迷宮詩編 ~斯くもおぞましき迷宮の底で。たった一人の姉を救うために救助隊に入隊した少年が、全てを取り戻すまでの物語~

ひのえ之灯

始まりの絶望、閉ざされた門

 本を開き、ぱらりと頁をめくる。

 文字をなぞろうとして、汚れた指に気づいた。


 水が使えれば良かったが、初めて訪れる迷宮中層の奥地で土地勘があるはずもなし。健気に服で拭い、多少マシになった指先で文字をなぞっていく。


 手入れのされていない黒い髪、その隙間から覗く黒瞳が、失っていた生気を取り戻すように揺らめく。


 指先が文字をなぞるたび、無意識に漏れるか細い声が文字を読み上げるたび、少年の張り詰めた気配は緩んでいった。


 広大で不自然な自然が蔓延る迷宮の中にあって、それはあまりにも異質だ。場にそそぐわぬ少年――ウィル・ミグニッドはぶつぶつと呟きながら文字を追い続けた。


「訪れし七つの試練……神は聖女へ偉大なる詩編を……堕落の蛇は……」

「おい」

「蛇を打倒……しかし世界に迷宮が……七つの災悪は聖女と七人の……」

「おい、ウィル!」


 ああ、なんだよ。

 気持ちよく文字の海に潜っていたというのに、自分の名前を呼ぶ声が耳に響く。水上げんじつに浮上する不快感に心が軋んだ。


「……なんですか、メルロイさん」

「なんですかじゃない。飯だ。食わないなんて言うなよ」


 乱暴に足元に投げられた袋を開けば、数日前に狩った石晶獣の一夜干しと、果物が入っていた。


「野営地の側に森があった。下層が近づけば環境も変わるんだな。天井から森が生えていたぞ。見に行ってみるか?」

「いいえ……別にいいです」


 ここは大陸に存在する七つの迷宮の一つ、東の雄ミリヤ公国が有する試練の牢獄、その中層である。


 メルロイも本気で驚いているわけではなく、単に話のきっかけなのだろう。しかし、それを望まぬウィルにはどうでもいい話だ。どかりと隣に腰を下ろしたメルロイに、渋々声をかける。


「まだ、なにか?」

「なにも。どこに座ろうが俺の自由だろう」


 自由か。なら仕方がない。

 迷惑極まりないが、猟兵にとって自由は何よりも大切な誇りである――そう、猟兵だ。


 迷宮が世界に現れて幾百年。

 初めて迷宮を調査した人類聖教の兵の呼び名と同じく、現在迷宮に潜る者たちは猟兵と呼ばれていた。


「人類聖教の聖典か。荷物になるだろうに、わざわざそんなものを持ち歩くほど信心深かったのか?」


 果実をひとかじりしながら、会話の糸口を探して閃いた愚にもつかない言葉。そこから話を広げて本題に入ろうとしたのだろうが、残念ながらウィルにそんな会話の機微を察する余裕があるはずもなし。会話を広げるなど土台無理な話だ。


「信仰なんかで姉さんが救えるんですか?」

「……そう、か」


 思いがけず返ってきたのは、特大の疑問の体をなした怒りと苛立ちだ。


 メルロイはどす黒い感情に困惑し、やめておけばいいものをそれでも会話を続けようと試みる。


「じゃあ、なぜそんなものを持ち歩くんだ」


 口にしたあと、ウィルの表情が緩むのを目にして後悔した。

 迷宮に潜り三か月と半分、寡黙で、何かに急き立てられるような焦りの表情しか見たことがなかった。それが、実に嬉しそうに微笑むではないか。


 ぞくり、と背筋が冷える。

 ガキが、こんな場所で浮かべていい表情ではない。


「これね、姉さんがくれたんですよ。知識として知るのははいいことだって。優しいでしょう?」

「……ああ、そうだな」


 それ以上、何が言えるのか。

 ウィルの姉のことはメルロイも知っている。というより、ミリヤを拠点にする古株の猟兵なら大抵知っているだろう。


 なにせ、有名人だった。

 わずか十五歳の少女は天才と呼ばれ、当時最大規模だった猟兵団に鳴物入りで入隊。意気揚々と下層へ向かい、そして、二度と帰らなかった。悲劇ではある。しかし迷宮ではよくあることなのも事実だ。当然、風化するのも早い。


