白亜の解凍
塩胡しょこ
第1話 歴史の目覚め
気味が悪いほど爽やかな青色の空。
風の音が耳につくほど静かな、広い大地。
自分自身の土を踏み締める音を視覚からも確認するように、『探索者』である彼は、足元を見つめて歩く。
目は防護ゴーグル、顔の下半分は防毒マスクで、その表情は全く読めない。
しばらくそうして歩いて、目的地まで来ると足を止め、しゃがみ込んで背負っていた麻の袋の口を開く。
そこから小さなプラスチックの細い瓶を取り出すと、その栓を開けて土を少しだけ掬い上げ、再び栓をしめた。
それに何か書いた小さなシールを貼ると、麻の袋に雑に戻す。
そして、次は密閉機に入った何かの計測器のようなものを取り出してしばらく外気に触れさせて経過を見た。
「周りもひらけているし、空気中の有毒物質の濃度も標準値。うん……第一候補だ。」
彼はそう呟いてから立ち上がると、麻の袋を背負い直し、遠くを見つめた。
「あとはここらへんの生体環境と……」
さらに視線を移し、薄ら見える青い旗を見据えた。
「…食料を補給できる場所だな」
彼は自分の胸に付けている赤い紋章のピンバッジに手を添えてから、ため息をこぼし、再び歩き始めた。
西暦で言えば5×××年にこの世界を蹂躙した超巨大な台風、通称「テラ」のあとの世界は、ひどい有様だった。
世界の人口は半分ほどになり、地上は一度更地になった。
各国のリーダーたちの多くも命を落とし、世界は一度国境と国を全て無くし、国境と国を作り直した。
大まかに大地と海を何等分化して、国の数は10つほどに減り、言語も統一された。
しかし、その後、各地の地表から突如有毒ガスが噴出するようになる。人々は地上の復興を放棄し、地下の避難所での生活を余儀なくされた。
それから、徐々に地上で生きるために人々は知恵を出し合い、有毒な大気の対処方法として「巨大ドーム計画」が発案された。
地上5kmまでの高さを持つ、外気から人々を守る大きな大きな半円型の透明なドームだ。
どうやってこのような巨大なものを作ったか。それは地球の中心の海の底から生えている巨大樹が鍵になっている。
有毒ガスが噴出し始めた頃、同時期に芽生えたとされている、謎の木。「ゴッドツリー」と称され、これには不思議な力が宿っている。常識を逸した成長速度でムクムクと成長しており、1000年以上経った現在地上3kmほどの高さになり、木の上には交通機関が存在するほどの立派な街がある。
先祖が作ったこの巨大なドームは、この「ゴッドツリー」の枝を内蔵するいくつもの円柱によって作られた結界のようなものである。先祖に倣った方法があるだけで、その仕組みについては未だにあまりよく知られていない。
彼は雲間の光を浴びて神々しく佇んでいるあの巨木をしばらく見ていた。
あの上は天国だと聞いている。
こんな汚染に満ちた大地なんてどこにもなく、どこに行くにも煩わしい防毒マスクなんてしなくていいらしい。
別に行きたいとは思わなくとも、あの上で生きている連中はどんなに幸せなんだろうかと嫌味な考え方が思い浮かぶ。
あんなことが起きなければ、彼は少なくともこんなところで1人ぼっちで、毎日生き延びることに全力を尽くす必要なんてなかっただろう。
彼は、囚人上がりの『探索者』だ。
『探索者』には2種類あり、志願して就職した一般枠、そして刑務所に収監されていた囚人枠の2種類だ。
過酷な仕事のため、志願枠はそれほど多くはない。その人手不足を解消するためにこの時代のこの仕事では囚人雇用制度が適用されている。
囚人雇用制度の雇用条件は、端的に言うと酷い。
給与は一般雇用の8分の1ほど。寝泊まりする場所なんてあった日はとてもラッキーだ。刑務所に戻って寝泊まりすることも許されず、殆どの囚人は退勤後街中で座り込んで通行人の慈悲を待つ。仕事に来られなくなったら刑務所に連絡が行き、警察隊によって再び収監される。囚人に人権などなかった。
