第7話 略称と秘密
ルサールカが見えなくなるまで駆けて、三人は誰からともなく馬を止めた。万が一追手を差し向けられる可能性を考えて黒い森に分け入ったので、ひどく足場が悪かった。
ディアボリカはブライアーから降り、手綱を短く持って歩きはじめる。
「いったん馬を休ませよう。こっちに小川があったはずだ」
アルセンとモイラは頷き、ディアボリカに
「はぁ……一時はどうなることかと思いましたけど、とりあえず一安心ですねぇ……」
地面に腰を下ろしたモイラが、ほっと息をつく。
川の水をすくって飲んでいたアルセンが、濡れた頬をぬぐいながら頷いた。
「しばらくこのまま森を行こう。エタンセル軍がノクイエから国に戻るのには南西の道を使うだろうから、おれ達は南東に進んだ方がいい。南東に村か街はある? ディアボリカ」
「少し遠いが、国の南東に
「そっか。ならとりあえず、そこを目指せば良さそうだね」
アルセンが森をぐるりと見まわした。
「ここって鹿や猪はいるのかな……。ほとんど着の身着のまま発ったから、狩りをして保存食を作っておいた方がよさそうだ。道中は水の補給にも困るだろうから、毛皮と
ぶつぶつとつぶやいていたアルセンだったが、ディアボリカがじっと見つめているのに気づくと、人好きのする笑みを浮かべた。
「おれのこと、まだ信用できない?」
「いや……」
ディアボリカは言葉を
「私達二人だけだったら、今頃ルサールカで軟禁されていたかもしれない。あのとき君が手を貸してくれたことは感謝している。しかし……」
「いいよ別に、無理しなくて。出会ったばかりの男、しかも敵対している国の人間だもん、おれ。旅は長いんだ。いずれ仲間だって思ってもらえればいい。とりあえず今は、前みたいに剣を向けられないだけで十分さ」
敵意を向けたときのことを蒸し返されて、ディアボリカはムッと眉を
「そろそろ君なんて名称で呼ばずに、アルセンって呼んでくれない? ディアボリカ」
「ちょっとあなた、ディアボリカ様に馴れ馴れしすぎません?」
モイラが、じとりとアルセンを見据えて口を挟んだ。
「分かってます? ディアボリカ様はリヴレグランの魔姫ですよ? どこぞの人間ごときが、気軽に声をかけられる存在じゃないんですけどっ」
とげとげとした口調を隠そうともせずそう言って、モイラが頬を膨らませる。
敵意を向けられたアルセンは目を見開いて、ぱちぱちと数度、金のまつげを震わせるようにまたたいた。
「……嫉妬?」
「誰が嫉妬したって言うんですかあっ! モイラは由緒正しきディアボリカ様の侍女なんですからっ!」
「ちょ、ちょっと、二人とも、落ちつけ」
「これからは身分を
「そ、そんなぁ……ディアボリカ様を呼び捨てにするなんて……」
「というか身分を隠すなら、ディアボリカって名前自体、出さない方がいいんじゃない?」
アルセンの言い分はもっともだった。ディアボリカは
「……偽名を使うべきだろうか。こう……ハンナとかソフィアとか、よくある名前で」
「ええっ、そんな俗っぽい名前、ディアボリカ様にふさわしくないですっ!」
「この世にいるハンナとソフィア全員に謝りなよ」
アルセンは
「──ディア」
短くかろやかな音が、アルセンの唇から発せられる。
「ディアボリカ、略してディア。これからはこれでどうかな。これなら君も、違和感を感じにくいと思うんだけど」
「あ……」
「わぁ、いいですね! あたしもディア様って呼び方なら、そんなに違和感がありませんっ!」
「まあ、ご令嬢ってことにしておけば、様付けもそこまで不自然じゃないか。モイラはそこを直す方が大変そうだし」
「むぅ、馴れ馴れしくあたしの名前を呼ばないでください、人間っ!」
「モイラこそ人のこと種族名で呼ばないでもらえる?」
また火花を散らし始めた二人を、ディアボリカはあわてて
略称で呼ばれるのなんて初めてで、なんだか耳がくすぐったい。
「で、この呼び方でどう? ディア」