 メルロイがそれを思い出したのは、妙な噂を耳にしたからだ。


 曰く、姉を追って迷宮に潜る無茶なガキがいる。姉を救うのだと息巻いている。


 さもありなん、と納得する。


 死んだことが受け入れられない気狂いというわけではなく、死者を諦めきれぬ理由が迷宮に存在するからだ。


 迷宮での死は二つに大別される。

 迷宮に充満する毒気での死と、それ以外だ。前者は慈悲も何もない、明確で確実な死である。しかし、後者は違う。


 頭が割れようが胴と足が離れようが、死んだ者は赫胞かくほうという赤い膜に覆われるのだ。何物にも破壊できないそれは、地上に運び出すことでぱちんと割れて蘇生を果たす。


 人類聖教の生臭坊主どもに言わせれば、それは神の恩寵であり、迷宮の底で神敵を封じ続ける聖女の祈りの力だという。実に馬鹿馬鹿しいが、確かに猟兵にとってありがたい。


 ただし、そう単純に喜んでばかりもいられない。なにせ、迷宮に入った姿のままで蘇生するわけではないのだ。


 赫胞に包まれた者は、迷宮に生息する生き物――石晶獣へと変わっていくのである。すぐに外に連れ出せば変化も最低限だろうが、危険な迷宮ではそれすら難しい。


 ならばあとで助けに来ればどうか。

 赫胞はどこからともなく沸く蟲どもによって迷宮の底へゆっくりと運ばれて行く。数日であればよい。しかし広大な迷宮は行って戻るだけで月単位の時間が必要になる。


 さらに、助け出された最長の期間は五年。人とは異なる獣の姿になった彼は、世を儚み命を絶っている。


 ゆえに、五年の期間を命の起源と呼ぶのだ。


 ここまで踏まえて考えれば、望みはある。

 しかしそれは五年という期限つきで、さらに時間が経てば経つほど難度は増すわけだ。


 だから噂のガキであるところのウィルの気持ちは痛いほどにわかる。


 しかひ、メルロイが知る少女の命の期限はあと十日やそこら、長くとも一か月程度のはずだった。


 駄目だな、これは。

 死んでも構わないと割り切った哀れな人間の目だった。


 自由を標榜する猟兵として考えれば、好きにすればいいと思う。ウィルとの契約は迷宮下層まで連れて行くことで、それより先は契約にない。


 まして、同情で連れてきたわけではない。確かな益があるからこそ、猟兵同士の契約を結んだのである。


「……来る、と思う」


 突然食事の手を止めたウィルは、野営地のさらに向こう、暗がりの奥へ険しい表情を向けた。


 これだ。何者も頼れぬ迷宮の中にあって、確かな何かを察知するウィルの異能。これが足手纏いでしかないウィルと契約を結んだ理由である。


 メルロイも何が、とは問わず団員たちを振り返り、怒号を発した。


「総員、毒溜まりを警戒! 面装めんそうを着装しろ! 晶石しょうせきを無駄にした奴は明日の荷引き番を一回追加だ!」


 慌ただしく団員達が動き出す。

 数か月単位で迷宮に潜る彼らの荷物は膨大だ。食料や水は多少現地で補給できるにしても、手持ちで対応はできない。そのために荷駄車に荷物を積んで運ぶわけだが、持ち回りのそれは皆が嫌がる役割だ。


 威勢のいい掛け声を尻目に、ウィルとメルロイも準備を始める。


 首から下げていた顔の下半分を覆う面頬に似た装具そうぐを持ち上げ、頭の後ろの調節紐を引いて顔にぴたりと密着させる。外気が入ってくる隙間がないか入念に密着具合を確認し、頬に空いた穴に一つづつ、計二つの白い石――晶石を差し込んだ。


 これで準備は完了。起動つまみを半回転、〝眠〟から〝起〟へ動かせば、晶石の力を吸い上げた装具機構が低い音を立て稼働を始めた。密閉された面装内で枯渇し始めていた酸素が供給され始め、不要となった廃気・・が音を立てて排出されていくのがわかる。


 晶石と装具。

 どちらも猟兵にとって重要な意味を持つ。


 晶石は迷宮内に生きる石晶獣と呼ばれる生き物の体内で作り出される石だ。ただし、迷宮から世界に現れてしばらくの後、この石に未知の力が内包されていることが発見された。


 そして長い年月をかけて晶石から力を取り出す機構が開発され、燃料として活用され始めると一気にその重要性が増した。木材や石炭と異なり枯渇することなく、石晶獣がいる限り無限に採掘可能な高効率の燃料である。


 猟兵を炭鉱夫と呼ぶ者がいることからもわかる通り、彼らにとってはまさしく黄金にも等しい飯の種だった。


 そして装具だ。晶石を燃料にする機構は装具機構と呼ばれ、その機構をもって作られた道具は装具と呼ばれる。あらゆる無理が可能となるその奇跡の道具は、安定して産出される晶石によってみるみる成長し、世界は装具なしには立ち行かないほどの発展を遂げていた。