それを考慮すると、『探索者』という職は囚人雇用の中ではかなり働きやすい種類と言える。仕事に必要な道具は支給されるし、どこまで行っても1人なので風呂も最悪入らなくてもいい。寝る場所は火を焚いて、麻の袋を枕がわりにすれば良い。
大地が汚染されているので食事は補給物資を買いに行かなければならないが、比較的それも安価だ。
彼も『探索者』という職をそれなりに気に入っていた。
彼は青い旗が揺らめく拠点を目指した。先月買った食料がもう底をつきそうだった。
「……"青旗"…ついてねえな」
ため息混じりに呟きながら歩みを進める。
しばらく歩き続けていた時、突然何かの突起物に爪先を止められて盛大にこけてしまった。
膝が少し擦り切れてしまったが、幸い肌に傷は負っていない。
舌打ちをしてゆっくり立ち上がって後ろを睨む。
それは緑がかった黒い土の色とは明らかに異質な色の棘のようなものだった。目を細めてよく見ると、細かい凹凸が見える。
それは、まるで―――
彼が結論に行き着くよりも先に、爆音と共に土埃が凄まじく巻き上がった。彼は、何度か地面にバウンドしながらある程度跳ね飛ばされた。
体の至るところを打ちつけてしまって、痛みに倒れたままでいたくなるが、こういう時こそ休息は許されない。
彼はすぐに身体を起こし前を見据えた。巨大なシダの葉のような尾が砂煙の中から徐々に姿を現す。
彼は目を見開く。動揺で息が上がる。
「なんだ、あれは…!」
尾だけで10mはあるだろうか、いや、それ以上かもしれない。
その尾だけで体全体がとんでもない大きさであることは容易に想像できる。
彼は『探索者』になってもう数年経つが、こんなに大きな生物に出会ったのは初めてだった。
自分の体の大きさよりも大きな生物に身を守るためや開拓を進めるために立ち向かい、対処した経験は何度もあるが、こんなに巨大なものには到底敵わない。
逃げねば。されども膝が笑ってしまい、脚に力が入らない。
地の底から聞いたこともない奇妙なその生物の鳴き声が聞こえてくる。笙の音色のようなその神々しい鳴き声は、さらに彼の身体をこわばらせた。
運が悪かった。まさかこんな大変な地中の生物の尾の一部で躓いてしまったとは。徐々に大きくなる地震に、自分の運命を悟って目を閉じたその時だった。
パキパキパキパキッ――――!
今にもその影が振り下ろされそうな尾が、ぴたりと動きを止めた。あたりは静寂に包まれる。彼が驚いて目を開くと、それは真っ白く凍りついていた。
ありえない。何が起きたんだ、とゆっくりその凍りついた尾に歩み寄ろうとした。
その時、頭に誰かの声が突然響いた。
――「助けて」
「誰か……いるのか…⁉︎」
彼は足を速めて氷に近づき、地表に開いた大きな穴の下を恐る恐る見下ろした。
驚いて息を呑んだ。それは、その大きな尾の持ち主の全貌にだけではなく、その凍りついた部分と繋がるように同じように凍りついて穴の中で固まった状態でいる、1人の人間がいたからだ。
普通、あんな状態でいたら死んでいるに決まっている。
しかし、自分を呼んだ声の主は。
彼は覚悟を決めて地面に這うようにして、その人間になるべく声が届くように顔を近づけた。
「おい!お前!聞こえるか⁉︎」
彼は何度か大きな声で叫んだが、人間は全く反応しない。
それが凍結しているからなのかはわからないが、彼も早くその場から立ち退かないと危険だ。
また、地の底からあの笙の音色のような鳴き声が聞こえてくる。凍結したのは尾だけで、上半身の方はどうやらまだ動けるようだ。
尚更まずい。早くどうにかしなければあの人間どころか自分まで危うい。
彼にとって、あの人間なんて知り合いですらないのでどうでも良いはずだった。
しかし、彼の中に自分だけ逃げるという選択肢はなかった。
彼は麻の袋からフック付きのロープを取り出した。これで引っ掛けようか?
