成し得なかったこと 2

 メルロイさんは乱暴に俺の頭を撫で、躊躇うように何度か口を開いてから大きく息を吐いた。何を話すのかはわからないが、覚悟が決まったらしい。


「お前の姉が死んで五年。命の期限まではあと二か月だな」


「ええ、そうですね」


 メルロイさんの言葉は、正直いま俺が一番聞きたくない単語だった。


 迷宮での死は、即時の死を意味しない。


 迷宮の中で死んだ者は卵胞と呼ばれる赤い膜に覆われ、迷宮の底へ底へと運ばれる。そうして五年の歳月を経て、迷獣へと変わるのだ。


 しかしその五年の間に迷宮の外へ連れ出すことができれば話は変わる。


 何をしても破れない卵胞の膜がぱつりと解け、死んだはずの人間が迷宮に入る前とまったく変わらぬ姿で命を吹き返すのだ。


 毒気での死だけは例外だが、それ以外であれば心臓を貫かれようが、頭を潰されようが、完全に元通りになって蘇ることができる。


 命の期限とは、迷獣にならず蘇生が可能な五年の期限のことだ。


 そして思い出したくもない事実だが、姉の命の期限は残り僅かだった。


「ここから引き返したとて、迷宮を出るまでは一か月半。不測の事態を考えれば、お前の姉を探せる時間はあと十日というところだ」


 そんなことは言われずともわかっている。

 まして姉が当時潜っていたのは下層だ。唯一生き残り帰還した男は、姉を含め猟兵達が迷獣に食われるのを見たとはっきり証言していた。


 ならば、いまはどこまで下に連れ去られているのか。

 十日という時間でそこにたどり着けるわけもないということは子供でもわかる。


 層が変われば危険度は跳ね上がり、必要とされる技量と運は到底俺には備わっていない。


 だけど、だからって諦められるわけがない。

 それがわかっているからメルロイさんは命の期限が完全に終了するまでは俺に付き合ってくれる、そういう約束だったはずだ。


 だというのに、なぜいまそんな話をするのか?

 嫌な予感がふつふつと沸き上がり、拭いさることができなかった。


「それが……なんですか?」


「あれを見ろ」


 メルロイの指の先には、下層への入り口である巨大な洞窟があった。人を飲み込む巨大な化け物の口のような威容は恐ろしくもあり、美しくもある。


 メルロイさんはそこじゃないと指を右に振った。


「三本並んだ槍のような岩の間……見えるか」


 言われて視線を逸らしても、そこにはごつごつとした岩が棘のように突き出しているようにしか見えない。何かあるのかと目を凝らし、違和感に気付いた。


 人の腰ほどの背丈もある赤い卵があった。

 薄い膜なのに到底人の力では破れぬ強度で、母のお腹の中で丸々赤子のように足を抱えた人間を内包する迷宮の奇跡だ。


 この五年、それを発見したのは都合四回。遠目にもそれが何か見紛うことはない。


「卵胞……ですね」


「ああ、卵胞だ」


 短い返答にやはりそうかと顔をしかめる。

 いやあるいはと顔を上げたが、メルロイは嫌そうに首を振った。姉さんではない、ということだ。


「斥候のグリンデに確認させた。中身は男だそうだ」


 なぜ、という言葉と、やはり、という言葉が喉につっかえ、口からは唸るような声が漏れただけだ。


 それは姉ではなかったというショックだけではない。


 卵胞が見つかった、そこから導き出される次の言葉が良そうできたからだ。聞きたくないと瞼をきつく閉じたが、メルロイさんはそんな俺に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を続けた。


「どこぞで死んだ猟兵がここまで運ばれてきたんだろう。放っておけば、下層へと連れ去られるわけだ。俺達が何もしなければな」


「ええ……そう、でしょうね」


 死者を運ぶ迷宮蟲はどこにでもいる。

 放っておけば確実に迷宮の底へと連れ去られる。


 その速度は緩やかだが、一度人の目に触れると迷宮蟲達による移動の速度はぐんと上がる。まるで卵胞を奪われまいとするかのようにだ。一度見つけた卵胞から一日も目を離せば、再度見つけることができるかは神頼みになる。


「卵胞を見つけたら、地上へと運んでやるのが猟兵の掟だ。自分が死んだ時、同じように地上へ連れ帰ってもらうためにな。誰も破ってはならない、鉄の掟だ」


 噛んで含めるような言葉は、聞き分けの悪い子供へ言い聞かせるようだった。


「ええ、知っていますよ」


「お前の姉を探せるのはあと十日だな」


 ああ、糞ったれめ。

 それ以上は聞きたくない。

 だけれど、メルロイさんは許してはくれない。


「あの同胞を十日も放置はできない。最も近くの救助隊の派遣危地まで運ぶには六日は戻る必要がある。それからここまで戻るのに六日……それだけで命の期限は尽きる。それに、俺達は限界だ」


 猟兵団の仲間達はお世辞にも気力が充実しているとはいえない。


 補給物資の枯渇と、そもそもの力量不足。

 上層から中層入り口までを狩場にしていた彼らは、中堅の猟兵だ。中層以下は上級猟兵の縄張りで、到底彼らの適正領域ではない。


 そんな彼らが無理を押して、五年かけて少しずつ足を延ばしてきたのは誰あろう、俺のためだ。ほかに頼れる者がいないから言葉にしたことはなかったが、彼らが限界を超えているのは火を見るよりも明らかだった。


