第2話 加護を失った女に価値はない

「セシリア様。先週来た農奴たちがまた面会を希望しておりますがお会いになりますか?」


所在なげに窓の外の風景をぼんやり見ていたセシリアは、侍女のマリアに話しかけられ、我に返った。


「いいわ。すぐに伺います」


こうも立て続けに来るとはまた悪い知らせなのだろう。それを考えると頭が痛くなるが仕方ない。この事態に対処できるのは自分だけなのだから。そう考えながら、セシリアは重い足を引きずるように謁見の間へと向かう。


「セシリア様……今回もご主人様ではないのですね」


農奴たちはセシリアの姿を見て失望を隠しきれないようだった。期待されているのは自分ではない。分かっていたことではあるが、弱々しく微笑むだけだ。


「主人は今手が離せない仕事があるの。度々足を運んでもらって悪いけど、今回も私が話を聞くわ。決壊した堤防は応急処置をしたはずですが、また駄目になったのですか?」


「今度は少し離れた別の場所からも水があふれ出て……このところ大雨続きであちこちガタが来ています。応急処置をして、今のところは何とか持ちこたえてますが、抜本的な工事をしないとどうにもなりません。どうかご主人様に話を通していただいて、一度視察に来ていただきたいのですが……」


「話はしているけどなかなか手が回らなくて……視察なら私が行ったじゃない? それでは不満なの?」


「いえ! 滅相もない! でもご主人様直々でないと予算がつかないので……」


予算と聞いて、セシリアは、うっと言葉に詰まった。ここの領地の予算は、夫のクリストファーに全ての決定権が委ねられている。彼に直訴しなければ意味がないという領民の考えは至極もっともだ。でも、そうしたくてもできない事情があった。


「……分かりました。予算の方は私が何とかいたしましょう」


「セシリア様!」


隣で聞いていたマリアが声を上げる。しかし、セシリアはマリアを手で制してそのまま続けた。


「大丈夫よ。堤防の件は何とかするから待ってちょうだい。そのうちこちらから使いを出します」


農奴たちは不安げな表情が消えぬままその場を後にした。彼らが見えなくなったところで、マリアが悲痛な叫び声を上げる。


「またご自身の懐から出すおつもりですか? ご両親から受け継いだ遺産は、もう殆ど残ってないというのに。そうでなくても、普段のお召し物など極限まで節制しているではないですか。これ以上どうするおつもりで?」


「贅沢しないのは別の理由だから関係ないわ」


セシリアはそう言って自嘲気味に笑う。この辺一帯をまとめる領主の妻としては、余りに質素ないで立ちに、初めて会う者は使用人と見分けがつかないほどだ。宝飾品の類もここ数年身に着けていない。結婚して3年、23歳という年齢は、本来ならば人生の中で心身ともに充実した時期のはずなのに、亜麻色の髪は色つやを失い、細身というよりむしろやつれた姿をさらしていた。


「さて、領民と面会したことをクリストファーに報告しないとね。今日は会ってくれるかしら?」


セシリアは、何も気づいてない振りをして夫の寝室へ歩みを進めた。マリアは複雑な顔で後を着いて行く。どうせ結果は分かっているのに、無駄と分かっていることを繰り返し実行するのは非常に疲れる。


セシリアはクリストファーの部屋の前まで来ると扉をノックした。しばらく待っても返事がないが、構わずもう一度ノックする。やがて唸るような声で「うるさい!」と聞こえてきた。それでもドアが開くことはない。セシリアは、構わず扉越しに聞こえるように声を張り上げて言った。


「失礼します。セシリアです。先ほど領民が面会に来まして、川の堤防が決壊している場所が何か所かあるらしく、工事の依頼を——」


「また金目当てに貧乏人がやって来たのか?」


扉の向こうからがなるような声が返って来る。


「川岸の堤防を直す工事です。どうか、領地の予算から出してください!」


「駄目だ。うちの予算は年々減る一方だからな。余程節約しないと立ち行かなくなる」

「とは言え、まだ十分に余裕があるはずです! 工事をしないと、あの辺一帯が水浸しになって、取り返しがつきません! どうしても駄目と言うなら——」


セシリアはここで一旦言葉を切り、ごくりと唾を飲んでから再び口を開いた。


「——私に財政を司る権限をお譲りください」


「分かったような口を聞くな! この無能聖女!」


突然扉が開いて、上半身裸の男が立ちはだかった。セシリアの夫でこの土地の領主を務めているクリストファーだ。大きい肩幅にがっちりした体躯をしており、鼻梁の通った顔立ちは、どんよりと淀んだ目つきさえなければ随分人目を惹きつけただろう。クリストファーの背後には殆ど裸の若い女が、心配そうな表情でこちらをうかがっている。


「お前が加護を失ったからこんな事態になったんだろう! 何とかしたければ自分で考えろ! 両親が遺した遺産があるだろ!」


「ですから、それは既に使ってしまいました。もう私の手元にはわずかしか——」


その時、彼女の顔のすぐ横を酒の入ったグラスが飛んできて、背後の壁にぶつかってがちゃんと割れた。


「なら、男に股を広げて金を作ってこい。今のお前にはそれくらいしか価値がないだろう?」


それを聞いたセシリアは血の気がさっと引いた。クリストファーの背後にいる女がせせら笑うのが聞こえる。


「箱入りのお嬢様としてはプライドが許さないか。でも、何もかもお前が招いた結果だ。青薔薇を作れなくなったせいでみんな不幸になったんだ。分かったらその陰気な面を晒すな!」


そう言い残すと、再び扉がバタンと閉まった。その場に崩れ落ちそうなセシリアをマリアが支えようとする。しかし、強靭な精神力で立ち直ると、こわばった笑みを顔に貼り付けて、体裁を保とうとした。


「こんなところを見せてしまって悪いわね。あなたにいつも嫌な思いをさせてしまって」


「いいえ、そんな! 私のことは気遣わないでください! それよりセシリア様が!」


「貯金がまだ残っていたわね。それを堤防の修繕費に回しましょう。すぐに手続きをお願い」


セシリアはどこか遠くを見たまま、しかし有無を言わせぬ空気でマリアに指示した。これが、かつて青薔薇の聖女と讃えられた女性の末路である。

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