1月10日(1)

「ッッ」


 勢いよく跳ね起きた。漫画やアニメだと登場人物が「うわっ」と声を出して目覚めるシーンを目にするが、人間、悪夢を見たときは無言で目覚めることの方が多い。

 ゆっくりと辺りを見回す。

 昨日していた宿題がそのままになっている机に、少し日焼けした教科書が立てかけられた本棚。漫画が積み重なったローテブルに、中一のときから使っているお気に入りのクッション。

 全体的に白を基調とした室内。

 ああ、まぎれもなく自分の部屋だ。


「嫌な夢だったな……」

 額を押さえ、そう独り言ちる。

 あの夢のせいで昔のことを思い出してしまった。

 定期的にあのときの夢を見る。おかげで、過去を忘れようとしても忘れることができない。まるで、神が俺に罰を与えるかのごとく、何回も何回もあの頃を想起させてくる。

「からだが重いな……」

 最近は目覚めが良い日が続いていたのだが、先ほどの夢のせいで、今日の目覚めは最悪だった。

 しかし、喪心している余裕はない。

 ベッドのヘッドボードに置いてある置時計に目を向けると、そろそろ準備をしないと学園に間に合わない。


 マットレスに手を置きながら、ゆっくりと腰を上げる。

 クローゼットの前まで来ると、いくつもの服の中から星華学園の制服を手に取った。

 最近はすっかり学ランを採用する学校とブレザーを採用する学校とが同じくらいの割合になっているが、星華学園は後者を採用している。

 サックスブルーのシャツに紺色のネクタイをした後、ネクタイと同じ色のズボンに足を通す。冬の寒さ防ぐために着込むベストの襟元には紺のラインが入っている。最後にブレザーを羽織れば完璧だ。

 どうやら星華学園の制服は男女ともに人気らしく、制服目当てに入学を希望する生徒もいるとかなんとか。

 まあ、俺の場合は、学園が家から近いという理由で入学したんだけど。

部屋に置いてある姿見へと移動する。

 ネクタイに歪みもなく、ズボンにしわもない。長期休暇明けで久しぶりの制服だが、しっかり着こなすことができていた。

 しかし、目の前に立つ男の表情は浮かない。このままだと、家族に心配されるかも。


「いや、それはないか……」

 一瞬でその可能性を断ち切る。

 さあ、そろそろ本格的に急がないと遅刻してしまう。

 近くにあったカバンを手に取り、リビングがある一階に降りる。


 リビングに入ると、既に俺を除く家族全員が顔を揃えていた。

 うちは横長の机がキッチンと平行になるように設置されたダイニングキッチンとなっており、キッチン側が両親の定位置だ。ただ、今は、父さんだけが着席し、母さんは、キッチンで朝食の準備をしていた。ちなみに、キッチンから遠い方の席では、妹の七海ななみが最近使えるようになったお箸で一生懸命、白ご飯を食べている。


 朝食を食卓に並べるべく振り向いた母さんと目が合う。

「彰、早くご飯を……」

 母さんは声をかけようとしたが、すぐに口を閉ざした。静かに朝食を食卓に並べた後、次の作業に戻っていく。

「……」

 俺は母さんが声を掛けようとしたとき、父さんが横目で睨みつけた瞬間を見逃さなかった。

 母さんが声を発したことで七海も俺に気が付いたようだ。七海が背もたれに手を置いて、上半身を向ける。

「あ、お兄ちゃん、おはよう」

「うん、おはよう」

 かわいい妹に微笑みながら挨拶を返す。

 しかし、父さんが、

「七海、静かに食べなさい」

 低い声で七海を制した。

「は、はい、ごめんなさい……」

 すると、七海はまた食事に戻った。

 誰もが無言であるため、食器の音だけがリビングに響く。リビングの照明は替えたばかりのはずなのに、室内が若干暗く見えた。


 もちろん、うちに食事中は会話禁止なんてルールはない。家族水入らずの時間になることが多い夕食時にはもちろん、比較的忙しい朝食時においても、少なからず話し声は聞こえる。

 しかし、それは俺がいないときに限ってのことだ。家族で歓談していても俺が姿を現すだけで、その場の雰囲気は氷点下の如く冷たくなる。そして、その極寒の中心となるのは常に父さんだった。

 どうやら今日も例外ではないらしい。

「はあ……」

 父さんたちに気づかれない程度にため息をつく。

 もう慣れてきたこととはいえ胸が痛い。特に今日に限って言えば、今朝の嫌な夢が陰鬱な気分に拍車をかけていた。

 一刻も早くこの場を立ち去りたい。


「いつものはありますか?」

 感情のこもっていない声で母さんに問いかける。

「ええ、ついさっきできたわ」

「では、それをもらったらすぐに出ます」

「え、でも……」

 母さんは七海の隣の席を見つめる。そこは俺がいつも座っている席だった。

 しかし、俺は言葉の続きを待たず、母さんに近づく。

 母さんはトースト一枚が乗った皿を手に持っていた。トーストにはまだなにも塗られておらず、ただ焼かれただけだ。

 俺はそのトーストをひょいっと取り上げる。


「ありがとうございます」

 母さんを心配させないよう笑みを浮かべる。

 ただ母さんは苦しそうな表情をするだけだった。

 自分でもわかっている。

今、自分が浮かべている笑みは無理して作っているものだと。そのことに母さんも気が付いていると。

しかし、自然な笑みを浮かべることはできない。どうしたら自然に笑うことができるか、もう忘れてしまった。


 トーストを手にしたまま、玄関に向かうべく、リビングを出ようとする。

 何か言いたげな母さんの視線を背中に感じる。

 だが、こんな雰囲気の中、食事をとる気にはならない。それはおそらくあっちも同じだろう。それならば、俺はさっさとこの場を後にした方がいい。それがお互いのためになる。

 俺はリビングの扉に手を掛け、

「行ってきます」

 張りのない声でそう言った後、玄関に向かっていった。


 当然ながら、行ってらっしゃい、との返事はないまま。

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