ウサギとカメ

九重智

第1話

 ウサギは仕事をはやく切り上げるとそそくさと繁華街に消え、その端の、ひっそりとしたバーに駆け込んだ。午後六時のバーは相変わらず人がいない。ウサギはほっと安堵して、カウンターに座り、ウィスキーのロックを頼んだ。


「あんたのために、こんなはやく店を開けているもんだからね」


 バーのママは愚痴りながらウィスキーのボトルを開けた。ボトルはいつも安酒で、一本をスーパーで買っても二千円もしない。しかしわざわざウサギがここまで脚を運ぶのは、ママの言う通り、たった一人の客だけでママと酒を交わすためだった。家でのひとり酒は哀しいものが込み上げて、ひたすらに情けなるからしなかった。


 ウサギは何も言わなかった。ただひたすらに琥珀色のとろとろとした液体を見つめている。その昔、ウサギは冗談好きなどこにでもいるお喋りだった。しかしそれも五年前のことで、いまは怯えるように無口になっている。ウサギのチャームポイントだったつぶらな赤い目はもう気力のない瞼で半ば覆われて、綺麗で繊細だった白い毛はどんな熱射の夏でも長袖のスーツを着るせいで、蒸れてごわごわになっていた。


 ウサギがウィスキーを見つめ、ときどき思い出したようにひとくち飲むあいだ、彼が考えることと言えばひとつである。それはカメとの競争とそのあとに長々とつづく非難と嘲笑だった。


「もう気にするひとなんていないと思うけどね」


 ママが慰めてそう言った。ウサギも、そうかもしれないと思った。もうあれから五年経つ。名誉棄損として新聞社諸々を相手取った裁判も終わった。『ウサギとカメ』の話を知っていても一目でそれが自分のことだとわかる人はいないのではないか。思い返してみるとあの競争以降、ウサギの生活は一変して、ほとんどの友人が彼のもとを去り、仕事もそっけない報連相でしか話しかけられなくなった。いや、それだけだとまだいい。あの競争が大々的にメディアに取り上げられてから道端で嘲笑やひどいときには男数人に囲まれリンチにあったこともあった。ネットに関しては一度見たきり後悔した。


 しかしそれももう時効ではないか。最近のウサギにはこんな考えが浮いては消え、浮いては消えてを繰り返している。バーのママが何を言ってもそれは変わらない。結局、もとのお喋りで、良い意味で平凡だった人生には戻れない。いやもはやどうすればもとの自分でいられるのかすらわからないのだ。もうウサギの心には、彼に同居する非難者が延々と住み着いて離れない。


 ウサギはうちから聞こえる声を消そうとまたウィスキーを頼んだ。その瞬間、入口のほうからからんと音がした。珍しく、こんな時間に客が来るのだった。ウサギは慌てて手でバツをつくり、千円をママに渡した。


 ママがおつりをレジから出すあいだ、最悪の事態が起こった。来客のほうがウサギに声をかけたのである。


「あれ、もしかすると『ウサギとカメ』の――――」


 ウサギはドキリとした。もうこの店に来るのはやめよう、そうも思った。ウサギはまだ来客の姿を見ておらず、目の端の影と、声の若い調子しかわからない。若者、それもおそらく自分より一回りは年下だった。こんな若い者でも、自分をしっかりと見分けることができるのだ。


「いえ、きっと人違いです……」


 平静に言うつもりが、急に高まった鼓動で震えてしまった。ウサギはおつりを受け取り、乱雑に外套のポケットに入れ、来客の隣を横切ろうとした。


「ねえ、ちょっと!」横切ったあと若者はいよいよウサギの肩を掴んだ。


「ウサギ以外ならともかく、僕もウサギなんです。ウサギは同族の顔を見間違うことなんてありませんよ」


 ウサギは振り向いて若者を顔を見た。見るとたしかに若者も同族のウサギである。真っ黒な毛に真っ黒な目をしている。


 いよいよウサギは乱暴な手をつかってもここを出たくなった。話しかけたのが同族であることが不幸中の幸いになることはない。いやむしろ悲しむべきことであって、実のところあの競争の件で殴りかかったのは、カメでも人間でもなく、むしろ同族の汚名に怒り狂ったウサギなのであった。


 ウサギの目にはまた当時のひどい暴言と振りかざされる拳が次々と思い出された。全身の毛が逆立ち、前歯がかたかたと震え、「キュー」というわけのわからぬ声を発した。


 ウサギは、ついぞ倒れた。

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