否、もし変にヒビが入ってしまえばあの人間はそのまま奈落に落ちてしまう可能性もある。
一体どうすれば――
彼は、フックを地面にしっかり刺すと、そのロープを自分に巻き付けて、歯を食いしばる。ゆっくりと崖に足をかけ、下に降りていく。氷の中の人間に再び声をかけた。
「おい!頼む!生きてるなら目を覚ましてくれ!」
しかしやはり反応はない。
彼は諦めたように俯いた。
「今あんたを助けてやれるのは……俺だけなんだぞ……」
絞り出した声。
すると、小さく何かが割れたような音がした気がした。彼が顔を上げたその時、突如吹いた爆風に一瞬で身体が空へ投げ出された。慌ててロープの先を引き寄せようとしたら、どうやら風に耐えきれずフックはロープからちぎれて地面に残ったようであった。
宙に舞いながら見下ろすと、あの巨体は急いで地中深くまで再び戻っていくように見えた。尾の氷はなくなったのか、あのシダのような尾は元気よく揺れていた。
彼はすぐに背中に背負っていた麻の袋を身体の前に回して、落下の衝撃に備えた。
袋の中の衝撃に弱そうなものいくつかが壊れた気がするが、まずは自身の命が助かったことに安堵する。
早くあの人間を助けに行きたいが、あまりにも物資がない。
元々の目的地であるあの"青旗"の拠点に一刻でも早く着いて救助を頼もう。あちこち強打して痛む身体を無理やり動かして、大地を駆ける。
何故こんなにもあの人間のために身体が動くのかは自分でもよくわからなかったが、彼は後悔をしたくなかった。
拠点の前に着いた時には、もう日が暮れ、星が出ていた。
喉に鉄の味を感じながら、肩で大きく息をしてその場に膝をついてしまう。マスクの内側が滝のような汗で蒸れて気持ちが悪い。拠点の中にいる連中には汚い、臭いと煙たがられそうだ。
最も、それだけで済めばよいのだが。
暫くすると、監視カメラが彼の方を向いて、マイクが起動する音が聞こえた。
『要救護者ですか。何名でしょうか。お話しすることはできますか。難しいようでしたら手を挙げてください。低くても構いません。』
生真面目そうな女性の声だった。
彼は監視カメラに目を合わせる。
「話せる。要救護者は離れたところにいる。一名だ。時間がかなり経ってしまっているから早急に救援物資を頂きたい。それと…乗り物を借りたい」
『この時間からお戻りになるのですか…⁉︎そんな無茶な……』
すると女性は何かに気づいたように短く高い声を上げた後、突然ぶっきらぼうな声になる。
『……というか、よく見たらあなた、"赤紋"ではありませんか。どうりでそんな無茶を言うわけです。我々を騙そうったってそうはいきませんよ。おかえり願います。』
(ほら、やっぱりこうなる……)
彼は大きくため息をついた。
"赤紋"とは、彼のような囚人上がりの『探索者』のことを言い、彼らはそれが見て分かるように上着の左胸に赤色の紋章が縫い付けられている。それに対して、一般枠の『探索者』、通称"青紋"の上着には青色の紋章が縫い付けられているのだ。また、この拠点の旗の青色は"青紋"の管理する拠点であることを示す。"青紋"の拠点に比べると"赤紋"の拠点は大変質が悪い。
だからといって"赤紋"が"青紋"の拠点に物資の供給を求めると、大体"青紋"の連中は"赤紋"を「犯罪者」と排斥して追い返す。彼はこのような対応には慣れていた。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。あの人間のためにも、自分のためにも。
彼はなんとか交渉することにした。
「はあ…冗談を言っている場合じゃないんだ。俺1人だったら食事は暫く我慢すればいい話だが、要救護者がいるんだ。そんなに信じられないのならば数人で来て俺を監視すればいい。頼む、そんなに時間がないんだ」
