に過去の遺物。そこまで確認できると、萎縮した体がどっと脱力した。寝汗で濡れた浴衣が纏わり付いてくる不快さに現実味を感じて安堵する。ここに引っ越してきてからというもの、亡夫の夢を頻繁にみるようになった。躯は葬ろうとも記憶まで遺忘することは許さんと言わんばかりに、妻の平和で無防備な夢寐に乱入し、狂虐を再現する亡夫。残夢を必死に追いやりながら、いつまでこんな陰鬱な朝を迎えなければいけないのかと辟易してくる。夫が仕掛けた時限爆弾は、回避したはずなのに。
夫の葬儀後、骨壺を寝室の押し入れに収納し、夫の介護ベッドに腰掛けて息をついた彼女を襲った強烈な虚無感。生きていくための活力がとうに枯渇していたのだと気付いた時にはもう指一本動かせず、呼吸すら億劫になっていた。ベッドに仰向けになったまま餓死寸前になっているところを、偶然訪問してきた区役所職員の小娘に発見されたのである。
パグに似た目元を黒ぶち眼鏡で囲った小娘は慌てて救急車を呼ぼうとしたが、うっすらと目を開けた彼女が「みず」と口にしたので、水を与えた後に食料を調達してきた。
「住み替えられては?」
曇った眼鏡が乗った小鼻に皺を寄せて弁当を差し出した小娘は、忌々しそうに切り出した。爆発した白髪頭に皺だらけの黒紋付と加齢臭を纏った妖怪じみた老婆は、眉間に皺を寄せて弁当を受け取って蓋を開ける。小娘は玄関が施錠されていなかったことを指摘して、「こんな大きな家に独り暮らしなんて、現実的じゃありません。非効率です」と続けた。
吹き出物の目立つ顔に、艶のない針金のような引っ詰め髪、リクルートスーツ姿の小娘は、二十代だろうか。独り立ちしたばかりの、マニュアル頼りの過剰な自信が漲っている物言いである。現実的だの非効率だの便利だのを陳列し懐柔しようとするやり口が、いかにも頭でっかちの大学出。だが、事実である。老夫婦二人暮らしには不釣り合いな程の屋敷と呼ばれる部類の自宅。彼女一人で掃除や手入れが行き届くわけもなく、浴室やトイレへの移動ですらちょっとした散歩である。現実的でないのは重々承知であるが、同意したくはなかった。融通の効かない役人は嫌いだし、高齢者は子ども同然だと侮辱している上に、世界で一番自分が正しいと勘違いしているような不遜な態度の小娘に弱みなど見せたくはない。彼女は、弁当を搔っ込みながら、蔓延った草が枯色を曝す庭園に視線を移す。椿が咲いていた。
「・・余計なお世話よ」
椿から目を離すことなく意固地な呟きを漏らす老婆。小娘の目元がぐにゃりと歪む。
「私が来なかったら、間違いなく餓死してましたよ」
「孤独死ね」
彼女の視線はひたすら窓の外、椿に注がれている。
異物が喉に詰まったように顔を顰めた小娘は、無駄だと判断したのか、腕時計を一瞥すると小さく咳いて立ち上がった。
「とにかく、衣食住が満たされる老人用住宅への入居をお勧めします。後日、老人用住宅の資料をいくつかお持ちしますので、考えてみてください」
老婆は鼻を鳴らすと、ぷいっと横を向いた。
去り際にふと立ち止まった小娘は、老婆を顧みた。眼鏡が反射して白く光っている。
「これからは、残りの人生の時間をどう使っていくのかが課題なんです。ご自分の幸せだけを考えてください」
椿が一つ、ふつりと落ちて、小娘を僻目に見ていた罪悪感が一瞬過る。小娘が発した『自分の幸せ』という言葉が、夫が自分の後を追うようにと仕込んだ時限爆弾が不発で終わったことを告げていた。
そこから約半年間。雨の日も晴れの日も弁当持参で通い続けた小娘の熱意に根負けする形で、彼女が老人施設への申し込みを受け入れたのは桜が散り始めた頃である。幸か不幸か、荻窪にある介護つき有料老人ホームに空きが出るとのことで、四ヶ月後の入居許可が下りた。数年の待機は当たり前なのに異例だ、縁があると、小娘の口車に乗せられた彼女は、夫の生命保険で入居費用と二年分の家賃を渋々先払いした。
「屋敷の売却は不動産屋に委託しましょう。世田谷の一等地ですし、すぐに売れますよ。その資金を家賃に当てれば、向こう何年かは安泰です」
たった何年かの『安泰』のために、有り金を叩くのかと、彼女は俄に不安に囚われた。
その何年後には、どうしたらいいのだろう。小娘は、彼女が高齢であることを考慮して恐らく何年かしか生きられないだろうと踏んでいるのだ。けれど、その憶測が外れた事態への備えはない。金も家も行く宛もなく、寿命だけは無駄に残っていたとしたら? この世で生きるには金がかかるというのに、財産を全てなくして、どうやって生きろと言うのか。資金が底をついて家賃を払えなくなり、老人ホームを追い出されれば、野垂れ死にするしか道はない。暗然たる面持ちの彼女には、目の前で荷造りを手伝う小娘が、だんだん死神に見えてきた。
「施設は、ベッドを始めカーテンからテーブル、ソファーなどの家具一式、浴室や食堂も全て完備されています。ですので、身の回りの品や衣類、タオルだけで十分かもしれませんね。家具は、リサイクル業者に買い取ってもらいましょう」
