第2話 孤立

 その日、私は会社を辞めた。

「お世話になりました」

「あぁ、お疲れ」

 上司は、目も上げず形ばかりの言葉を返す。

 私は一つ礼をして、三年間お世話になった職場を後にした。


「あ、伊部」

 資料室の前を通り過ぎようとした時、それは聞こえて来た。

千財せんざいさん、池逗いけずさん。それに……)

「……」

(……武森たけもりさん)

 フロアのリーダー格、千財さんは蔑んだ眼差しをこちらへ向ける。

「そういえば伊部、今日で辞めるんだっけ?」

「送別会でもするぅ?」

「まさか」

 池逗さんの言葉を、千財さんは言下に否定する。

「伊部と一緒に食事とか無理じゃない?」

「だよねぇ」

 小柄な池逗さんが狡そうに笑う。

「絶滅したオスと原始的な繁殖がしたいとかぁ、その感性が無理ぃ」

 二人は露骨に私へあてつけながら、聞こえるように会話している。

(くっ……)

 私は足早にその場から去ろうとした。

 しかし千財さんは逃さぬとばかりに声を荒げる。

「武森! あんたも言ってやりなよ! あんたはあいつの被害者なんだからさ!」

「……」

 振り返った先、武森さんはうなだれていた。

 髪がのれんのように横顔を覆い、その表情は見えない。

 やがて

「……いいよ、もう」

 ぽつりと零れたのは、無機質な声。

「武森! だってあんた、伊部に振り回されて……!」

「……関係ない!」

 武森さんの声は小さく震えている。

 横顔を覆う髪の向こうから雫が落ちるのが見えた。

「……っ、ごめんね!」

 いたたまれず、私は叫びその場から駆け去る。

「最低!」

 千財さんの鋭い怒声を背に受けながら、私は会社を後にした。



(また、ここに来ちゃった……)

 私は区画D――自然保護区へと足を踏み入れる。

 目の前に広がるのは、夕日に染まる草原。

 そこかしこに樹が生い茂り、花が咲き、穏やかな音を立てて川が流れている。

 甘い風がふわりと私の髪を揺らした。

(気持ちいい……)

 目を閉じると、虫の羽音や動物の鳴き声が耳に届く。

 新鮮な草のアロマ。

 鼻先をかすめる気配に目を開くと、テントウムシが飛び去って行くのが見えた。

 遠くでは鹿の群れが移動している。

「はぁ……」

 一つ息をつき、草むらに腰を下ろす。

 その瞬間、じわりと視界が歪んだ。



 ――武森! あんたも言ってやりなよ! あんたはあいつの被害者なんだからさ!

 千財さんの言葉がじくじくと胸を苛む。

 けれどそれ以上に堪えたのは、武森さんの涙だった。

 ――……関係ない!

(ごめん、武森さん。ごめんね……)


 私と武森さんは数日前まで恋人だった。

 仲睦まじい私の二人の母のように、温かい家庭を作ることを目指すパートナーだった。

 でも、駄目だった。

 私は彼女を、どうしてもそんな対象に見られなかったのだ。

(武森さんはあんなに思いやりのあるいい子なのに……)


 私は昔からこの女だけの世界で、女に恋愛感情を抱くことに違和感を持っていた。

 それよりも、なぜかとうに絶滅した「男」に心惹かれた。

 人類史の本によれば、男という生物は女よりも体が大きく力が強く、ゆえに力づくで物事を解決する傾向があったらしい。

 体は筋肉質で固く、胸は平坦、全体的にごつごつとしている。

 その声は地の底から響くほど低く、女に恐怖を抱かせるものだったとか。

 授業でそう教えられた時、クラスの子たちは揃って顔を歪め悲鳴をあげた。

 しかし、私は恐怖よりも興味の方が上回った。

 一度見てみたいと。

 それから私は、「男」に関する記録を読み漁った。

 だが、その行為は周りの人間の目には奇異に映ったらしい。

 時が経つほどに、友人と呼べる人間は一人、また一人と去って行った。

 私の異様な行動には両親も頭を抱え、気付けば私は地域で孤立していた。


 そんな私に手を差し伸べてくれたのが、武森さんだった。

 彼女は私の噂を知りつつも、好意を寄せてくれた。

 私の知識を誉め、研究する姿勢に敬意を示してくれた。

 そんな彼女に、私も自然と心惹かれて行った。

 手を繋ぎ、ハグをすると、心の奥から甘いぬくもりが湧きあがる。

 これが愛し愛されることだと感動を覚えた。

 彼女なら愛せる、永遠を誓うパートナーになれる、確かにそう思ったのだ。


 けれどそれはハグまでだった。

 キス以上のことをしようとすると、私の体は拒絶反応を起こす。

 大好きなのに、大切なのに。

 やがて私は彼女に別れを切り出し、関係を解消するに至った。


 私の変人っぷりが原因で孤立することはあっても、暴力や迫害を受けたことはこれまで一度もなかった。

 それは文明レベルの低い者のすることであり、恥ずべき行為とされていたからだ。

 けれど武森さんを傷つけたことで、会社の人たちは私を白眼視し始めた。

 献身的に愛を注ぐ恋人を傷つけ、絶滅した前時代的な生物を選ぶ、頭のおかしい人間だと。

 その空気に堪えられなくなった私は、ついに今日会社を辞めた。

(私だって、普通に生まれたかった……)


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