アルセンが笑顔で尋ねてくる。
ディアボリカは
「その呼び方で構わない。これからよろしく頼む……アルセン」
初めて口にした名前に、アルセンは満足そうに眉を下げて笑った。
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暗闇のなか、そっと
黒い森はその名の通り、常闇のいろに沈んでいた。虫の音が響くなか、横たわっていたアルセンは身体を静かに起こして、獣避けのために
二人が深い眠りに落ちていることを確かめると、アルセンは足音を忍ばせてその場から離れた。いくつか木の根を踏み越えて、身体がすっぽり隠れるくらいの大きさをした岩の陰に座りこむ。
フードのついた外套の
「ずいぶんと我慢させたね。もう出てきていいよ、スパークル」
アルセンの台詞に反応して、水晶の光が脈動のようにゆらゆらと揺らぐ。やがて、
「ふああぁぁ……ムニャ……おお、待ちくたびれたぞ、アルセン。黙って眺めるだけというのは、存外に退屈なのじゃな。暇を持て余したせいでうっかり寝すぎて、頭が溶けそうになったわい」
「ごめんごめん。でも、あの二人の前であなたを喋らせるわけにはいかなかったからさ」
「それは重々承知しておるとも。ワシはずっとお主の側で、事のなりゆきを見ておったからな。あの魔姫と出会ったことも、彼女らがお主を看病したことも、それこそお主がセシルに渓流に突き飛ばされて溺れるところまでな」
しわがれた男の声とともに水晶の光が明滅を繰り返すのを見て、アルセンは苦笑した。
「あのときはどうなることかと思ったが、こうして助かって何よりじゃ。まったく、水晶の精霊というのも不便じゃわい。口ばかりで肝心なときには手も足も出せず、何もできん」
「そんなことない。あなたはおれの後見人だ。スパークルが側にいてくれると心強いよ」
アルセンが囁くと「むぅ」と水晶の精霊──スパークルは照れたように
「……しかしまさか、リヴレグランの魔姫がお主を助けるとはなあ……これも因縁か」
「そのことなんだけど」
アルセンは一度唇を湿らせた。
「あなたのことはしばらく黙っていようと思うんだ。ディアはまだおれのことを信用してないし、色々あって混乱してる」
「まあ、道理じゃな」
水晶がチカチカとまたたいた。
「では、ワシはもうしばらく、だんまりでおらねばならんか。退屈じゃのう」
「ごめんね」
「いや、良い、良い。そもそもお主ら人の一生など、ワシら精霊には瞬きに
カカカ、とスパークルは高笑いした。それからふと、声を潜める。
「……しかしあの娘は、なかなか厄介じゃぞ。本人すら気づいておらぬようだが、片目に黒竜のかけらを宿しておる」
「黒竜のかけら?」
「いわゆる黒竜の残留思念のようなものじゃ。精霊であるワシには見えるでな。おおよそ黒竜の思念が染みついた
アルセンが眉を
「安心せい。お主が心配するようなことにはなっとらん。黒竜の思念はあの娘のなかで眠っておる。特に害はないであろう。ただお主は、先祖が殺した黒竜と、先祖が倒した魔王の
略称でない名を呼ばれて、アルセンの眉間の
「……やめてくれ、その呼び方。おれは表舞台にも立てない
「それでもお主は、セシル王子の双子の弟。まごうことなき勇者の裔の片割れじゃ」
スパークルはきっぱりと言い切った。
「あの魔姫の目的がセシル王子への復讐である以上、いずれ
「分かってるよ。上手くやるさ」
アルセンは
「危ない橋なら、これまでだって何度も渡ってきただろ? 今度だってどうにかしてみせる。おれを信じて、スパークル」
「……そうか。ではワシは、せいぜい見守らせてもらうとしよう」
水晶の光が小さくなってゆく。やがて青い光は完全に途絶えた。
再び口を閉ざしたスパークルを外套の下に収めて、立ち上がる。アルセンは何事もなかったかのような表情を
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