レイの悪魔図鑑
砂藪
序章
「ソロモンの七十二柱が一柱、フォラス。二十九の軍団を率いる地獄の長官がなんて様だ」
月も厚い雲に遮られ、闇が降り立った深夜零時。
周りに民家もない林の中の教会では、ランプを足元に置いたまま、あぐらをかいて座る少年がいた。
所々跳ねている白髪を揺らしながら、前のめりになる少年は短いズボンから出ている膝小僧の上に彼の胴と同じほどの幅がある分厚い本を広げる。その本の表紙には、大きな角を持つ山羊の骸骨の装丁が浮き出ている。
大仰な装丁の本と、パリッとした白シャツの襟元にあるループタイを留める両目の色に合わせたガラス玉をあしらったアクセサリー、磨かれた革靴からして、この少年の暮らしが伺える。
「フォラス……封印場所は、バーディマル教会、地下の……なんだ、ここ。地下室でいいか」
少年は周りを見る。
教会の講壇から伸びる階段を下りた先にあるこの場所は、石壁で覆われた立方体の部屋だった。そして、そこには棚が鎮座しており、埃の積もった書物やホルマリン漬けのネズミとヒナが並べられていた。
その中で、少年が最初から興味を持っていたのは、一つの瓶だった。
その瓶の中で、膝を抱えるようにして、ぼんやりと人の形を保っているような影が揺れていた。
その瓶を少年は左手に取り、頭の横に持ち上げたまま、右手で膝の上に広げた本の一ページ目を開く。
ポケットから取り出した筆記用具に今日の日にちと時間と天気と場所と収集したもののスケッチをさらさらと書いていると、ばたばたと足音が響く。
当然、少年の足音ではない。
「どうして、地下への階段が……っ」
声はまだ少年がいる地下からは遠い。
「おい、誰かいるのか⁉ 返事をしろ!」
少年は返事をしない。
彼にとって、重要なのは、この階段の場所を知られたくない誰かに自分の存在を露見しないよう努めることよりも、本のページを埋めることだ。
したがって、司祭服の若い見た目の男性が地下に駆け下り、見たものは、自分のことを一瞥もせずに本に目を落とし、ペンを持つ手を動かす白髪の少年だった。
「なんだ、お前は……っ」
「堂々と教会の地下に侵入した不届き者だよ」
「ここで何を……っ⁉」
司祭は、少年がその左手に掲げている瓶を見て、息を呑んだ。
それは、彼が管理しているこの教会で、唯一、彼にとって意味があるものだったからだ。
「それを今すぐ離せ!」
少年は、手を止め、ポケットにペンを戻すとぱたんと本を閉じて、鷹揚に立ち上がった。侵入者と自称しつつ、その自覚がないかのようにゆったりとした動作で立ち上がった少年は、ようやく司祭の顔を見ると口角を吊り上げた。
「まぁ、そう怒るなよ。司祭サマ」
少年が、自身の頭よりも上に瓶を掲げた瞬間、司祭は青ざめた。
この無邪気な顔で笑う少年が今からなにをしようとしているのか、最悪の想像をしたからだ。
「ま、待て――」
そして、その想像は当たる。
少年は瓶から手を離す。
身を乗り出した司祭の手がその瓶に届くことはなく、呆気なく、ガラスが飛び散る音が地下室の石壁に反響する。その音に、司祭の絶叫が被る。割れたガラスの瓶からは、白い煙のようなものが漏れ出し、その煙は意思を持つかのように地下室から石の階段へと移動していった。
頭を抱え、絶望の叫びをあげる司祭を見下ろしたまま、少年は笑みを消して、口を開く。
「悪魔フォラスは召喚者の寿命を延ばすと言われている」
淡々と語る。
「司祭……あんたは息子の名を借りて、五十年はこの教会の司祭を続けているだろう?」
「な……っ」
司祭は、この少年とは会ったことがない。
こんな両手で数えることしかできないほどの家しかない辺境の地で、死んだ息子の名を借りて生きることは難しくなかった。それでも、昔からの知り合いは時折勘付いたりしたが、それも、勘付いた人間ごと消していれば、問題はなかった。
だからこそ、こんな初対面のなにも知らない餓鬼が、自分が息子の名を騙り、生きていることを知っているのはありえないのだ。
何故、知っている。
当然の疑問だ。
しかし、少年は答えない。
彼は事件を解決しにきた探偵ではなく、息子の名を騙り生き永らえる男に罰を与えるために遣わされた天使でもないからだ。
「ここが辺鄙な場所で良かったな」
