面倒
「自分ではやらなかったんだ」
「ああ」
項垂れるしかなかった。
「優しいじゃん。妹の絵は、結局傷つけられなかったんだ」
優しい――榮倉の言葉が脳内で空虚に響く。何回か、言われたことはあった。おれが優しいはずがなかった。
おれはその場しのぎで人を気持ちよくする言葉を発するだけの媚びに終始していた。それは相手のことを考えて言葉を選んだわけではなく、ただおれが嫌われて傷つくことが怖かっただけ。
優しいと言われるときは、その小賢しい所作がたまたま上手くいっていたときだけだったんだろう。家でも教室でもおれは同じように振る舞った。だから、おれには友達がいない。芯の強い、本当の優しさではない――そんなものはおれには手に入らない。
何のセンスもないやつほど、中身のない優しさに縋る。全人類が自分と同じであるかのように、それを求めていると錯覚して、優しさに見えるただの媚びを振りまく。そんな薄っぺらい者は、だれも必要としない――相手にしないのだと言うことに気づかない。
気づいたところで幸せになれるわけもない。
そのままおれは何者にもなれず、自分の内にある感情すら処理できず、鬱憤のままに人殺しに加担した。馬鹿で拗くれた、普通にすら届かない愚かなおれ。
「最後に一つだけいいか」
自分の声すらどこか遠かった。
「なに」
「なんであいつらと一緒にいた。おまえはあいつらとは違うはずだ。あそこで笑ってたのはお前だけだ」
「どういう意味」
榮倉の表情からは何も読み取れない。
「おまえはあそこにいたみんなとは違うだろ。勉強もできるし、あいつらと違って学校にも普通に通える。それに――そもそも、自分の親の生命保険を他人のために全部溶かすなんて、ありえねえだろう」
本当にそんなことが聞きたかったのか――口に出したかった言葉が出ない。喉元は焼き尽くされたかのように熱く、ひりついて、おれに本当のことを伝えることをさせない。全ての感情はあやふやで、熱く爛れている。
「嘘だよ。お父さんが事故で死んだって話」
「は?」
「おれが殺したんだ。酒飲んでふらふらになっているところを川に突き落とした」
「くだらない嘘つくなよ」
おれの声はみっともなく裏返っていた。
「おれが嘘ついてると思い込む方が都合いいのかよ、隆司?」
榮倉が背中を丸め、こちらを覗き込んでいる――ように見える。真っ黒な瞳で見つめてくる。
悍ましい供述。それなのにちっとも現実感がわいてこない――自分で見てもいないことを聞かされて、それが嘘だったとさらに聞かされても、驚きようがない。おれを巣食っているのは驚きでは無くただ純粋な恐怖だった。
榮倉は自分がしたいようにできる。自分のためなら家族だって殺してしまえる。怖かった。恐怖のせいで全身が張りつめ、痺れるように震えた。それでも――羨ましい。身近な人間が枷になっていると思えばすぐさま破壊できる榮倉の暴力的なまでの我の強さが羨ましい。
狂っている。
人殺しの醜さを間近で眺めておきながら、それでもおれは人殺しに憧れている。おれという人間は完璧に狂っちまっている。
どうしてこうなった、なんでおれはここまで狂っている――
おまえが正常だった時期なんてあったか――頭の中で声がした。何も言い返せない。声が正しいのだ。おれはいつも人より劣っている。皆が当たり前にやっていることができず、他人を苛立たせ、呆れさせ、そして見放される。
おれは生まれてからずっと異常者だった。異常者であるおれが更に劣悪な環境に侵された異常者と出会い、より異常な人間にへと変わってしまった。
何より、人殺しに加担するほど狂ってしまったおれに、正常かどうかなんていう物差しを振りかざす権利はない。
「なんで。なんでそんなことした?」
それでも疑問が口をついて出る。聞かずにはいられない。理由――榮倉はおれとは違う。あそこにいる誰もが榮倉の言うことを聴いていた。榮倉は彼らを従えていた。頭が良くて、絵も上手かった。榮倉はおれのようなセンスのない人間とは違う人種だった。少なくとも、彼らのように自棄になる要素は榮倉のどこにも見当たらないはずだった。そんなこいつが、どうして親を殺したり、何食わぬ顔で遠山達に混ざったりすることができるんだ。
