香り

鷹野ツミ

始まり

 授業開始まで三分も無い。次は体育だ。

 空き教室で着替えて、校庭まで走って、ギリギリ間に合うかどうか。

 体育教師は女子生徒にも容赦なく怒鳴りつける人だ。

 空き教室には布が擦れる音だけが響いていた。くだらない会話をしたり、前の授業が長引いたせいだと文句を垂れる余裕は誰にも無かったのだ。


「明里、先行くよ!」「明里!早く!」

 クラスの目立つ女子のグループが明里を急かす。明里は「待ってえ」と甘ったるい声で言いながら髪を高い位置で一つに束ね、手鏡で念入りに確認し、薬用のリップクリームを塗り、桃の香りの制汗剤をうなじに馴染ませ、ようやく支度を終えた。


「ねえ、一緒に行こ。みんなに置いてかれちゃった」

 まだ空き教室でのんびりしているのは、明里と明里に見惚れていた私だけだ。

 声を掛けられるとも思っていなかった私は目を泳がせて黙りこくった。熱くなった頬を隠すように俯いた。

「ねえ、聞いてる?」

 明里が私の顔を覗き込むと同時に授業開始のチャイムが鳴った。

「あーあ。始まっちゃったー。もうさぼろうかな。保健室でも行こーよ」

 明里の少し後ろを歩く。揺れる真っ黒な髪、体操服から透ける下着の形、スっと伸びるふくらはぎ。

 触れられそうな距離に手を伸ばそうとする自分の欲を抑えた。


「失礼しまあす」と可愛らしい高い声で保健室に入る明里に私も続いた。

「誰も居ないねー。勝手に寝ちゃおーよ」

 低いテーブルの上に「職員室に居ります」とメモが置いてあった。ベッドを使用中の生徒も居ない。

 明里がベッドに腰掛けると軋む音が響いた。隣においでよと手招きされ、言われるがままそこに腰掛ける。再び軋む音が響いた。無言の間に無機質な時計の音と準備体操の掛け声が聞こえてくる。

「ねえ、私のこといつも見てるよね」

 不意に言われた言葉に私の肩がピクリと跳ねた。耳まで熱を帯び、背中にはじわりと汗をかいている。

「ふふ。私のこと好きなんでしょ?」

 耳元で囁くように言われ、身動きが取れなくなる。

 数分にも感じられた沈黙の後、私は小さく首を縦に動かした。

 明里は潤った唇の端を吊り上げ、私をベッドに押し倒した。その横に明里も転がる。安っぽい桃の香りが鼻腔をくすぐった。

 目を見開く私に対し明里は目を細めた。

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