小娘の効率のいい言葉の全てが、及び腰の年寄りを安全な我が家から追い出して施設に閉じ込めて無一文にさせ、挙げ句に尊厳もなにもない陰惨な最期を迎えさせるために事務的に処理しようと企むニュアンスとしか受け取れなくなっている。だが、今更後戻りはできない。白紙に戻そうとしても、手遅れなのである。彼女の沈鬱な顔色は濃くなっていく。高速で進んでいく状況。あと数日で、彼女は全くの身一つで煢然と放り出されてしまうのだ。
「衣類は、これだけ、ですか?」
小娘が目をあらん限りに丸くして、明らかに異質な千鳥格子のAラインワンピースと黒いウールのステンカラーコートに怪訝な視線を注いでいる。二十歳祝いで亡き祖母から贈呈され、台所の板敷きの下に長年隠しておいた彼女の宝物だ。
「まさか」彼女は、寝間着にしている朝顔の浴衣を畳み、二組の足袋を乗せて先述の洋服の上に置いた。
「あとは、これ」と、彼女は着ている藍染めの着物の袖を摘む。帯と一式、こちらも祖母から譲渡された品である。小娘が呆れるほど、彼女自身の持ち物は少なかった。理由は単純明快。それ以外は全て廃棄したのである。
亡夫は度の過ぎた倹約家で、着衣を許されたのは古着や縫い直した服のみ。豪邸の住人は、継ぎ接ぎの古着を着た夫婦だったのである。滑稽な絵面だと我ながら失笑してしまう。なるほど、夫の極端過ぎる倹約のお陰で『スノードロップ』の頭金が出せたのは紛うことなき事実だが、夫がそこまで見越していたとは到底思えない。思いたくない、のである。夫が、自分が死んだ後のことまで見越す、わけがない。ましてや、サンドバッグとも端た女ともつかない妻のことを心配するなど、絶対に有り得ない・・!表面上は従順だった彼女は、内心では心底うんざりしていた。それが噴出し、思い入れのない衣類を全て破棄した。それだけである。だが、そうして取捨選択し身軽になってくると、いつしか忘憂し、未知なる第二の人生への好奇心が滾った。
「あとはご主人の骨壺で、荷物は全部ですか」
彼女が必要とする全てが詰まった唯一の段ボール箱を見下ろす小娘。汗を拭った彼女は、頭を振る。
「あの人は無縁仏として、合同供養してちょうだい」
庭の檜林から、ヒグラシの声が聞こえる。彼女は、この家で感じた季節を追憶した。庭園に植えられた四季折々の草木や生物、空の変化。美しい自然現象は、いつだって瀕死の彼女を慰撫してくれたのである。
開け放した窓から差し込む西日を眼鏡のレンズに反射させ、戸惑いながらも微かに頷いた小娘。そこで初めて、小娘の眼鏡が黒ぶちではなく赤い細身になっていることに気付いた。吹き出物が消え、リスの尻尾のように短かかった引っ詰め髪は伸びて編まれ、薄く口紅をひいている。時は流れているのだ。
「・・お世話様」
偏屈な老婆の意外な言葉に、小娘は唇を噛んだ。
「どうぞ・・ご健勝で」
杪夏の頃である。
そうして、踏み出した第二の人生だというのに・・
食堂の窓際に設置されたカウンター席の端っこに陣取った彼女は、憂鬱そうに朝食の箸を動かしていた。
窓の外は快晴だが、悪夢の影響で気分は晴れない。亡夫は、妻が自分の幸せだけを考えることを許さず、それ故に妨害しているのかもしれないと思うと、朝食に忌々しい苦味が添付される。
「佐伯節子さん」
にわかに、幾分強い音を含んだ調子でフルネームを呼ばれた。
「おはようございます。お隣、いいかしら?」
トレーを手に立っていたのは『スノードロップ』の館長、井出妙子である。
能面のような薄笑いがトレードマークである井出館長は、淡色のカーディガンの下にウサギ柄のエプロンをかけ、手編みらしい小豆色のネックウォーマーを常に首に巻いている。半分以上白髪になった髪にパーマをかけて一つにまとめ、皺や滲みが多い顔や手から七十代くらいと推測される。温和な口調とは裏腹に、逆らえない威圧的なニュアンスを含む言葉を発する。井出は、節子が誰も座れないようにわざと膝掛けを置いていた隣席を、指していた。
逆らえないと悟った節子が渋々膝掛けをどかすと、井出は椅子を節子側に近づけて腰を下ろす。
「佐伯さん。いつも、どちらに、お出かけなんですか?」
井出は、入居者の行動を常に把握する油断ならない館長だ。これまでのやり取りから、節子は彼女にそんな印象を持っていた。節子の行動を探る糸があからさまな井出の質問に、迂闊に答えるのは危険。いや、それ以前に『介護つき有料老人ホーム スノードロップ』の生活全般においてそうなのだ。どこに行くのか、なにをするのか、なにを食べたのか、そんなことを日に何遍も人を変え手を変え、のべつ幕無しに質問される。亡夫の悪夢とは違う種類の監視と束縛だ。そんな牢獄のような環境から逃れたい一心で、頻繁に外出申請を提出し、無駄に外出している節子。井出は、そのことを確認したいのだ。放っといてちょうだい!と叫びたいのを飲み込んだ節子は、目を伏せてぽそぽそと空言を口にする。
「習い事とか・・お友達の付き合いでね・・」習い事の経験は皆無であり、友人はいない。
「あら、初耳ですねぇ。どんな習い事をやってらっしゃるの?」
井出は大袈裟に驚いた素振りをする。唇を噛んだ節子の脇にじんわりと汗が滲む。
「色々・・色々やってますよ。そうね・・社交ダンスでしょ・・お花でしょ」全て出任せである。
「あらあら。社交ダンスに、お花? 素敵なご趣味ねぇ。いつもお着物を着ていらっしゃるから、てっきり、日本舞踊でもおやりになっているものかと思ってましたよ。藍染めのステキなお着物ですよねぇ」
