第7話 略称と秘密

 ルサールカが見えなくなるまで駆けて、三人は誰からともなく馬を止めた。万が一追手を差し向けられる可能性を考えて黒い森に分け入ったので、ひどく足場が悪かった。

 ディアボリカはブライアーから降り、手綱を短く持って歩きはじめる。


「いったん馬を休ませよう。こっちに小川があったはずだ」


 アルセンとモイラは頷き、ディアボリカにならって下馬する。木の根が蔓延はびこり、草がほうぼうに茂り、陰に根雪が残った森は、人が騎乗して歩くには馬の負担が大きすぎる。


 樹冠じゅかんが陽の光をさえぎるため、黒い森は昼でもどこか薄暗かった。足もとに気を配りながら歩いてしばらく、雪解け水が流れる細い渓流にたどり着く。馬に水を飲ませ、人も喉をうるおす。清冽せいれつな水の冷たさは、さきほどの騒動で乱れた心まで落ち着けてくれるようだった。


「はぁ……一時はどうなることかと思いましたけど、とりあえず一安心ですねぇ……」


 地面に腰を下ろしたモイラが、ほっと息をつく。

 川の水をすくって飲んでいたアルセンが、濡れた頬をぬぐいながら頷いた。


「しばらくこのまま森を行こう。エタンセル軍がノクイエから国に戻るのには南西の道を使うだろうから、おれ達は南東に進んだ方がいい。南東に村か街はある? ディアボリカ」

「少し遠いが、国の南東にそびえる峰の谷間に、オウマという大きな街がある。武器も日用品も揃っているだろうから、旅の身支度を整えるには、うってつけの街だと思う」

「そっか。ならとりあえず、そこを目指せば良さそうだね」


 アルセンが森をぐるりと見まわした。


「ここって鹿や猪はいるのかな……。ほとんど着の身着のまま発ったから、狩りをして保存食を作っておいた方がよさそうだ。道中は水の補給にも困るだろうから、毛皮とつる植物で水袋も作れたらいいんだけど……」


 ぶつぶつとつぶやいていたアルセンだったが、ディアボリカがじっと見つめているのに気づくと、人好きのする笑みを浮かべた。


「おれのこと、まだ信用できない?」

「いや……」


 ディアボリカは言葉をにごした。


「私達二人だけだったら、今頃ルサールカで軟禁されていたかもしれない。あのとき君が手を貸してくれたことは感謝している。しかし……」

「いいよ別に、無理しなくて。出会ったばかりの男、しかも敵対している国の人間だもん、おれ。旅は長いんだ。いずれ仲間だって思ってもらえればいい。とりあえず今は、前みたいに剣を向けられないだけで十分さ」


 敵意を向けたときのことを蒸し返されて、ディアボリカはムッと眉をひそめた。不機嫌な顔をしているにも関わらず、アルセンが「それより」と軽快に言葉を投げてくる。


「そろそろ君なんて名称で呼ばずに、アルセンって呼んでくれない? ディアボリカ」

「ちょっとあなた、ディアボリカ様に馴れ馴れしすぎません?」


 モイラが、じとりとアルセンを見据えて口を挟んだ。


「分かってます? ディアボリカ様はリヴレグランの魔姫ですよ? どこぞの人間ごときが、気軽に声をかけられる存在じゃないんですけどっ」


 とげとげとした口調を隠そうともせずそう言って、モイラが頬を膨らませる。

 敵意を向けられたアルセンは目を見開いて、ぱちぱちと数度、金のまつげを震わせるようにまたたいた。


「……嫉妬?」

「誰が嫉妬したって言うんですかあっ! モイラは由緒正しきディアボリカ様の侍女なんですからっ!」

「ちょ、ちょっと、二人とも、落ちつけ」


 飄々ひょうひょうとしたアルセンと、顔を真っ赤にして怒るモイラのあいだに、ディアボリカはあわてて割り入った。


「これからは身分をおおやけにできない旅になるから、むしろ様づけの方が不自然だ。モイラも私のことは呼び捨ててもらって構わない」

「そ、そんなぁ……ディアボリカ様を呼び捨てにするなんて……」

「というか身分を隠すなら、ディアボリカって名前自体、出さない方がいいんじゃない?」


 アルセンの言い分はもっともだった。ディアボリカはあごに手を当ててうなる。


「……偽名を使うべきだろうか。こう……ハンナとかソフィアとか、よくある名前で」

「ええっ、そんな俗っぽい名前、ディアボリカ様にふさわしくないですっ!」

「この世にいるハンナとソフィア全員に謝りなよ」


 アルセンは嘆息たんそくして、それからディアボリカに視線を向けた。


「──ディア」


 短くかろやかな音が、アルセンの唇から発せられる。


「ディアボリカ、略してディア。これからはこれでどうかな。これなら君も、違和感を感じにくいと思うんだけど」

「あ……」

「わぁ、いいですね! あたしもディア様って呼び方なら、そんなに違和感がありませんっ!」

「まあ、ご令嬢ってことにしておけば、様付けもそこまで不自然じゃないか。モイラはそこを直す方が大変そうだし」

「むぅ、馴れ馴れしくあたしの名前を呼ばないでください、人間っ!」

「モイラこそ人のこと種族名で呼ばないでもらえる?」


 また火花を散らし始めた二人を、ディアボリカはあわてていさめる。

 略称で呼ばれるのなんて初めてで、なんだか耳がくすぐったい。


「で、この呼び方でどう? ディア」


 アルセンが笑顔で尋ねてくる。

 ディアボリカは躊躇ためらいながらも、こくんと首を前に倒した。


「その呼び方で構わない。これからよろしく頼む……アルセン」


 初めて口にした名前に、アルセンは満足そうに眉を下げて笑った。




  · · • • • ✤ • • • · ·




 暗闇のなか、そっとまぶたを持ち上げる。


 黒い森はその名の通り、常闇のいろに沈んでいた。虫の音が響くなか、横たわっていたアルセンは身体を静かに起こして、獣避けのためにいた火の側で眠るディアボリカとモイラを見下ろした。この二人にとって野宿は慣れないはずだが、どうやら疲れがまさったらしい。すうすうと、規則正しい寝息が唇から漏れている。