『ではその要救護者をここまであなたが連れてくればよかったじゃないですか。何故1人で来たんです?』
「……俺も身体を痛めている。あと、そいつはなんというか…吹っ飛ばされてしまったんだ。」
『そんな苦しい嘘を―――』
もういい。埒が開かない。
彼は深くため息をついてから踵を返した。
「…なんで"赤紋"ってだけでこんなに面倒くさいんだ。大体な。囚人の命なら見捨てても構わないって考えなんだろ?そんな命の差別してるようなお前らと犯罪者、何が違うんだよ」
女性の声は焦りの混じる声で怒り始めた。
『なっ……!何もかも違うでしょう⁉︎私たちは真っ当に生きてきた!人を貶めたり手にかけたり、そんなことは何があってもしてこなかった!事情は分かりませんがあなたたちは自分を制御できなかったからそのような立場なんでしょう⁉︎』
明らかに焦っていた。
彼は、その彼女の言い分とそれを述べる声色で、彼女は根は優しく、付け入る隙のある人間だと判断した。
「俺らというお前らの中の"悪"を差別するのは正義か?正義なら貶めてもノーカンか?」
『あ、あなた……!』
彼は監視カメラに向き直ってしおらしくした。
「なぁ……俺はさ、お前らに何も俺らを理解して欲しいとか、対等に扱えとは言ってない。ただ、俺が助けたい人間を助ける手助けが欲しいだけなんだ。人助けはこの拠点の仕事だろう?さっきも言った通り、信じられないならすぐに俺を殺せるように何人かで来てくれればいい。頼むよ」
しばらく女性は黙り込んだ。
それから、女性の深呼吸する声が聞こえた。
『………いいでしょう。わかりました。今救援物資と乗り物を用意してそちらに向かいます。』
マイクが切れる音がした。
彼女ならこのまま約束を破ってやってこないことはないだろう。
彼は肩の力を抜いて、その場に座り込んだ。
20分ほど後、拠点の裏の方から重い扉が開く音がした。
立ち上がってそちらの方を見ると、1人の女性が、大きめのリュックを背負い、こちらへやってきた。
「……お待たせしました」
静かな、警戒するような声で彼女は彼にそう言った。
「1人?随分と信頼してくれたんだな」
彼が軽口を叩くように言うと、彼女は少し不満げに彼を見上げた。
「…あなた、名前は?私はアヴァリと言います。」
彼はアヴァリと名乗る先ほどの声の主を見下ろす。防毒マスクとゴーグルであまりその素顔は見えないが、かなり若く見える。
「俺は……ソル。ソルでいい。俺もお前をアヴァリと呼ぶ。それで?乗り物は?」
アヴァリはソルに背を向けると、外套のポケットから、ハンドベルを取り出した。
彼女の着ている"青紋"のあしらわれた外套はとても分厚く暖かそうに見える。アヴァリがベルを自分の頭上くらいまでに掲げた時、袖の内側に入ってくる冷たい夜風に体を震わせたのを見ると、自分の薄ぺらい上着を見ながら何か嫌味でも言いたくなる。
彼女がベルの取手部分を軽く数回揺らして音を鳴らすと、すぐにどこからともなく大きな生き物が駆け寄ってきた。
それは、ウサギのような顔をした、馬だ。
「へえ……万里兎。乗らせてくれれば高速で遠方にも連れてってくれるっていう兎だよな。乗れるのか?」
万里兎は可愛らしい頭部をしているのに反して、逞しい身体を持っているのがアンバランスで少々気味悪さを感じるフォルムだ。万里兎は長い耳を震わせて、赤い目を何度も瞬きしながらソルの様子を窺っている。
「ハグハグは私の言うことしか聞きませんが、あなた1人くらいだったら乗せてくれますよ」
アヴァリはそう言って万里兎の顎を撫でた。