帯締めや帯留めなしで、だらしなく着付けている猫背の老婆に日本舞踊もクソもないだろう。おほほほ・・と、節子は引き攣った笑いで必死に誤摩化そうとした。井出の小指が、先程からカウントを取るように微かなリズムを刻んでいる。能面を思わせる薄笑いは微動だにしない。
「でも、社交ダンス用のお衣装なんかは、どうしてるんです? 佐伯さんの少ないお荷物の中には、それらしきものは見当たらないようでしたけど」
「そういうのは・・えーと・・先生が・・そう、預かってくれるの」
井出の小指の音を耳障りに感じながら、なんとか絞り出した精一杯の虚言は掠れていた。
「あらあら、親切な先生ですねぇ。でも、そんなにご立派な趣味がおありでしたら、せっかくですから、ここでも教えていただきたいわ。お花に社交ダンスなんて、皆さん喜ばれますよ」
「いいえいいえ!とても!無理だわ!しょっちゅう、叱られますもの!」
思わず声を荒げてしまった。だが、井出の小指のリズムは止まらない。
「あらあら。残念。でも、お家では旦那さんの介護が大変だったでしょうに、習い事でも叱られるなんて、息抜きだかなんだかわかりませんねぇ」節子の事情を粗方承知の上での茶番。精神的な虐めではないか。
居たたまれなくなった節子は、朝食を中断して席を立つと、一目散にエレベーターを目指す。背後から井出が追い掛けてくるような恐怖に怯えながら、猫背を傴僂にしてエレベーターの呼び出しボタンを連打した。
「佐伯さん?」
おはようございます、と、優しげな声をかけてきたのは、目元の泣きぼくろが特徴的な介護福祉士の丹下靖子である。
彼女は、この『スノードロップ』で親しみやすい唯一の職員である。
白髪混じりの髪を引っ詰め、動きやすいフリースやブラウスにスラックス、足元はスニーカーのラフな恰好をして、いつも快闊な笑顔でテキパキ働く丹下。彼女は他の職員と違い、強制するということがない。
狷介固陋といった大層なものではなく、無知さや暗愚さが露見するのを恐れる見栄っ張りの節子は、半強制的に参加させられるレクリエーションやイベントといった入居者同士の交流が大嫌いであった。丹下は、苦痛に満ちた顔で部屋の隅っこで固まる節子をこっそり逃がしてくれるのだ。楽しんでやらないことに意味はありませんからと、慈悲深い笑顔を向ける丹下の気遣いは節子にとって正に地獄に仏。
「なにか、お気に触ることでも、ありましたか?」
だが、いくら信用の置ける丹下であろうと、無駄に外出して公園や喫茶店で時間を潰しているだなんて口が裂けても言えない。業務上では丹下より、雇い主の井出の方が立場は上。正当な理由がない外出を問題にでもされたら、それこそ外出禁止になりかねない。節子は、顔を歪めて俯いた。
丹下は、そんな老婆の様子を眺めていたが、明日は外出ですね、とさりげなく話を変えた。
「そう・・だった かしらね」また、尋問されるのかもしれない懐疑心から、とぼけた返答をする節子。
「あの、佐伯さん、よければ、」
丹下が、急に声のトーンを落として囁いたのと同時に到着したエレベーターから排出された老人達が、節子と丹下の間と会話を緩慢に遮っていった。食堂が俄に活気づいてきた。節子と共に急ぎ足でエレベーターに乗り込んだ丹下は、行先階ボタンを押しながら、再び切り出してきた。
「よければ明日、個人的に、ご案内したいところが、あるんです」
丹下の意外な言葉に、節子の反芻していた不安は霧散し、露見していた落胆と誘われた歓喜が湧き立った。
「でも・・」
節子は、咄嗟に遠慮の言葉を口にする。丹下は自分の行動を探るために井出に依頼されたスパイかもしれないという懐疑は拭えない。いくら優しくて親切な人間であっても、なにがきっかけで豹変するかわからないのだ。簡単に他人を信用すべきではないのは、散々舐めてきた苦渋と共に身に滲みているつもりである。
「大丈夫。気にしないで下さい。明日は私も休みなんです。外出の時間に合わせて、駅で待ち合わせましょうね」
闊達な笑みの丹下がとんとん拍子に決めた約束に抗えない節子。これで、佐伯節子の外出には、大した用事がないのが決定づけられてしまったことになる。丹下は井出に報告するかもしれない。節子は眠れぬ夜を過ごすことになった。
翌日、予定通り外出した節子は、躊躇したが結局、丹下との待ち合わせ場所の駅に足を向けた。天気予報通りの爽やかな秋晴れの下、公園のベンチや喫茶店で、無意味な時間が過ぎるのを耐え忍ぶよりは、丹下と行動したほうが最良だと判断した。それに、魚心あれば水心である。
合流した丹下は、黒いタートルネックと透け感がある黒のプリーツスカートというシックな出で立ちである。きちんと化粧をして染められた髪を夜会巻きにし、首元には星型のネックレスが輝いていた。
「ごめんなさいね。せっかくの外出を、私に付き合ってもらっちゃって。ここからそう離れていない場所ですから」
『スノードロップ』の介護福祉士としてラフな恰好をした素っぴんに近い丹下とは、別人のようである。丹下の瀟洒な変わり様に仰天した節子は「あらヤダ。観劇にでも行くの? あたし、こんな成りで来ちまったわ。言ってくれればよかったのに」と、己の恰好を恥じつつも、かといって着た切り雀の情けない我が身。
