トモキ・B・グッド
春は期待の季節であるとともに悩みの季節でもある。高校に入って最初の音楽の授業。階段状の教室に集められた生徒たちはどこか浮足立っている。音楽には人と人を繋げる力があります、と三十代くらいの女性の音楽教師が言った。その授業では顔合わせも兼ねて、クラス全員が順番に自己紹介と好きな音楽について話す、ということになった。
相原トモキはまたしても自分の父親を呪った。自己紹介というのは名簿順に行うと相場が決まっている。トモキは中学校三年間で常に名簿順が一番だった。高校に入れば相生さんや相沢さんや相田さんが存在するかもしれないと期待したが、それは儚い望みだった。
「じゃあ、相原君からね」
音楽教師に呼ばれトモキは重たい腰を上げた。五線譜の引かれた黒板の前に足を進める。その間にトモキは高速で頭を回転させた。
好きな音楽、なんと言うべきだろうか。トモキには絶対的な神として崇めるミュージシャンがいる。ロックンロールの父、チャック・ベリーだ。洋楽好きの父の影響で、トモキは生まれた瞬間からオールドロックを聴いて育ってきた。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、そしてその始祖たるチャック・ベリー。
相原トモキです、好きな音楽はチャック・ベリーです、特にあのダックウォークがたまらないんです。自分がはつらつと宣言するところを想像する。クラスメイトのぽかんとした表情が目に浮かぶ。だめだ、きっと誰にも伝わりやしない。チャック・ベリーがジョニー・B・グッドを生み出したのは1958年のことだ。そんな骨董品のような音楽をイマドキの若者が知っているはずがない、と高校生になりたてのトモキは考えた。入学早々に変人扱いをされることだけは避けなければならない。
黒板の前でくるりと振り向いたトモキにクラス中の視線が集まる。はたしてトップバッターはどんな自己紹介をするのか。それによって続く生徒たちのスタイルが確立するのだ。その意味でトモキに寄せられる注目は並み以上だった。トモキは意を決して口を開いた。
「えー、相原トモキです。好きな音楽は、ええと、YOASOBIとか、あいみょんとかが好きです。よろしくお願いします」
トモキがぺこりと頭を下げると同時に、盛大な拍手が巻き起こる。トモキは胸をなでおろした。しかし彼の心には小さなしこりが残った。江戸時代にキリスト像を踏んだキリシタンの気持ちだ。時を遡ってキリシタンたちと杯を交わしたい気分になった。もちろん真面目な中学生だったトモキは酒を飲んだことがない。
自己紹介は滞りなく進んでいった。好きな音楽として挙げられるのは流行りのポップスやロックバンドばかりだった。そして最後の生徒の番になる。彼女は百八十センチに届きそうな長身に腰まで届く長い髪を下ろしていた。
「若林優奈です。これからバレー部に入るつもりです。好きな音楽は洋楽全般です。よろしくお願いします」
トモキのセンサーがぴくりと反応した。洋楽全般、それはあまりに広い言い方だ。まさか日本以外の音楽のすべてを聴いたというのだろうか。せいぜいエド・シーランやジャスティン・ビーバーくらいが関の山だろう。しかしトモキの心に残ったしこりは期待の蕾へと変わった。もしかしたら彼女の言う洋楽全般にはチャック・ベリーが含まれているかもしれない。ザ・フ―やレッド・ツェッペリンも含まれているかもしれない。
それからトモキは若林優奈に話しかける機会をうかがっていた。彼女と話をしてみたくて、チャック・ベリーを知っているか確かめてみたくて、しかし、そのチャンスはなかなか訪れなかった。いや、正確に言えば、チャンスはいくらでもあったのだ。問題は、トモキが極度の人見知りであることだった。特に女性相手ではてんでダメだ。
好機を逃し続けているうちに七月の半ばになった。夏休みに突入すれば話しかけるチャンスは限りなくゼロに近づいてしまう。トモキはなけなしの勇気を絞り出すことに決めた。その日は若林優奈が日直の日だった。教室に残って黒板を拭く彼女に声をかけた。
「あの」
若林優奈は黒板消しを動かす手を止めてトモキを見た。今までほとんど話したことがない相手だ。彼の顔に赤みが増しているのは西日のせいだろう。
「好きな、ええ、洋楽って、どんなのですか?」
トモキはそう言ったつもりだった。しかしその声は絶望的にしどろもどろで壊滅的に呂律が回っていなかった。
「好きな映画?」
だから、若林優奈が正しく聞き取れなかったのも無理はない。
「いや」
「バック・トゥ・ザ・フューチャーかな」
その答えを聞いた瞬間に、トモキはありがとうと言って一目散に教室を駆け出た。若林優奈は頭にクエスチョン・マークを浮かべたが、ほどなくして黒板拭きを再開した。
バック・トゥ・ザ・フューチャー。その映画には主人公がジョニー・B・グッドを演奏するシーンがある。つまり若林優奈はチャック・ベリーの音楽を聴いている。そうだ、彼女はチャック・ベリーが好きに違いない! そしてチャック・ベリーが好きな僕のことも好きに違いないんだ! そうだ、きっとそうだ! トモキの心の期待の蕾は小さな桜の花へと変わった。
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