「おれも不思議だったんだよ。自分の気持ちは曖昧でさ。でも、この前初めて会ったときの隆司の顔を見て、初めて少しだけわかった気がするよ」
覚えている。先生に叱られ気が沈み、逃げるように自転車を走らせていたおれに気さくに声をかけてくれた榮倉遼一。榮倉はあの時も今のように笑っていた――はずだ。榮倉の顔からおれが読み取れるものは何もない。
「おれの顔で?」
「そう。隆司はたぶん、自分を取り巻くすべてに嫌気がさしてたんだと思う。できるなら全部投げ出したい。そんな顔をしていた――おれはそう感じたんだ。そのとき、おれも同じだって自覚した。毎日漠然と、好き勝手に生きて、全部終わらせてやろうって思ってたおれ自身の感情に気づけたんだ」
「だからあんなことを企てたんだな。あいつらを扇動して」
「うん。でも、終わってみれば大したことなかったね」
こいつは何を言っているんだ――視界がゆがみ、霞む。焦点が合わない。生々しく光る、他人の血液。命を失っていく、運が悪かった一般人――さっきの惨劇が脳内にへばりついている。おれも、榮倉も、それを見ていたはずだ。
なんであんなことをしなければならなかったのか。小学校時代はおれと同じだったはずの榮倉が。
おれと同じだからこそだ――おれと同じ思いを抱いていたからだ。だから、あんなことを企てた。それなのに。
おれに榮倉のような力はない。
同じはずなのに、なぜ榮倉とおれはこうも違う――
「おまえは賢いだろう。勉強だって、絵だって上手にかける。それなのに何が気にくわなかったんだよ。落ちこぼれた奴ら集めて人殺しさせた。おまえなら、もっと上手く生きれたんじゃないのか」
「わかるかな、なんていうか――面倒くさかったんだよ。ずっと。真面目に勉強して、人間関係作って、それなりに考えてとか全部が面倒くさいんだ。別に誰かが嫌いだとかじゃなくて、生きている上でやらなきゃいけないこと全部が面倒くさいんだよ」
わかるさ――声にならなかった。おれだってもう生きていたくなかった。いつ死んでも構わなかった。容易く死ねる方法があるなら死にたかった。生きているのか死んでいるのか、存在しているのかすらあやふやな人生だった。
確かなものはどうしようもない孤独感だけだった。ふとしたときにはいつも空虚さを感じていた。
それでも死ぬ勇気は持てなかった。死ぬのは怖かった。確実かつ安らかに死ねる方法が無かったからだ。
一切の抵抗なく楽に死ねる方法があったなら試したはずだ。
「生きてるうちはそれがずっと続いてくんだ。本当に面倒くせえよ、隆司。そう思うだろう?」
面倒くさい――榮倉は何度も口にする。榮倉にしては異様に乏しい語彙。榮倉が馬鹿だから――そうじゃない。面倒くさい――そのままの意味じゃ無い。
多分、いろいろな意味が含まれている。この言葉には榮倉の情念が絡み付いている。榮倉の人生に対する苦悩、諦めが含まれている。それを細かく紐解いてみせることにすら、彼は嫌気が差しきっているのだ。
面倒くさい――榮倉が初めて露わにした、呪詛だ。そうだ。結局、おれたちは生きることに向いていないのだ。それが無能なおれであっても、頭がいい榮倉であっても、そこにだけは区別が無い。
榮倉は自分とおれが同じであると繰り返す。それでも――
「隆司に久しぶりに会って、驚いたよ――鏡を見ているみたいだって、本当に思ったんだ」
信じられない――榮倉とおれが同じであるはずがない。おれはもっと卑屈で、みすぼらしくて、弱くて――
自己嫌悪は言葉で表しきれない。
「ありがとう、隆司」
榮倉が微笑んだ。背後で音がした。笑みは目を焼くような照明にかき消された。榮倉が踵を返している。照明――電車が来た。榮倉の影が消えた。金属的な轟音が全てをかき消した。
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