「観劇? あぁ、私の恰好ですね。私、プライベートではこんな感じなんですよ。介護するのに、おめかしは、必要ないですからね」
丹下の真っ赤な紅を引いた唇の口角がゆっくりと上がり、同時に目が細く垂れていく。化粧のためか『スノードロップ』勤務時より数倍若く見え、黒いタートルネックのために悴首が余計に細長く、まるで外国の人形のようだ。細めた目元の泣きぼくろが、今日はやけに艶っぽい。
「あなた、お化粧が上手なのね」
「本当ですか?! うわー嬉しい!ありがとうございます!」
「女優さんみたいよ。よく似合っている。羨ましいくらい」
「そんな・・佐伯さんだって、化粧映えしますよ」
「そうかしらねぇ。化粧なんてしたことがないものだから、よくわからないわ」
唇に紅一つ引こうものなら、亡夫の平手が飛んできた辛酸な記憶が蘇る。女親族達や近所の主婦が流行の化粧や髪型や服で装い、最新の化粧品の話題で盛り上がるのを青痣だらけの顔で、羨望の眼差しを向けていた若かりし頃。祖母が形見として残してくれた口紅や、友人からプレゼントされた白粉を火に焼べられた遺恨が今でも残っている。俯く節子の背中を擦りながら、じゃあ、お化粧品を買いに行きましょう!と、丹下は手を叩いた。
「佐伯さんの人生は、これからこれから!したかったこと、しましょう!」
丹下は早速、節子を伴い駅近のドラッグストアーに向かった。
店に入った丹下は、手慣れた動作で次々と化粧品テスターを棒立ちの節子の手や顔に試し塗りをしていく。
「佐伯さん、今までお肌がかぶれたりとかありませんか? 普段のお手入れはどうされてますか?」
矢継ぎ早に聞かれる丹下からの質問に、首を横に振り続ける節子。
「化粧は愚か、スキンケアすらされたことがないなんて・・驚愕です」
大袈裟だった。そんなことはない。節子だって娘の時分にはヘチマ水などをつけていた。結局、スキンケアから基本の化粧品一式までを見繕い、結構な値段になってしまった。お化粧品って割に高いのねぇと呆れてがま口を取り出した節子。けれど、買物カゴの中で揺れる色とりどりの容器達を、誕生ケーキを前にした子どものように目を細めて見つめた。
その後、化粧品が詰まったビニール袋を手に、二人は電車に乗り隣町へと移動。到着した時間がちょうど正午だったので、駅前にある洒落たオムライス屋に入店した。こんなハイカラな店は初めてよと、興奮しながら着席した節子。けれど、渡されたメニューを広げた途端、しかめっ面が始まった。選択の多いメニュー内容であった。数種類のオムライスとサラダを一つずつ選び、スープかパンを選び、セットのドリンクとデザートを選ぶのである。
「あなたと同じじゃダメかしら?」と言いかけたが、丹下が選んだオムライスを見て落胆した。ケチャップがかかっているのだ。節子は、ケチャップが苦手だった。自分の血を見ているようで気分が悪くなるのである。自分で選ばなければならない。そうして、丹下の助言の元、複雑なセットメニューと悪戦苦闘した末、なんとか注文をやり果せた節子。ほっと胸を撫で下ろして、お冷やを飲んだ。選択肢が増えることは、自分自身の嗜好を細かく反映しやすメリットがあるのだろうが、選択しなければいけない事項が増えるので面倒臭く、歳を取る程、混乱をきたしやすく苦痛を感じてしまう。節子は、衣料品店での苦悩を思い出し、微苦笑する。外出の度に、出向いている衣料品店。その度に、服の種類と色と素材の豊富さ、ずらりと並んだ品揃えに圧倒され混乱して逃げるように退店することを繰り返している。時代のせいなのか加齢のせいなのか、買い物すらできなくなった優柔不断な自分が情けない。昨日、井出に尋問された原因の一端は、入居後三ヶ月も経つというのに、同じ恰好をしている自分のせいでもあるのだ。
「佐伯さんの息子さんは、外国に永住されているんでしたよね?」
「紅茶で有名な国よ」
「じゃあ、安泰ですね」
節子は、夫の葬儀に遅れて来た上、始終一貫して目に余る態度だった息子を思い出す。
哀惜の念など無縁の息子は、読経の最中に現れ、焼香もせずに遺影を睥睨しただけで、出棺時間まで式場の外で酒瓶片手に酔い潰れていた。火葬場では赤鬼のような憤怒の相で、火葬炉に納まる直前の棺を蹴って『ざまあみろ!』と吐き捨てた。息子が父を嫌悪していたことは知っている。帰国しただけ孝行なのだろうが『安泰』とは程遠い。
そういえば、小娘も『安泰』という言葉を使っていた。案外『安泰』なんて不安定なものなのかもしれないと思惟に耽る節子の目元に、チラチラと光が戯れる。丹下の胸元で陽光を反射していたのは、銀色のペンダントトップ。逆向きの星が、丸い円の中でキラキラと太陽の光を反射して揺れている。
「首飾り、素敵ね」
目の前にペンダントトップを持ち上げた丹下は、ありがとうございます、と微笑した。うっとりと眺める老婆。
「・・今度は、アクセサリーを買いに行きましょうか」
「そんな・・悪いわよ。あなた、お休みなのに、仕事してるようなものじゃないの」
「気にしないでください。私も佐伯さんと、こうして過ごせて楽しいんですから」
