夏、大人びて

 街の外れの方に、新しい植物園ができたという。郵便ポストの中に、今朝、そのチラシを見つけた。スタッフが色鉛筆で描いたのだろう、デフォルメされた花々のイラストが並んでいた。

 カーテンを開けて、私はベランダに出た。昨日降った雨のせいで、アスファルトがきらきらしている。でも雲はほとんど残っていないし、風もない。少し日差しが強いけれど、素晴らしい日だと私は思った。

「ねえ、植物園に行かない?」と私は七香に声をかけた。

 七香はジグゾーパズルの手を止めて振り返った。

「どうぶつえん?」と七香は言った。七香はいつもゆっくりと喋る。

「動物園じゃなくて、植物園。お花がいっぱいあるの」と私は説明した。

 ふうん、と言って、七香はジグゾーパズルを再開した。

 七香は私の従姉妹で、もうすぐ七歳になる。夏休みの間、両親の仕事が忙しい時に、七香はこうして私の家に預けられる。左右に分かれたの三つ編みは、毎朝ママが編んでくれるらしい。


 市営バスに乗って、私たちは植物園に向かった。七香はほとんど口を聞かず、窓の外をじっと見つめていた。バスを降りるとき、私が右手を差し出すと、七香はそっと、私の手を握ってくれた。

 到着してみると、その場所は拍子抜けするほどに空いていた。街の外れにあるからかもしれないし、今日は日差しが強いからかもしれない。日傘を持ってきて正解だったと、私は思った。

 手を繋いだり離したりしながら、植物園を散策した。植物園というより、花の多い市民公園と言った方が良いかもしれない。それでも、草花の甘い匂いがした。

 七香は、子供向けのおもちゃのスマートフォンを持っていた。それを使って、花の写真を撮って回っていた。バスに乗っていた時よりも機嫌が良くなったのか、あとでママに写真を見せるんだと言っていた。

「あれ、七香ちゃん?」

 声をかけられたので振り向くと、大柄な女性が立っていた。身長が百八十センチくらいありそうだった。

「やっぱり七香ちゃんだ、久しぶり」

 女性は七香の正面で、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。歳はたぶん四十歳くらいで、茶色に染めた髪をベリーショートにしていた。七香は持っていたスマートフォンをポシェットにしまうと、

「ゆか先生、ひさしぶり」と言った。

「七香ちゃん、背が伸びたんじゃない?元気にしてた?」とゆか先生が聞くと、七香は「うん」とだけ答えた。

「お母さん、お久しぶりです」と、ゆか先生は今度は私に向かって言った。

「どうも」と私は言った。

「どうです、小学校は慣れました?」

「ええ、先生方も良い方ですから」と私は言った。

「そうですか、あそこの先生たちはベテランが多いですからね。でも何かあったら、いつでもご相談くださいね」

 彼女はにこにこしながらそう言った。ありがとうございます、と私は言った。

「今日は暑いですね」と彼女は困ったように言った。

「昨日が涼しかったですから、余計に」と私は言った。

「でもお母さん、えらいわ。ちゃんとお子さんと外に出かけていて。最近は、家にこもりっぱなしのご家庭も多いみたいで」

「いえ、そんな」

 しばらく世間話をしてから、私たちはゆか先生と別れた。仕事の話を聞かれたので、ぼちぼちですねと答えておいた。

「幼稚園の先生?」と私は七香に尋ねた。「うん」と七香は言った。それから、

「わたし、あの先生きらい」と言った。

「そうね、私も嫌い」と私も同意した。

 だって、私は七香のママじゃない。それどころか、私はまだ高校生なのだ。まったく、失礼なおばさんだと思った。

 でも、私は日傘をさしていたから、彼女は私の顔が見えたなかったのかもしれない。


 お昼を回り、本格的に暑くなってきたので、園内にある小さな食堂に入った。カレーライス、冷やし中華、おそば。券売機を見ると、子供が喜びそうなメニューはだいたい揃っていた。

「七香は何にする?」と私は尋ねた。

 七香はじっくりと券売機を観察したあとで、

「これ」と言ってボタンを指差した。かき氷だ。

「おなか空いてないの?」

「うん、すいてない」

「そう。ママには内緒だよ」

 七香のかき氷と私の冷やし中華は、すぐに出来上がった。かき氷は七香の顔よりも大きかった。シロップはイチゴ味だ。

「小学校はどう?」冷やし中華を食べながら、私は七香に聞いた。

「まあまあ」

 七香はそう答えた。まあまあ。小学一年生にしては大人びた答えだ。彼女は一杯ずつ丁寧に、かき氷を口に運んでいる。食べきる前に溶けてしまいそうだった。

「まあまあか、そりゃ良いね」と私は言った。

 私たちのほかに、お客さんは一組だけだった。空調のおかげで、室内はずいぶんと涼しい。家に帰ったら、課題をやらなきゃと思った。八月は部活が忙しくなるから、夏休みの課題は七月中に終わらせたかった。

 私が冷やし中華を食べ終わるころ、七香のかき氷は溶けてみぞれみたいになっていた。飲んじゃないなよ、と私が言うと、七香はようやくスプーンを置いて、残りのかき氷を飲み干した。シロップのせいで、唇がリップをつけたみたいに紅くなっていた。私はそれをティッシュで拭いてやった。

「ねえ、しおいちゃん」と、七香が私を呼んだ。

 私の名前は栞だけれど、七香は「り」をうまく発音できないので、私のことを「しおいちゃん」と呼ぶ。口元を拭いたティッシュを畳みながら、なあに、と私は言う。

「本当は、しおいちゃんがわたしのママなの?」と七香は言った。

「え、どうして?」私は少し驚いてそう言った。「私は七香のママじゃないよ」

「だって、ゆか先生とおはなししてたとき、ママみたいだったから」

 そう言われて、私は納得した。

「あれはなんとなく、向こうが私を母親だと思ったみたいだから、否定するのが面倒だっただけよ」と私は言い訳をした。

「ママが、おとなの人はうそをつかない、って言ってたよ」と七香は言った。

 私はなんだか責められているような気分になった。

「でも、七香だって私のことを従妹だって言わなかったじゃない」と私は言った。

「わたしはまだこどもだもん」

 七香はそう言うと、空になった紙容器を捨てに席を立った。そりゃずるいよ、と私は思った。私はまだ高校生なんだ。私だって子供なんだ。

 食堂を出ると、壊れたテープみたいに蝉が鳴いていた。私たちはバスに乗って帰ることにした。


 いつか大人になったら、自分の子供を作ろうと思う。ちゃんと恋愛して、ちゃんと結婚して、ちゃんと子供を作ろうと思う。できれば女の子がいい。いや、別に男の子だってかまわない。とにかく子供を作って、また植物園に来ようと思った。


 日が傾く前に、最寄りのバス停に着いた。おなかが空いたと七香が言うので、目についたコンビニに入った。フランクフルトを二本買って、食べ歩きながら家に帰った。ママには内緒だからねと、私は念を押した。

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