 その波は、もちろん猟兵にも波及した。

 飯の種である晶石を使うことになれど、それで利便性に繋がり、安全性の担保まで得られるとなれば目端の利く彼らが率先して装具を使うのも当然である。


 その中で、面装と防護服は最も重要な装具だ。

 面装は新鮮な酸素を一定時間生成してくれる優れもので、これさえあれば迷宮内を幽鬼のように彷徨う毒気の溜まり場の中にあっても死ぬことはない。


 そして防護服は肉体的強度を増加させてくれる代物で、普段は少し厚手の服でしかないが、起動させれば各所に内臓された装具機構が筋肉の動きを強化し、増幅された力によって通常の倍から数倍の力を発揮することができる。これがあるから大量の荷物の運搬もできるし、危険な中層へも迎えるというわけだ。


 まったくもって便利なものである。

 技術者でもないメルロイには構造などまったくわからないが、理屈がわからないのは迷宮も同じ。使えればそれでよいと割り切るしかない。


 しゅこう、しゅこう、と団員たちの呼吸音が静かに響き渡る。腕に巻かれた測定器をしばらく睨みつけていると、左端からわずかに右に振れていた針が、ある一瞬を境に右端に振り切れた。


「毒溜まりに入った。全員、異常はないな。職業寿命を縮めたくなければ、しっかりと確認しろよ」


 見る限り、問題はなさそうだ。

 毒は猟兵としての職業寿命を削る。確認は入念に行わなければならない。


 目には見えず、匂いもせず、味もしない。

 検知器が反応しなければ存在を感知できない性質の悪い毒気だが、濃度が低ければそう恐れることはない。事実として迷宮は薄い毒気が充満していて、二十年も猟兵として活動すれば蓄積の限界に至って死亡する。


 これは猟兵にとっての職業寿命と捉えられ、限界の前に猟兵を辞すれば問題ない。


 しかし濃度が高い毒溜まりは話が違う。

 ものの数分で二十年の猶予は食いつぶされて死に至る。赫胞による救いもない明確な死だ。


 それを考えれば、メルロイがウィルのを連れている意味がわかるだろう。ウィルは危険を察知する。死の匂いを感じるのだ。それがどんな感覚なのかはわからないし、確実に当たるというものでもない。しかしウィルが危険だと言えば、半分の確率で死に直結するような危険が存在する。


 半分外れる?

 馬鹿な、半分も当たるのだ。


 メルロイが傭兵として立ってそろそろ二十年になる。

 嫁も、息子もいる。家族を残して死ぬなど考えたくもない。そんな彼が〝炭鉱夫〟としての安定を捨て、深淵を目指して潜り続ける〝もぐら〟の真似事をしているのは、毒気の蓄積限界に達する前に、下層到達という錦を飾るつもりだからだ。夢だけで終わるはずだった難事に踏み切ったのも、ウィルと出会えばこそである。


