十章 邪悪なる神

第46話 幼き蛇



 セルペンスプエル——

 幼き蛇の名を持つ神。

 ドラコレクスより、リーリウムレギーナより、はるか昔の極管理者で、堕ちた、という事実しか、もはや伝わっていない。


 レクシアを徘徊した竜の影のように、分身が一時的に魔物と化したと言った状況ではなかったらしい。本体が邪に走り、存在を悪に堕としたというのだ。


 コルヌレクスがドラコレクスの魂の記憶を右目に刻まれて、その意思を引き継いだように、極管理者は次の相手へ、自身の存在した証を残す。


 だが、セルペンスプエルは邪神となり、次の極管理者であったレオレクスとの激しい戦闘のすえ、滅ぼされた。魂を受け継ぐ者がいなかったため、その心は時の虚空をさまよっているという。


「あれは歴代の神のなかで、ゆいいつの汚点。失敗作だ。その名を口にするも厭わしい。女王レギーナの威厳もフィーリア《王女》の清廉も持たない。王族どころか貴族の称号さえあたえられなかった卑しい者だ」

「おまえらの言いぶんなんて、どうでもいい。あたしは蘇らせる。それだけのことだ」


 人蛇がつめよる。


「その体をよこせ」

「絶対に渡さない」


 コルヌの命が奪われたのは、それだけの理由があった。しかし、魂が去ったあとの肉体まで邪神にもてあそばれるいわれなどない。


「今こそ、聞け! 堕ちし神の嘆きを。わが友。わが神がため。捧げる吟遊詩人キタロエドゥスの声を!」


 ケルウスは歌う。


「亡き友よ。わが声の届くかぎり、そなたの魂にやすらぎを。角の王よ。わが友を御身が箱庭の花とせよ。永遠に穢れなき花の一輪となりて、その物語を語れ」


 竪琴はケルウスの願いにこたえ、これまででもっとも強く、雄々しく、それでいて切なく響いた。


 人蛇はたじろいで、あとずさる。だが、ノクス王のときのように、かんたんには倒れない。歌声に逆らい、牙をむいて、とびかかってくる。

 ケルウスの全身に、人蛇の裂いた傷が無数にできた。血が流れる。


 それでも、ケルウスは恐れない。

 アクィラは魔法生物を害する竪琴の力が、ケルウス自身の能力だと言った。アクィラはその体現するきっかけを作っただけだと。

 ならば、ケルウスの心構えしだいで、その力はいかようにも増すはずだ。魂をこめて、さらに弦をかきならす。


「神の世の神の庭の花の話。とこしえに咲きほこる一輪の花の語る。その物語」


 歌が目に見えて踊りだす。

 幻視者のケルウスには音階が精霊となって、人蛇を正の力でおびやかすさまを見た。死体からできた人蛇は、ぶるぶるとふるえ、崩れていく。


(セルペンスは名前が邪神と同じだったばっかりに、人蛇の材料にされたのだな)


 言霊で縛りやすかったのだろう。しかし、ケルウスの音楽の前にやぶれさる。

 人蛇が塵となり、ケルウスは安堵した。とは言え、ウンブラ自身の気配はまだ近くにある。


「やっぱり、そのへんの材料で作ったできあいじゃ、大した力は出せなかったわね。あたしも本気を見せようか」


 どこからか呪文を唱える声がブツブツと聞こえる。長い呪文だ。そうとう大きな魔術なのだ。


 ケルウスたちのまわりが青白く輝いた。コルヌの遺体をかかえるケルウスの周囲が……。


 同時に、大地の底から圧倒的な力の奔流が近づいてくる。全世界をゆるがすほどの魔術の波動。


(これは——)


 あのときの力だ。後宮でそこにいるすべての者の欲望を吸収し、凝固した魔力のかたまり。あの力が今、解放されようとしている。


(邪神を復活させる気か!)


 ウンブラの呪文が高まる。魔術の波動も。やがて、その力は極限まで膨張した。


「わが神。セルペンスプエルよ! 御身が魂、かの器にて蘇れ!」


 変化の魔法が一点に集中する。恐ろしいほど膨大な力が、ひとところに凝った。コルヌの肉体へ。


 イヤな感じがする。

 まさかと思いつつ、ケルウスはコルヌの閉ざされた双眸を見つめた。銀色の長いまつげに覆われたその瞳。澄んだ水色の瞳がひらくことは、もう二度とないはず。いや、あってはならない。どんなに愛しくても、それはすでに生命を失った身体にしかすぎないのだから。


 だが、見つめていると、瞳がひらいた。水色のなかに薄紫のグラデーションが複雑にからみあった宝石のような瞳。その左目がケルウスを見つめる。

 一方で、眼球を失っていた右目は赤く光っていた。白目の部分が黒く、虹彩が赤い。妖しい。どう見ても邪悪だ。


「コルヌ……?」


 ニヤリと、ソレが笑う。

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