破顔一笑の丹下に「そうは言っても、烏滸がましいわよ・・」と遠慮の言葉を口にしてはいるが、本音では頭を下げてでも買い物に付き合ってもらいたかった。急務である服の購入。八百屋やスーパーで、食品や日用品を買うのとは訳が違う。未知のスキル、センスなるものが必要なのだ。物知りな上に的確なアドバイスを与えてくれる丹下が付き添ってくれれば、どれほど心強いか。けれど、彼女は渋る様子を演じた。おんぶに抱っこで、嫌われたくはなかったからだ。
「それじゃあ・・あなたがほんとうに暇な時にだけ、お願いしようかしら」
喜んで!と破顔する丹下を、節子は心底頼もしく感じた。こんな親切な丹下と出会えたことだけでも『スノードロップ』に来た甲斐があったというものだ。そうして二人は楽しく食事を済ませた。
店を出ると、先程まで出ていた太陽は雲に隠れてしまい、薄ら寒くなっていた。
亡夫が戦争から帰還した日も、こんな陰気な空模様だったわねと節子は曇天を仰ぐ。
泥と垢と血で染まった軍服。真っ黒く焦げたような顔に、三白眼だけが餓えた獣のように獰猛に光っていた。その異様な剣幕に、彼女は鬼が来襲してきたのだと勘違いし、幼い息子を抱きすくめながら後退ってしまったのである。怯える妻子を睨みつけ『売女でもしておったか!』と怒声を発した夫。
「佐伯さん!」
呼ばれて我に返ると、丹下が彼女を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? 何度も呼びかけているのに、答えてくれないから。疲れましたか?」
「ごめんなさいね・・大丈夫よ」
なにかにつけて蘇る忌まわしい記憶。うっかりすると、鬱屈してしまう。
丹下は何度か目を瞬かせていたが「着きましたよ」と目の前の建物を示した。
「あら・・あの星」
建物の入り口らしき扉に視線を向けた節子の色素の薄い黒目に映ったのは、丹下のペンダントと同じモチーフ。彼女の傍らに微笑みを讃えて寄り添う丹下の瞳に映っているのは、老婆の不思議そうな横顔。
「逆五芒星って言うんですよ」闊達に笑む丹下。
「そうなのね・・」
丹下に連行されるようにして足を踏み入れた建物の中は、美術館のようなモダンな雰囲気が漂う空間だった。
大理石の床に、闊歩する丹下のハイヒールの音が響く。コンクリート打ちっ放しの壁には、等間隔に豪華な金色の額縁に縁取られた絵画が設置されていた。まるで闇の世界へ通じる窓ででもあるように一面に漆黒で、抽象的に蠢く『なにか』が画布の上に描かれている絵画だ。節子がいくら目を凝らしても、何が描かれているのかの判別は困難だった。
「あれは、なにが描いてあるの?」
回廊を少し行ったところで、節子は丹下に尋ねた。
「全て、明けの明星について描かれたものです。ただ、出典元が違うだけ」例えばこれは、と一枚の絵画に歩み寄る丹下。他のと同様に漆黒の闇が渦巻いている絵だ。
「イザヤ書第十四章の一場面。佐伯さん、聖書はご存知ですか?」
節子は首を横に振る。聖書だなんてカソリックじゃあるまいし。
「三大予言書の一つ、イザヤ書は旧約聖書の一種で、全六十六章からなります。この十四章に書かれていることは、かいつまんで言うと、こんな内容です」
「黎明の子 明けの明星よ あなたは天から落ちてしまった
諸々の国を倒した者よ あなたは切られて地に倒れてしまった
私は天に昇り 私の王座を高く 神の星の上におき 地の果てなる集会の山に座し 雲の頂きに昇り いと高き者のようになろう しかし あなたは地獄に落とされ 穴の奥底に入れられる」
歌うように朗読する丹下。節子が知っている介護福祉士としての優しげな顔は消失し別人のようである。
「この十四章の場面を、特殊な技法を使う画家が描いたものなんです。ちなみに、この隣のはルカの福音書第十章の場面を描いたもので、あっちはヨハネの黙示録。全て、明けの明星を描いたものです」
丹下の理解不明の蘊蓄をお供に、額縁をいくら睨んだところで、漆黒の闇に蠢く『なにか=明けの明星らしいもの』は老眼が進み始めた節子の目には一向に顕現しなかった。絵画も高尚になると、一般人では何が描かれているのかを見ることすら不可能になってくるものらしい。節子は疲労した目を瞬かせながら、溜め息をついた。丹下は、節子の手をとると奥へと誘っていく。手を引かれる老婆の頭上には、疑問が風船のように幾つも浮遊している。
ここは、なんなのかしら・・
出し抜けに、銀色に輝く巨大な逆五芒星モチーフが掲げられた礼拝堂のような空間に出た。シャンデリアが幾つも垂れ下がる高い天井。黒を基調にした整然と並ぶ長椅子。正面の祭壇前には漆黒のフードを被った人物が直立している。
「私ね、いっつも歯痒く思っていたんです。佐伯さんって、卑屈で後ろ向きで捻くれてるのに、優柔不断でしょ。自分のことに無責任で。でも、それって罪なことなんですよ」
随分な言われ様だわと衝撃を受ける節子。善良無害だと思っていた丹下も、鋭く無慈悲な観察眼で自分を見ていたのだ。やっぱり、人なんて・・逃げようと抵抗を試みるが、丹下は力強く節子の手を引いていく。迷いのない若い力に抗うことができず、引きずられるように前進していくと逆五芒星のモチーフの中に顔があるのに気付いた。人ではない。角の生えた山羊のようである。丹下の言葉は止まらない。