 二人が深い眠りに落ちていることを確かめると、アルセンは足音を忍ばせてその場から離れた。いくつか木の根を踏み越えて、身体がすっぽり隠れるくらいの大きさをした岩の陰に座りこむ。


 フードのついた外套のボタンを外し、襟首に手を突っ込んで、首にかかっていた革紐を引っ張り上げる。革紐に下がっていた水晶が外気に触れると当時に、ほのかな青い光を放った。魔光夜蟲に似たその光を眺めながら、アルセンは薄水色の瞳を細める。


「ずいぶんと我慢させたね。もう出てきていいよ、スパークル」


 アルセンの台詞に反応して、水晶の光が脈動のようにゆらゆらと揺らぐ。やがて、欠伸あくびに似た音が水晶から漏れてきた。


「ふああぁぁ……ムニャ……おお、待ちくたびれたぞ、アルセン。黙って眺めるだけというのは、存外に退屈なのじゃな。暇を持て余したせいでうっかり寝すぎて、頭が溶けそうになったわい」

「ごめんごめん。でも、あの二人の前であなたを喋らせるわけにはいかなかったからさ」

「それは重々承知しておるとも。ワシはずっとお主の側で、事のなりゆきを見ておったからな。あの魔姫と出会ったことも、彼女らがお主を看病したことも、それこそお主がセシルに渓流に突き飛ばされて溺れるところまでな」


 しわがれた男の声とともに水晶の光が明滅を繰り返すのを見て、アルセンは苦笑した。


「あのときはどうなることかと思ったが、こうして助かって何よりじゃ。まったく、水晶の精霊というのも不便じゃわい。口ばかりで肝心なときには手も足も出せず、何もできん」

「そんなことない。あなたはおれの後見人だ。スパークルが側にいてくれると心強いよ」


 アルセンが囁くと「むぅ」と水晶の精霊──スパークルは照れたようにうなった。


「……しかしまさか、リヴレグランの魔姫がお主を助けるとはなあ……これも因縁か」

「そのことなんだけど」


 アルセンは一度唇を湿らせた。


「あなたのことはしばらく黙っていようと思うんだ。ディアはまだおれのことを信用してないし、色々あって混乱してる」

「まあ、道理じゃな」


 水晶がチカチカとまたたいた。


「では、ワシはもうしばらく、だんまりでおらねばならんか。退屈じゃのう」

「ごめんね」

「いや、良い、良い。そもそもお主ら人の一生など、ワシら精霊には瞬きにひとしい。たまにはこういうのもよかろうて」


 カカカ、とスパークルは高笑いした。それからふと、声を潜める。


「……しかしあの娘は、なかなか厄介じゃぞ。本人すら気づいておらぬようだが、片目に黒竜のかけらを宿しておる」

「黒竜のかけら?」

「いわゆる黒竜の残留思念のようなものじゃ。精霊であるワシには見えるでな。おおよそ黒竜の思念が染みついたゆかりの物にでも触れたのだろう。それでなくとも、リヴレグランの王族は黒竜とのえにしが深い」


 アルセンが眉をしかめると、スパークルは軽い調子で声を上げた。


「安心せい。お主が心配するようなことにはなっとらん。黒竜の思念はあの娘のなかで眠っておる。特に害はないであろう。ただお主は、先祖が殺した黒竜と、先祖が倒した魔王のすえ、二重の縁にさらされていると、心に留めおく必要がある。良いな、アルセン。──いや、アルセンティエ」


 略称でない名を呼ばれて、アルセンの眉間のしわが深くなる。


「……やめてくれ、その呼び方。おれは表舞台にも立てない出来損できそこないだよ。世継ぎに何かあったときのための予備、ただの影にすぎない」

「それでもお主は、セシル王子の双子の弟。まごうことなき勇者の裔の片割れじゃ」


 スパークルはきっぱりと言い切った。


「あの魔姫の目的がセシル王子への復讐である以上、いずれほころびは生まれる。お主の正体も、いつまでも隠しおおせるものではないぞ」

「分かってるよ。上手くやるさ」


 アルセンは自嘲じちょうに似た笑みを漏らす。


「危ない橋なら、これまでだって何度も渡ってきただろ? 今度だってどうにかしてみせる。おれを信じて、スパークル」

「……そうか。ではワシは、せいぜい見守らせてもらうとしよう」


 水晶の光が小さくなってゆく。やがて青い光は完全に途絶えた。


 再び口を閉ざしたスパークルを外套の下に収めて、立ち上がる。アルセンは何事もなかったかのような表情をつくろって、焚火の側で眠る仲間達のもとへと足を向けた。

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