 それほどの価値が、ウィルにはある。

 だというのに、それが分からぬ者たちに罵倒され、貶められたウィルは自身の能力への評価が低すぎるきらいがあった。


「全部、お前のおかげなんだがなぁ」


 ウィルには聞こえない程度の声量で呟く。

 面装で隠し切れないウィルの目元には、狂気の炎が宿っていた。


 止めれるならば止めたい。

だが、自由を標榜する猟兵にとってウィルの行動を制するのは誇りが許さない。猟兵団の長であるメルロイに、それを無視することは決してできないのだ。


 しかし、だ。ウィルと同じ年ごろの息子を持つ父親としては、素直に頷けはしなかった。生意気で、反抗的で、そんな部分が息子に重なる。


 どうにかならないか。

 思案にくれながら、しかし答えは出ないまま悶々と時は過ぎ去っていく。



 ◇◆



 翌朝、荷物をまとめて出発したメルロイたちは下層入り口へと到着し、困惑していた。


 下層入り口は巨大な洞窟で、そこを通り抜ければすぐに下層へと至る。しかし、その横に赫胞が鎮座しているではないか。


 赫胞を発見したならば、何を置いてもまず地上へ連れ出すべし。仲間を地の底に置き去りにするなかれ。


 猟兵にとって唯一絶対の自由を超える掟である。

 見捨てられた赫胞は迷宮に呑まれる。助けは来ないのだ。だからこそ、自分も助けて欲しいからこそ作られた掟である。


 掟を破れば猟兵は名乗れず、迷宮に入る資格すら剥奪される。


 メルロイの迷宮到達という夢を叶える、そのためにここまでやって来た団員たちは、猟兵の掟という絶対不可侵の制約を前に絶望していたのだろう。


だがそれが困惑に変わったのは、当の本人であるはずのメルロイが、実に嬉しそうに相好を崩していたからだった。


ああ、これだ。これしかない。

もはや最後の錦など、もはやどうでもよかった。

ここしばらくの悩みから解放されたことで、自然と笑みが溢れていたのだ。


「聞いたな、ウィル」

「ええ、まあ」


 吐き捨てるような返事だが、ウィルもしっかりと理解している。表情には諦念があった。


 無理を押して下層へ行くつもりはない。

 さすがに掟破りをしてもメルロイたちに掴まるだけだとわかっている。


 ほっと安心しかけ、そこでメルロイは疑問を抱いた。

 地上に戻ったとて、ウィルはまた下層を目指すのではないか。いや、間違いなくそうなる。ならば、これは無意味ではないか。


 死にたがりのウィルを止めるには、もっと思い切った考えが必要だ。そこまで考えて、悪魔のような閃きを得る。考えれば考えるほどそれしかないと思えた。


 メルロイはごくりと唾を飲み込み、乾いた唇を舐めて湿らせた。


「そうか……お前はその程度か。掟があるから姉貴を見捨てるんだな」

「……いま、なんて言いいました?」


 およそ普段のメルロイであれば口にしないであろう言葉に、ウィルも聞き間違えを疑っている様子だ。


 だが、それでは困る。

 メルロイはできるだけ厭らしく、できるだけ見下したように言葉を選んで、ゆっくりと、丁寧に言ってやった。


「お前はその程度なんだな、と言ったんだ。掟のほうが大事で姉貴なんてどうでもいい、尻尾をまいてすたこら逃げ出す程度の愛情しかないんだな。お前みたいな口だけのガキが弟だなんて、姉貴も天国で嘆いてるだろうよ。ああ、地の底ではいずりながらかもな?」


 口にしていて嫌すぎるし、背中がぞわぞわする。

 だが、効果は確かにあった。


 ウィルの目が吊り上がり、噛みしめられた唇からはわずかに血が滲んでいた。


 激発する怒りに流されて殴り掛からなかったのは、その激情に納得してしまっている自身がいたからに過ぎない。メルロイの罵倒は、ウィルの脳内では実に分かりやすく自身への自虐と自罰の言葉として変換されていたのだ。


 ゆえに、彼の次の行動はメルロイへの攻撃などではない。

 己という最大の敵を叩きつぶし、姉を救うという本意に従うがゆえの暴走である。


 次の瞬間、ウィル派下層入り口に向けて走り出していた。

 実に素晴らしい瞬発力である。

 鍛えられた体から生まれる推進力はいかんなく地を踏みしめる足に伝わり、全身をぐいぐいと前へ進める。


 しかし、全てを予測して動いていたメルロイには通じない。

 罵倒しながらこっそりと用意していた晶石を防護服にはめ込み、関節の各所に仕込まれた装具機構の唸りのままに飛び出す。


たった二歩。それだけでウィルとの距離を潰してみせる。


 襟首を掴むと腕力に任せて引き寄せ、胸の内に抱き込む。太い腕はウィルの首に深く食い込み、剛力のままに血流を阻害せんと圧迫した。


「……っ、や、め……っ!」

「恨むなら俺を恨めよ、ウィル」


 最後の言葉が彼の耳に届いたかどうか。

どちらにしてももう二度とメルロイがウィルの前に出ることは適わないだろう。逆恨みで妻子に怪我をさせられでもしたら困る。地上に戻ったらとっとと国外へ引っ越すかと考えながら、メルロイは意識を失ったウィルの体をゆっくりと地面に寝かせた。


「帰るぞ。赫胞と、ウィルを運ぶ準備をしろ。目を覚まさないよう、薬を与えて地上まで眠らせておけ」


 清々しい表情で指示を下し、全ては終わりを告げた。


 そのあとのウィルはといえば、言葉通り石晶獣用の誘眠薬を嗅がされ、地上まで一度も目を覚ますことはなかった。


 目を覚ました時、すでにメルロイたちの猟兵団は解散し、メルロイとその家族は国を出た後だった。


 遅ればせながら現実を直視し怒り狂う彼に提示されたのは、姉の命の期限が尽きたという現実と、未遂とはいえ猟兵の掟無視したことによる猟兵資格の永久剥奪という無慈悲な通告だった。


 メルロイの思惑の通り、ウィルの迷宮への門は閉ざされたのだ。


 それから数日後、ウィルには人生の転機が訪れるのだが、彼はまだそれを知らない。

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