「わかるな。俺達は、もう限界だ」


 ひどく悔し気に同じ言葉を繰り返すメルロイさんの判断は、とても否定することができなかった。


 でも、それで諦められるなら五年もの間わがままを貫くわけがない。


 覚悟は決まっている。

 メルロイさん達にこれ以上迷惑をかけられないなら、ここで決別し、一人で先に進むまでだ。


 俺はメルロイさんに頭を下げた。

 両親を失い、姉を失い、メルロイさんと過ごした日々は何物にも代え難い。口にすれば笑われるかもしれないが、もう一人の父親のようにすら思っていた。


「メルロイさん……ここまで、ありがとうございました」


「……残るというのか?」


 それは自殺と同義だぞ、とメルロイさんの言葉が震えていた。


 わかってる、けれどそれでも行くしかない。

 万が一の可能性があるなら、賭けるしかないのだ。

 自分の命などより、それはよほど大切なことだった。


「馬鹿が」


 メルロイさんは舌打ちを堪え、視線で動きを止めるとでも言いたげに俺を睨みつけた。


 いつもなら怖いはずのその視線も、いまとなってはなぜだか温かく感じる。


「行かせないぞ、シオン」


「なんでですか? みんなは限界だし、助けなければならない人もいる。俺はこの先に、下層に行かなければならない。なら、さよならするのが一番じゃないですか?」


 わかりきった理屈だと言うが、メルロイさんは怒り狂っていた。


「ひよっこが一人で下層に行って何ができる。ただ死ぬだけだとなぜわからない! ガキが一人でイキがってどうにかなると思っているのか。お前、いい加減にしろよ!」


 激しい怒声だ。

 好き放題に言ってくれるものだが、それはメルロイさんの都合だ。俺には俺の都合ってものがあるのに、なぜわかってくれないのか。


 メルロイさんだけはわかってくれると思っていただけに、俺も感情が高ぶり叫び返した。


 誰もイキがってなどいない。

 行けばただ死ぬだけ?


「そんなの、わかってて行くんですよ!」


 言葉に詰まるメルロイさんの顔はひどく驚愕し、ショックを受けているようだった。


 ようやくわかってくれたらしい。

 姉を救えない可能性が高いことなんて理解しているし、それならばせめて姉が死んだ場所をこの目で見たい。そしてできることならば、迷獣になった姉に・・・・・・・・会って謝罪したい・・・・・・・・


 その結果地上に戻ることができないというのなら、それでも構わないと思っていた。


「俺は、姉さんに謝りたいんです」


 それは自分でも驚くほどしっくり来る言葉だった。

 姉さんに感じていた負い目は粘りつくように俺を捕え、そのままでは生きていけないほどに束縛していたのだと思う。


 姉さんが死んだのは俺のせいなのだ。俺さえいなければ、姉さん一人が生きていくぐらいの働き口はいくらでもあった。


 だが幼い俺はまだ住み込みの奉公に出るような年でもなく、俺を育てるためには普通の稼ぎでは少しばかり足りなかった。だからこそ姉さんは危険だが金回りのいい猟兵になり、死んだ。


 そんな姉に謝罪すらできず、俺だけが幸せになるなんてありえないことなのだ。


「さようなら、メルロイさん」


 言葉をかけようとした顔を上げたメルロイさんの目に映る俺は、明確な拒絶を示していた。


「許さないぞ、シオン」


 メルロイさんの巨躯が驚くほどの素早さで動いた。


 荷物を取りに洞窟へ戻ろうとしていた俺の襟首を引っ掴むと、腕力に任せて引き寄せ、胸の内に抱き込む。


 愛からの抱擁ではないことは明白だ。太い腕は俺の首に深く食い込み、剛力のままに血流を阻害すべく首の血管を圧迫している。


「な、なにっ、するんっ、メルロイさ……っ!」


 呼吸が荒くなり、顔の血の気が引いていくのがわかった。

 視界が暗くなりかけた俺の耳に、メルロイさんは静かに語りかけた。


「シオン。お前は何もできない。お前には助けられないし、ともに死ぬこともできない。なぜかわかるか。俺が、そんなことは絶対に許さないからだ」


「そんなの、横暴だ……!」


「黙れ。俺が許さないと言ったら許さないんだ。だから、恨むなら俺を恨め」


 太い腕の筋肉で締め上げられ、意識が朦朧とする。


「さらばだ、息子よ」


 薄く広がり溶けだしていた俺の意識がもたらした幻聴だったのかもしれない。


 その声はひどく優しく、そして意外だった。

 陰ながら父と慕っていたことがばれていたのか、そしてそれをメルロイさんが受け入れてくれていたのか。驚きに頭が真っ白になり、思わず抵抗する力が抜けた。


 途端にずれていた腕がするりと頸動脈を捕えた。脳に送られる血流を阻害すれば、意識を失うまではわずか数秒だ。


 俺の意識はぶつりと音を立て途切れた。


 メルロイさんの言葉が幻聴だったのか否か、確認できなかったのだけが心残りだった。

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