ソルは拍子抜けした様子で、アヴァリに尋ねた。
「ハグハグ…?もしかしてこの万里兎の名前か?」
「そ、そうですよ……何か悪いですか?この子、食べる時ハグハグ言うから…」
「…他の人に名前つけてもらった方がよかったんじゃないか?」
アヴァリは、ソルからぷいと顔を背けると軽やかにハグハグの上に乗った。
そして荷物を体の前に持っていくようにすると、ソルへ手を伸ばした。
「ほら、私の言うこと聞かないとこの子に乗れませんよ」
ソルは肩を竦めてからアヴァリの手を取って、アヴァリの後ろに乗った。
「落馬しないようにだからな。文句言うなよ」
そう言ってソルはアヴァリの腰に手を回した。
アヴァリは少し驚いた様子で体を震わせたが、すぐに静かに手綱を握る。
「べ…別に文句なんて言いません!落ちないようにしっかり捕まっててください!」
アヴァリの声が少し浮ついていたのをソルが気にする間も無く、ハグハグは勢いよく発進した。
「…この辺りに来るのは、久しぶりです」
背の低い枯れ木がちらほらと確認できるだけの荒地を、ハグハグは颯爽と駆け抜けていく。
満天の星と心地よい風に、ついマスクをとって深呼吸したくなるが、当然そんなことはできない。
アヴァリのふわふわと後ろに靡く髪を避けるように顔を背けながら、ソルは彼女の次の言葉を待った。
「本当はもっとあの拠点には人がいたんです。だから…以前の状態であれば、私だけがあなたに随行するなんてことはなかったはずなんです。」
「……襲撃か」
彼女は少しの間黙った。
「ええ…間接的にですが。一年ほど前…でしょうか。ある日、物資調達班が、約束の時間を大幅に過ぎても到着しませんでした。連絡も一向に取れなかった。察しがつくと思いますが、"赤紋"の野盗集団に襲われていて、全員物資だけでなく…命まで奪われていました。いい意味でも悪い意味でも…上層部は"赤紋"に対する処置が大変雑です。"赤紋"から何も連絡がなければ勝手に死亡したものとして処理される…あなたもご存知ですよね」
ソルは「ああ」と短く返事をした。
アヴァリが言ったことはそんなに珍しいことではない。
自分たちの処遇の不公平さに耐えきれなくなったやつらは、犯罪に再び手を染める。一度過ちを犯した彼らに、躊躇は殆どない。ドーム内の街中であれば、すぐに警察隊が飛んでくるが、ドームの外は無法地帯と言っていい。
こういうことがあるから、"青紋"のやつらは"赤紋"を蔑み、またその反面、怖がっているのだ。
「…私たちの拠点の人員が減ったのは、調達班の様子を、拠点の警備を担っている方々が様子を見に向かって、彼らと同じように討たれたからです。警察隊に相談しようにも、広大な大地ですから、証拠がないと道に迷っているのではとしか言ってもらえないのです。探しに行ってくれるのは、連絡がつかなくなってから3日以上経ってから。そんなに待ってられません。私たちだって物資は常に少ないのに…『探索者』の怪我人だって大勢いる。ついに全く戦闘の心得のない私たち、医療班の誰から人を出すことになりました」
「…それで、あんたが?」
アヴァリは頷き、苦笑いをこぼした。
「当時、私が一番医療班の中でお荷物だったんです。動きはとろいし、残りの物資もしょっちゅう数え間違うし…本来はとっても危険だから誰か1人で行かせることなんてしませんが、その時は特別でした。もう誰1人だって失うことができない中、私は捨て駒の第一候補だったということです」
「…ひどいな」