「本当は、こんな勧誘紛いはルール違反なんだけど、どうしても見ていられなくて、特別に例外を認めてもらったんです。だって、人生がもったいないわ。佐伯さん、人生ってね、もっと自由で、合理的に生きられるものなのよ!」
フードを被っていたのは髭を生やした外国人風の男。男は、手にした杖を天に振り翳し、分厚い唇を開く。
「ルシファーの名において、私たちは、汝、佐伯節子を歓迎し、あなたの足を左側の道に置きます。あなたは人生を愛、情熱、耽溺、ルシファー、そして闇の道に捧げるのです。佐伯節子よ!悪魔を称えよ!」
厳かなテノールが空間に木霊した。そして、呆然とする彼女の首に例のペンダントがかけられる。
「よかったですね、佐伯さん。初めてのアクセサリー!私とお揃いですよ!」
よかったの、だろうか? 節子の思考は停止したままだ。けれど、一つだけ捻り出した意志を叫んだ。
「・・あたしゃ金なんてないよ!」
男と丹下が失笑した。
挽きたてのコーヒー豆の芳ばしい香りが店内に漂い、停止した思考をほぐしてくれるようだ。
駅前の喫茶店に入り、注文を済ませた丹下は、向かいで茫然と座る老婆に向かって口を開いた。
「私たちサタニストに必要なことは、お金じゃありません。悪魔理論の理解と伝達です。サタニストが信仰する主義『サタニズム』って呼びますけど、『サタニズム』では神は疎か悪魔も存在しないと見なします。なので信仰はしません」
白いマグカップが二つ運ばれてきた。丹下は、自分のコーヒーにたっぷりミルクを注いだ。
「『サタニズム』的には、サタンイコールイデアなんです。イデアは、理念とか理想のことね。『サタニズム』では、自身の物質的・身体的な発展と解決がなにより重視されるんですけど、それがイデアであり、ルシファー」
鼻息荒く力説する丹下の泣きぼくろを、鮟鱇の唾に噎せたような顔で見つめる節子。丹下が、なにを説明しているのか、全く理解できない。けれど、わからないと言うのも失礼な気がして、黙っていた。丹下の気を損ねて、彼女との仲が拗れてしまうようなことがあれば、『スノードロップ』での生活は地獄になってしまう。先程の妙な場所が悪魔教会という所で、自分はそこの信者になったのだということは理解できるが、それ以外は、ちんぷんかんぷん。横文字が多いからだ。それでも、必死にわかっている振りを装って、質問を試みる。
「・・その、ルシファーってのは、なんなの?」
「明けの明星のことに決まってるじゃないですか。悪魔教会なんですから」
なにを今更? という怪訝な顔をされたので、愚問だとわかった。
「ラテン語で『光を掲げる者』という意味です。元々ルシファーは現存する大天使の長でした。最も美しく、神に近い力を持っていたそうです。堕天使になった理由には諸説ありますけど『人類救済計画』を提案したら、神に否定されて地獄に落とされ、今も地獄の番人をしながら後悔の憂鬱を抱えてるって説が、個人的に好きですね。他には、神に戦いを挑んだからとか、神が作っていた人間に仕えろと言われて逆らったとか、人間に嫉妬したとか色々ありますけど」
コーヒーを一口啜った丹下は、バッグを探って、老眼鏡と例の山羊の顔入りの逆五芒星が描かれた黒い本を取り出した。「この本は、サタニストが守るべきルールとサタニズム理論が記されている『THE SATANIC BIBLE』です。あとでコピーして渡しますね」
老眼鏡のレンズ越しに拡大された太いアイラインとマスカラでがっつり固まった睫毛の丹下の目が、昆虫のようだと思いながら大きな溜め息をつく節子。
「神だの悪魔だの、なんだか壮大な話ねぇ・・あたしの耄碌頭で、ついていけるかしら・・」
丹下が口を開いた時、店員が丸いケーキを二つ運んできた。一転して丹下の目が輝く。
「うわー!おいしそう!私、モンブラン大好物なんです!佐伯さん、食べましょう!」
子どものように顔を綻ばせた丹下は、モンブランなるケーキを頬張って至福の表情を浮かべた。
「難しく考えないでください。私たちサタニストがすべきことは、『THE SATANIC BIBLE』に乗っ取って自分のために自由に生きることだけです。こうして、好物を味わったり、好きな服を着たり、自分がしたいことをするんです」
早くも食べ終えた丹下は、もう一個食べちゃおうかなーと、メニューを広げた。そんな丹下から、頂上の栗を脇に落としたまま手つかずのモンブランに視線を落とす節子。事なかれ主義でつい丹下と同じものを頼んだが、栗のケーキだとは思わなかったのだ。栗は亡夫の好物である。秋になると、夫がどこからか仕入れてきた大量の栗を、来る日も来る日も調理させられた。そのトラウマから節子は栗が大嫌いである。丹下に譲ってやろうかと思案したが、口をつけてないまでも、他人のフォークが触れた食べ物は穢らわしいと忌み嫌う人もいるので、逆に失礼かもしれないと逡巡しているうちに、丹下は店員を呼んでチーズケーキを頼んでしまった。
「・・集まりとかは、あるの?」栗のケーキから気を逸らそうと質問をする節子。
「集まり? ないですよ。あれは、有神論的サタニズム達が神を冒涜することを目的にしたものですから。生贄だの魔法陣だので悪魔を呼び出す怪しい儀式みたいなものイメージしてます? ないない。悪魔協会は、無心論的サタニズムを信仰してます。集会もなければ、怪しい儀式もありません。でも、」丹下は、咳払いをした。