しいて言うのならば、司祭の秘密を少年が知り得たのは、少年の恐ろしいまでの自己満足の探求心の賜物だ。
「おかげで俺達みたいな、悪魔探しをしてる頭がおかしい奴にしかバレなかった」
司祭には「悪魔探しをしてる」と言う血のように赤い瞳を持つ少年の方がよほど悪魔に思えた。
司祭の額から頬に冷や汗が伝う。
(クソ……この餓鬼の様子からして、村の奴らには言ってないみたいだが、このままじゃ周りにバレる。積み上げてきた私の立場が……)
司祭でいれば、安定した生活を得られる。このような田舎では村民が皆、司祭を頼りにする。その一種の全能感を男はなにを引き換えにしてでも欲しかった。
故に。
(いや……まだ手はある)
その全能感に欠けを作らないためなら、餓鬼一人、村民数人を殺すことなど、男にとって罪の欠片にもならなかった。
「お前を殺せば、誰にもバレない!」
男は先程まで頭を抱えて絶叫していたのが嘘のように、勢いよく駆け出し、白髪に悪魔のような鮮血の瞳を持つ少年の細い首に、自身の手を伸ばした。
少年はといえば、司祭の必死の形相を、ぽかんとしながら見つめるだけだった。
「レイ」
少年の声でも司祭の声でもない低い男性の声が地下室に響く。
音もなく現れた長い黒髪を後頭部で一つに縛っている黒髪黒目の青年は、後ろから司祭の首に手を回し、もう片方の手で、司祭の顔に黒光りする銃口を向け、白髪の少年を見つめた。
「勝手に一人で行動するなと言いましたよね?」
青年の顔を見て、レイと呼ばれた少年は子供らしく笑顔で答える。
「ムゲン、遅かったな。フォラスは解放したぞ」
ムゲンと呼ばれた男性は、眉間に皺を寄せた。
「そういうことじゃなくてだな……。単独行動されては危険な目に遭っても対処できない」
レイを今まさに危険な目を合わせようと企んでいた司祭を間に置いてする会話ではない。
司祭はたまらず、異様な二人に向かって、声を張り上げた。
「お前たち……いったい何が目的だ⁉ もし寿命が望みならフォラスの力を使うのを許してやろう! だから、この手を離せ!」
きょとんと、レイは目を丸くする。
「寿命……?」
まるでそんなものは最初から考えていなかったかのようにその言葉を鸚鵡返しにする。
「なにを言ってるんだ?」
まるで、分からないというようにレイは首を横に振る。
「俺達の目的は封印された七十二体の悪魔の解放だ。それ以外の目的はない」
司祭は目を見開いた。
それが夢物語だからではない。
実際に悪魔はいる。事実、司祭は封印された悪魔の力を用いて、自身の寿命を延ばしていた。
しかし、分からないのは「解放」だ。
この世界は、悪魔を全て封印して、幸福の地となった。悪魔を解放するということは、それ即ち、善意で満ちているこの世に悪意を振りまくということ。
普通の人間であれば、そんなことは望まない。そもそも、頭の片隅にすらそんな目的は過ぎらないだろう。
それは人を殺してまで自身の安寧を守ろうとした司祭にも理解できないことだった。
「な……なぜ、悪魔の解放を……」
レイは笑った。
「世の中がつまらないからだよ」
その瞳に嘘偽りはない。
ただただ、無邪気な子供のように、姿も言動も全て子供らしい少年は、気味が悪いほど少年の身体には釣り合わない貪欲さを孕んだ声でそう言った。
「俺達はもうあんたに用はない。フォラスは霧に紛れて出て行った」
コツコツと地下室の扉を向かうレイは、階段に足をかけようとして、司祭を振り返った。
「明日まで、寿命が残っているといいな」
ムゲンはレイが司祭から離れたと分かると、すぐに司祭を解放した。司祭はその場にへなへなと座り込む。
「それでは。ごきげんよう、司祭サマ」
その場には似合わない別れのセリフを吐いて、少年と青年は、石段を上り、教会の外へと出た。
レイは、空を仰ぐ。
教会に忍び込んだ時は、厚い雲に覆われていた満月が顔を出していた。
「最初の悪魔解放にうってつけの空だ。とても気分がいいな」
今にもスキップしそうなレイの姿を見て、ムゲンはため息を吐いた。
「……まったく、雷雨でも同じこと言っただろうな」
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