23.幻視の姉【白】
どれだけ走ったでしょう。ふだんなら店内を走ってはいけないと常識が働くか、注意してくれる大人が居てあたりまえなのに。
写し鏡みたいに同じ景色を繰り返す、誰も居ない無音の店内。物音ひとつしない無人の世界。
迷子のアナウンスは彼方へ消えた代わりに、すごく遠くまで来てしまった気がします。ぼくらは気も失せんばかり。自分の荒い呼吸音と一人分の足音だけが聞こえる……
そんな中。買い物かごを片手に、頬に手を当てて「うーん、今夜のおかずは何にしましょうか」そんな具合で青果物コーナーの棚をみている女のひとが一人。
澄まし顔で、微笑を浮かべているようにさえ見えます。この異常な状況でたった一人、ふつうに買い物なんかしているなんて、ふつうではありません。
なにか事情を知っているひとにちがいないと確信しました。しかも、その女のひとは鶴見さんと同じようにビジネススーツ姿。違うと言えば、鶴見さんは全身真っ黒のスーツだったのに対して、このひとは全身真っ白、髪の毛も限りなく淡い色合いです。
とつぜん現れた砂地と同じ色で、どうしたって関係があるんじゃないかと思えてしまいます。
「わたしは白河」
彼女はずっとこちらに気付いていたかのようにぼくらを見て、「白河皆未。まあ、偽名なんですが」と名乗りました。そして「……成程、よくできた人形です」と謎めいた小さな呟き。ああ、この浮世離れ感はまちがいなく鶴見さんの同類の方でしょう。きっとこの自称・白河皆未さんというひとも、ヒトの姿をしてはいるけれど人間ではないんだ。
そういえばまた鶴見さんは消えています。まったく肝心な時に居ない、よくどこかにいってしまう首です。
「ここならなんでも揃う。なんでもかんでも切り売り、量り売りしている。あとは好きなものを好きなだけ選べばいい。なにをどれだけ摂取するか選べること、すべては手に入らないゆえに選ばざるを得ないこと、つまり、一定の自由と制限のもとに、あなたがたは身体性を維持するのです」
細い腕でキャベツをごろりと一玉持ち上げ、口の端をわずかに持ち上げる白河さん。
「突然ですが、星をかうならお幾らくらいが妥当に思われますか?」
ぼくらが答えないので、というか答えようもない質問をしたことに気がついたようで、白河さんはこほんと咳払いをしてこう続けました。「星というのは地盤の窪みに落ち込んだ者たちのことを指します。つまりこの場所で、星座のように周期を持ち、特定の座標に位置する者。時空の目印。彼らをかう……つまり所有することは、時空間駆動者にとって、一定のステータスやアドバンテージになるのです」……先ほどの言葉を訂正します。鶴見さん以上に意味がわからないかもしれません。星を、かうなら?
うかつに返事をしてはいけないと思い、ぼくは首のおねえちゃんをもはやぎゅっと抱きしめながら、
「……ぼくら、スーパーや町が今どうなってしまったのか知りたいんです」慎重にたずねました。
あら、と白河さんがすこし大仰なしぐさで、人差し指を顎に当てました。
「黒いスーツ姿のひとが、目眩しや目隠しの魔法を使えるでしょう? わたしも同じように、あなたがたを周囲のひとの耳目からすこし離れたところにお招きしただけですよ。人びとも町も消えてなどいませんから大丈夫」
消えてはいない? なぜ目隠しの魔法を? ぼくらが言葉を失い戸惑う間にも、彼女はつらつらと、楽しげに語ります。まるで舞台上の役者さんのように。
「この砂地はテイル・バルク・マテリアル粉流時帯……砂みたいにちいさな〈物語たりえぬもの〉の集合体です。あなたがたの町に一時的に重ね合わせて発現させています。見ての通りの白砂なので、あまり長いこと浸かるとなにもかも漂白してしまうかもしれませんけど。漂白というより吸収? うーん、上手く説明するのはムズカシイですね。時間の流れを凍らせた状態とでも言ったらいいでしょうか。変な輩がいじったりしたら困りますから」
ぼくはハッとしました。白河さんが手にしている大玉のキャベツが、真っ白に色が抜けていたのです。まさに漂白したみたいに。「完全な無彩色。まあ、白でも黒でもさして違いはありません。因果の抹消、存在の情報が漂白されると、こんなふうに消えてしまうわけですからね」そう言う間にも、キャベツがうっすら透けてゆき、背景と混ざり合って、ついにはどこかにいってしまいました。
どうして、とぼくの代わりにおねえちゃんが尋ねました。「どうして、わたしたちを呼んだんですか」
ぼくはその時、この真っ白なスーツ姿の女のひとの、微笑む唇だけはレンゲの花のような淡い紫色に艶めいていることに気付きました。そう、まるで彼女の笑みは仏さまのよう。
「わたしの可愛い妹、キサナのために」
たった一言、白河さんはそう言って、白いてのひらをおねえちゃんに向かって差し出しました。
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