「いえ、私は気にしてませんし、いいのです。私は、震える足を無理やり前に進めて、この大地を走って、調達班の遺体と奴らの痕跡を探しました。そして…見つけたのです。拠点から私の足で走って30分ぐらいのところでした。黒に近い赤に染まった砂は遠くからでもよく見えました。私はその場で泣くことしかできなかった。わざと奴らは調達班の遺体の胸の辺りに、切り取った赤の紋章を置いていった。そこからそう離れていない場所に、警備担当の人たちも無惨な姿で倒れていました。その中には、私の友人もいた。」
悲しみと怒りが混ざった静かな声を震わせて話すアヴァリに、ソルは返す言葉もなかった。
「ずっと…それからずっと"赤紋"を憎んでいました。それはみんなも一緒。それからこれまでは、"赤紋"が物資を買いにきても絶対に売ってやらなかったし、傷だらけで助けを求めにきても、マイクすら繋がなかった。それは正義だから良いことだと、私たちはずっと信じてきた。でも、違いますね。私たちがやってることはただの復讐。私たちがやっていることは、"赤紋"のあいつらと変わらない。あなたの言う通りです」
アヴァリは一瞬だけ後ろを向いてソルへと会釈をした。
このアヴァリという女は、ソルが想像していた5倍は頭の回転が速そうだった。
「アヴァリ。なぜ、俺を信じた?」
アヴァリは少し考えてから、軽口を言うように答えた。
「勘です!…あなたは、嘘をつく目をしてなかった。というか、私よりも正義感が強そうな…そんな目をしていると思ったくらいで。あなたは本当はいい人だと、そう感じたんです!」
「………はぁ。その思考は危険だ」
ソルが呆れたようにため息を吐くと、アヴァリはくすくすと笑った。
そうしてしばらく走っていると、森が見えてきた。
葉が紫色の毒々しい木々が寄せ集まっている森。
アヴァリはハグハグの手綱を引いて止め、ソルと共にハグハグから降りた。
「ソル。あの森にハグハグを連れて行くのは少し怖いです…どうしますか?要救護者がもしあの中にいるとしたら、生き残っているとは思えないのですが…」
「安心しろ。あの木自体はべつに大気中に毒を放出しはしない。触れたらいけないがな」
「触れたらどうなるんです?」
「指が溶ける」
アヴァリの表情がマスクの内側で真っ青になっていくのが、見えずともわかる。
「素手で触ったらの話だ。俺たちのこの服は特殊加工されているし、一度くらいなら触っても守ってくれる。だが、どちらにしろこの万里兎には森の外で待ってもらうべきだな」
「え、ええっ⁉︎ほ、本当に行くんですか…⁉︎あなた救援を待つ人がこんなところで生きてるとお思いなんですか⁉︎」
アヴァリの様子は、「行きたくない」とはっきり示しているようだ。ソルに縋るように、ソルの服の袖をほんの少し握っている。
ソルは平然とした様子で、アヴァリに向かって手を出した。
「じゃあその物質、俺に渡せ。ここからは俺だけで行く。ここまでありがとう。」
アヴァリは物資の入った荷物を抱き寄せて渡さまいとする。
ソルは面倒そうに大きく息を吐いた。
「ここから先は、お前の想像通り、サバイバルや戦闘の心得がある俺だって危険な場所だ。お前先頭の心得が全くないんだろう?お前を死なすわけにはいかないから、お前は来なくていいんだ。ほら、物資渡せ」
「……本気でこんなところで、誰かが待ってると思ってるんですかと聞いてるんです。」
アヴァリは荷物を抱きしめる力を強めて、絞り出したような声で続ける。
「どうしても行くと言うなら……私も…行きます。これは、あなたに渡しません。」
ソルはほんの少し驚いたように目を丸くしてから、小さく息を吐いてアヴァリとすれ違いざまに彼女の頭をそっと撫でた。
「離れずついてこい。そしたらお前自身は荷物にはならないからな」
さっさと歩いて行ってしまうソルの跡を、アヴァリは慌てて追いかけた。
深い夜に染まる森の空気は淀んでいた。