「・・魔術は、あるみたいですよ」
口許に手を添えて囁くと、節子のモンブランを自分のところに引き寄せた。
「地上におけるサタニストの十一のルールに、記述があるんです。魔術を使って願望がうまく叶えられた時は、その効力を認めること。首尾よく魔術を行使できても、その力を否定すれば、それまでに得たもの全てを失ってしまう、って。文面通りだと、魔術はあるけど、必ず使えるとは限らないし、使えても奢るなよってことだと思うんです。と、いうことは、魔術自体は存在するということで」
語りながら、モンブランに嬉々としてフォークを突き立てる丹下。そこに、チーズケーキが届いた。彼女はモンブランを咀嚼しながら、チーズケーキを受け取ると節子の前に置く。
「佐伯さん、チーズケーキお好きでしたよね? この前のお祝い会でも、残さず食べているご様子でしたから」
確かにチーズケーキは、最近のお気に入りである。『スノードロップ』で食べてその美味しさに病み付きだ。
「佐伯さんは、もうサタニストなんですよ!自己欺瞞と見通しの欠如は、罪なことなんですよ。ご自身が、食べた後にも後悔しないような心から食べたいものを、きちんと主張すべきです。勇気を出さなきゃ」
節子は、ごめんなさいねと謝るが、謝ることじゃありませんよと二重に注意されてしまう。
「無知であることは罪なことなんです。わからなければ聞いてください。誰にも遠慮は要りません。自分の思うように、したいように生きることが、今日から佐伯さんの課題になったんです。どんな時にもこれを心掛けないと、立派なサタニストにはなれませんよ!」
二つめのモンブランを頬張りながら力説する丹下。栗の匂いが漂ってきて、気分が悪くなる。
「サタニズムには九つの罪があるんです。さっき言った自己欺瞞と見通しの欠如以外にも愚鈍さ、虚栄心、唯我主義、群れに従う、過去の正統の忘却、無駄に高いプライド、美意識の欠如。佐伯さんは、この殆どを実践して自ら不幸に浸っているように私には見えます。せっかくそのお歳まで元気でいらっしゃるのに・・」
節子は黙ってチーズケーキを咀嚼していたが、不意に腹が立ってきた。彼女がケーキを乱暴に切りつけたフォークの音に驚いた丹下は思わず口を噤んだ。
「・・元気だからなんだっていうの? そんなもの泡か煙みたいなものよ。精神とは無関係だわ。だってね、今まで私がなにをしてきたかわかる? 疲れて居眠りしたり、献立を考えたり、つまらない夢をみたり、夫に怯えたり、実践のない考えに考えを積み重ねていただけ。その結果が罪だって言うんなら、あたしみたいな年寄りは、いっそ叩き殺したほうが功徳かもしれないわ!」
ケーキの最後の欠片を苛々と口に放り込みながら一気に捲し立てた。他人に怒りを表現したのは初めてだった。せっかくのチーズケーキが台無しである。丹下の指摘は、図星だ。畏服していた夫の遺訓とも言える悖った姿勢。そうしなければ生きてこれなかった。自分を守れなかったのだ。幸せだ不幸だと悠長な思考を捏ねている余裕などなかった。だから、余計に忌々しい。慍色の顔でコーヒーを飲み干す節子の様子に、丹下は戦いて頭を垂れた。
「すみません!本当にすみません!佐伯さんの気持ちも考えないで、つい失礼なことを・・騙すつもりはなかったんです。でも、私、ただ、佐伯さんに、もっと自分の人生を、自由に、生きて欲しくて・・」
悄気返る丹下に困った眼差しを向けた節子の口から溜め息が漏れる。丹下に悪気があったわけではなく、純粋にお節介なのだろう。少々強引ではあったが。別にこのままサタニストでいても、金品の要求はないようだし、それに、自分が老い先短い暇な身である状況には変わりない。漠然と過ごすよりは、少しは面白いかもしれないと考えた。
「・・字を、大きくしてちょうだいね」
節子の言葉に、丹下の顔色がぱっと明るくなった。
「承知しました!」
実は私も、この本には相当苦労してるんですと朗笑する丹下に、節子もつられて笑ってしまった。
翌日、スノードロップで会った丹下靖子は、見慣れた姿に戻っていた。丹下もまた、プロなのだ。それとも、これが、彼女の言っていた『魔術』というヤツかしらと、節子は感心した。
『THE SATANIC BIBLE』のコピーは、節子の要望通り、拡大されて読みやすい濃さのものが数枚、紙袋に入って自室に届けられた。節子は、九十の手習いだわねと老眼鏡の目を瞬かせ、うたた寝を挟みながらも真剣に悪魔理論に取り組んだ。元々、特にやることもない暇な身。要は暇潰し代わりである。数週間後には丹下が作成したコピーは全て解読できるまでに至った。まだまだやるじゃないのあたしも、と自画自賛で眠りについた節子。その晩は、月のない夜であった。彼女は奇々怪々な夢へと落ちていった。
彼女が佇んでいたのは、悪魔協会の講堂だった。掲げられた逆五芒星のモチーフを見上げているのである。
銀色に輝くモチーフは光を反射する毎に、山羊の顔が人面に変化していくように見えるのだ。それを見極めようとする彼女の目に、反射光が眩しく刺さる。そうして何度か瞬きをしている間に、奇妙な男が目の前に顕現していた。
「こんばんは マダム」
