第2話
ウサギは病室で目覚めた。鼻につく消毒液の匂い。くすみのない薄情な白い天井。そんな無機質な空間がなぜだか落ち着いた。仰向けから横向きに体勢を変えてあたりを見ると、部屋は個室のようだった。
しばらくすると看護師が点滴を入れ替えにきた。話を聞いてみれば明日には退院だという。
「あと、お見舞いのかたがうかがっていますよ」
ウサギは即座に面会の意思がないことを告げた。そのころには倒れたころの記憶がはっきりしだして、もしかすればあの若い黒ウサギが来ているかもしれないと考えた。無論、ほかの見舞い客の可能性もないこともないが、しかしその可能性を切り落としてでも、あの黒ウサギには会いたくない。
看護師が部屋を去るとウサギはぼんやりとした。備えつけのテレビを観ることもなく、本を読むこともなく、ただひたすらにぼんやりしたのである。ぼんやりすればまた不安ごとが浮かんだ。そういえば仕事先に連絡をしていない。空は陽射しが照っていて、およそもう昼であり、無断欠勤したことになる。やはり『ウサギとカメ』の通り、ウサギは怠惰で、平気で会社を休むやつだと思われる。そういえば、あの看護師も自分のことを知っているのだろうか。いや、知っていないはずはない。いまごろ看護師同士の雑談で、話のネタになっていることだろう。またさらに先のウサギがここまで無理やり入り込んだらどうだろう。そうすれば最悪だ。おなじ病棟に記者でもいたらどうするだろう。彼らは喜々として記事を書き、出版するだろう。……
ウサギはまた体調が悪くなった。
午後になるとウサギの体調はいくぶんか安らいだ。結局彼はもう会社を辞めること、記事を出されたらなけなりの貯金でいくらか整形をして、まるきり別の自分になることを決心したのである。決心が済むと彼はここでどうなろうと何も関係がない気がした。自暴自棄にちかかった。
ウサギが食事を食べ終えるとまた例の看護師が話しかけた。
「お見舞いのかたがまだロビーにいて……」
ウサギは入ってきてもらうように言った。もう彼の自暴自棄は、最悪、若者も殴ってしまえばいいなどとも思っていた。
三十分ほどで若者の黒ウサギは入室した。黒ウサギはまだ昨夕とおなじ恰好をして、もしかすれば救急車で運んだときからずっとこの病院にいてくれたかもしれない。
そんなことを思って、ウサギは気持ちやさしく切り出した。
「すまないね、様態がずっと悪くて」
「いえいえ、こちらこそ、色々とわきまえずに接してしまって……あのあとママさんからこっぴどく叱られました」
黒ウサギは目を合わせずそう返した。素振りだけなら、反省しているようにも見える。
「君は何歳かね」とウサギは訊いた。
「二十二です」
「じゃあ、まだ若い。色々とこれからあるだろうね。僕のことはもういいから、気にせず、帰ったらいいよ」
ウサギはすこしやさしい気持ちで若者の帰りを促した。実際、ウサギがこの若者に話すことなどなにもなかったし、人の気持ちをはからずに接してはいけないという教訓を垂れただけでもう十分だった。
しかし黒ウサギはまだ黙って俯むいたままだった。黙って、俯き、何か思案するような感じで、退室するなどは微塵もない雰囲気である。
いくぶん経っただろう。それは数十分でも数秒ほどでもありそうだった。突然、黒ウサギは顔をあげ、またあの黒真珠のような瞳を患者にむけた。
「ウサギさん、やはりあなたはもう一度戦うべきですよ」
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