なんとなく身体が重く感じる。ソルは電灯の光を頼りに、なるべく広い道を選んで歩く。
時折聞こえる醜い鳥の声や、茂みの中からこちらをうかがって唸っている獣たちは、まるで彼らを愚か者と蔑んでいるようだ。
「そういえば、あの万里兎は放っておくとどうなるんだ。」
「ハグハグですか?万里兎って、馬科の生き物になりますけど、兎の変異種なので身を隠したり逃げたりするのが上手なんですよ。だから普段は私でもどこにいるかわかりません。ベルを鳴らしたら来るように躾けてありますし…」
その時、突然木の葉の中から大きな鳥が飛び出して他の木に飛び移った。
アヴァリが驚いて後ろに倒れそうになったのを、ソルがすぐに受け止めてくれた。
「あ、ありがとう……」
「まったく…手でも繋ぐか?」
「け、結構です!」
アヴァリが照れているのを悟られないようにソルを手で押し返した。ソルはそんなアヴァリを他所に、木の上を怪訝な顔で見ていた。先ほど飛び移って停まっているはずの鳥が、見当たらない。
否、そうではない。いる。そこらじゅうにいる。
アヴァリも異変に気付いたようでソルの名を小さな声で呼びかけた。ソルはアヴァリの前に立つ。
「くそ…!闇梟か……!」
闇梟は夜にその姿を表すが、明るい場所ではその姿を見ることはできない。電灯の光で照らすとたちまち消えてしまう。だからと言って光を消すと夜闇が彼らを隠す。闇梟は直視することが大変困難な猛禽類だ。
ソルは短剣を懐から出して構え、襲撃に備えた。
「お前らの領域に勝手に入って悪いとは思っているが、手を出してきたのはお前らだからな」
ソルの宣戦布告が闇梟たちに伝わったのか、彼らは次々に黒い影の刃のようになって襲いかかってきた。
ソルは感覚を研ぎ澄ませて、それをなんとか避けながら短剣でカウンターし、処理する。しかし何度それを繰り返しても闇梟は休みなく襲ってくる。
ソルはアヴァリに目を遣る。頭を抱えて身を縮こまらせている。彼女を守りながらでは、危なくて短剣しか使えない。
ほんのその一瞬を闇梟は見逃してくれなかった。
闇梟の鋭い爪がソルの衣服を破り地肌を切り裂いた。
たちまち傷口から入ってくる瘴気と闇梟の毒が、焼け石に水をかけたような音を立てて彼を蝕んでいく。
ソルは堪らず膝をついて苦しそうに呻き声をあげた。
アヴァリはすぐに彼の元に駆け寄って何度も彼の名を叫ぶ。
「ソル‼︎しっかりして‼︎」
アヴァリが急いで荷物を下ろして包帯を取ろうとすると、その荷物を闇梟が掻っ攫っていった。
突き飛ばされたアヴァリはそのまま腰が抜け立ち上がれなかった。
「いや…!お願い…!それを返して…‼︎」
アヴァリが泣きながら懇願するが、闇梟たちはそれをとぼけたような顔で見ている。
再び闇梟が、今度はアヴァリに向かって飛んでくる。
アヴァリはぎゅっと目を瞑り覚悟を決めた。
チンッ―――――
ガラスの表面に氷の粒が落ちたような、そんな音が響く。
突如空気が冷え切る。
ソルは朦朧とした意識の中でそれを確認しようとする。
自分の周りが真っ白に見える。これは、氷―――?
その後自分の前に歩み出てきたこの白い足は、アヴァリのものではない。ボトボトと氷像のように真っ白になった闇梟たちが宙から落ちてくる。無数にいる。まだこんなにもいたのか。
「〜…〜〜?…〜…」
自分の前に膝をついたその真っ白な人間は何か話しかけてきているが、全くその言語が理解できない。
これは自分の意識が朦朧としているからではない気がする。
自分の知らない言語で話している気がする。
ソルの意識は、途絶えてしまった。
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