谷間を悠々と渡る山風のように猛々しく厳かな声を発する男は、漆黒色の毛皮に銀色の蹄が目立つ黒山羊の下半身と、逞しい男の裸の上半身が繋がっている姿をしている。えも言われぬ美しい顔に寄りそう癖っけの黒髪からは二本の捻れた角が突き出ており、ふさふさした睫毛に縁取られた瞳の色は、音もなく燃える炎のような濃い血紅色だ。男の圧倒的で暴力的な美を前に、恍惚と唖然に捕われた節子は辛うじて「・・どなた?」と掠れ声で問うた。
「我は ルシファー」
どこかで聞いた横文字である。どこでだろうかと、節子は必死に記憶を掻き回す。
「もしかして、あなたは、この悪魔協会の?!」
ルシファーは、薄く笑う。さぞかし、間抜けな老婆だと思ったのだろう。だが、節子は構わず続ける。
「想像していたより、素敵な方だったもので、正直驚いていますわ」
「どんな想像を していたのだ」
「もっと、厳めしくて怖い顔よ。あの顔も山羊ですからね。こんなに素敵な方だったなんて。お会いできて光栄です。得した気分だわ」
易々と言葉が出てくる上、大胆な物言いに我ながら驚いてしまう。『THE SATANIC BIBLE』の内容が身に付いてきているのかもしれない。
「それで、あたしになにか御用ですか?」
「提案をしに きたのだ」
「こんなおばあちゃんに、なんの提案かしら・・どうぞ、お続けになって」
「汝は その歳まで 大病もなく怪我もなく健やかに生きてこれた それは誠に素晴らしいことだ」
「まぁ・・それはそれは・・」節子は、また健康のことを言われるのかと、憂鬱な目つきをした。
「嬉しく なさそうだな」
「そりゃあね。だって、老年なんて熱病みたいなものですもの。気まぐれ病にかかって、ただ悪寒に震えているだけなんです。健康で、だからどうだっていうんです? 人間三十を越してしまったら、もう死んだも同然ですわ」
「汝は 長寿に倦んでいるのだな」
顎に手を当てた悪魔は、不満そうな老婆に向かって莞爾に笑んだ。
「だが残念ながら 汝の余命は あと十五年あるのだ」
節子は我が耳を疑った。悪魔は確かに今、余命十五年と口にしたのだ。つまり、百十二歳。
老婆は、目眩に襲われて崩れ落ちた。
そんな・・あと十五年も、息をするミイラのように意地汚く生きねばならないなんて・・!
絶望に打ち拉がれる老婆の様子を、ルシファーは興味深げに凝視していたが、少しして口を開いた。
「我からの提案は こうだ」
悪魔の提案は『節子の未来の十五年分の寿命を引き換えにして、三十回若返れる』という内容であった。
「・・寿命と引き換えに、若返れる、ですって? そんな奇跡みたいなこと・・本当かしら?」
「『奇跡』 という言葉は妥当ではない 『魔術』と言ってもらいたい」
丹下の言っていた『魔術』というやつなのだと合点がいった節子は素直に頷く。
「一回の若返りには 半年分の生命エネルギーが必要だ」
「でも、それは、あなたと契約することになるのね。あたしはなにを差し上げればいいの?」
「魂だ 三十回目の若返りが終わった時 汝の寿命は尽き 汝の魂は我のものとなる」
つまり、成仏できないということを意味する。節子は反射的に生唾を飲んだが、次の瞬間、でも、別にあの世に逝っても会いたい人はいないどころか、むしろ会いたくない人ばかりが揃っているんだわと気付き、悪くないわと考え直した。
屍のように残り十五年を憂鬱に生きた後に、嫌いな人が揃っているところに逝くくらいなら、いっそ、若返って思いっきり遊んだほうが未練なく死ねるであろうし、その後に、美しい悪魔のものになれる方が俄然面白そうである。
「感覚も体液の巡りも鈍りがちな侘しい孤独から 広く賑やかな世界へ 汝を招こうというのだ 悪い提案ではないだろう」ルシファーは魅惑的な笑みと、しなやかな指を弧を描くように節子に向けた。
「三十日後に、あたしの魂は、あなたに食べられちゃうのかしら?」
節子の問いに、ルシファーが教会の鐘のような神々しい高笑いをした。その様子を恍惚の表情で見つめる老婆。
「汝の魂は 永遠に 我の側にあることになる」
「側に? あなたのお側使いになるの?!」
節子は素っ頓狂な声を出して狂喜した。ルシファーはまた笑った。
「汝は 面白い それに とても美しい 申し分ない」
さあ、どうする? とルシファーは答えを迫った。
彼女は爽然と顔を上げると「それは、もちろん、」と口を開いた。
「待って!」
自分の切ない声に驚いて覚醒した節子。いつも変わらぬ自室の無機質な白い天井が彼女の視界を埋める。黎明だ。
あの美しく蠱惑的な悪魔は、節子の懇願も虚しく、夜と共に去ってしまった。
落胆の息をついた彼女は、ふと思い出して、ベッドサイドテーブルに置いたノートを引き寄せた。揺曳な残夢を手繰り、忘れる前に書き付けておかないといけない。
ルシファー 若返り 三十日間 太陽が沈んだ夜の間だけ 合い言葉
「合い言葉・・合い言葉、なんだったかしら・・」
五分程、頭を悩ませた末に、やっと思い出した。美しい悪魔は、慈悲に満ちた潤んだような真紅の瞳を彼女に向けて、愛おしそうにこう口にしたのだ。
『時よ戻れ 汝はいかにも美しい』
陽炎の夜 御伽話ぬゑ @nogi-uyou
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