第2話 娼館のコルヌ



 地の底から響く、うめき声。

 そして、背筋を這いあがる気配。何者かが空気をゆるがしつつ、近づいてくる。

 サク、サクと雪をふむ足音がする。


 マズイ。見つかれば、ただではすまない。その姿を見ただけで気が狂うかも?


 だからだったのだ。この村の連中が早々に戸口をしめきったのは。

 コイツに遭遇するのを恐れていた。家のなかにいれば、安全なのだろうか? きっと、そうだ。それで街路から家のなかへ入れないよう、スキマというスキマをふさいだのだ。


 ここで死ぬのか?

 ああ、せめて、竜を見たかった。今や伝説のなかでしか存在しないもの。大いなる神を。


 すると、そのときだ。とつぜん、頭上の鎧戸よろいどがあいた。そして、ケルウスのマントをつかみ、なかへひきいれようとする。


「何してるんだ。ほら、急げ。死にたくないだろう?」


 若い男の声だ。ささやくように叱責する。

 ケルウスは言われるがまま、窓のなかへ入りこんだ。ほぼ同時に鎧戸が閉まる。


「あんたは——」

「しッ」


 口をふさがれた直後、窓の外をあの気配が通る感覚があった。鎧戸がビリビリと振動する。外にいるが、こっちを見つめている。さっきまで、そこにいたはずのケルウスを探すように。その気配が空気を通して伝わってくる。


 凍りついたまま、が通りすぎるのを待った。数分もして、ようやく、それは立ち去る。振動がなくなり、すうっと空気がかるくなるので、すぐにわかった。


 それでもしばらく、ケルウスは呆然としていた。我に返ったのは、どれくらい経過してからか。


「ありがとう。助けてくれて。あのままなら、たぶん、殺されてた」

「だろうね」


 そこはせまい一室だ。とはいえ、この村のなかではけっこう広いほうに違いない。田舎家に不似合いな、やけに豪華なベッド。ベッドサイドに姿見。ランプのシェードも洒落ている。


 あらためて、男を見た。ランプ一つの明かりで見てもわかるほど、とびぬけて端麗なおもざし。あまりに美しいので、最初、女かと思った。だが、声は男だし、女にしては背が高い。胸も平らだ。それにしては、女の着るようなロングのローブをまとっている。


「……」


 なんとなく、ここがどこで、彼が何者なのかわかった。


「では、おれはこれで……」


 ケルウスが早々に退室しようとすると、彼が袖をつかんでひきとめる。


「ちょっと待った。ここを表から出るには金がいるよ。朝までこの部屋にいて、窓から出ていけば?」

「……」


 金がかかる。まあ、そうだろう。たぶんだが、この家は娼館だ。しかも、彼が客でないなら、男娼を集めた色子宿。色子というには、彼は年齢が高い気もするが。しかし、絶世の美貌ではある。白銀に近いほど淡いプラチナブロンドに、紫色の濃淡がまざった水色の瞳。惜しむらくは、右目を隠している眼帯だ。黄金細工が精緻せいちなので、あるいは飾りなのかもしれない。


「今日は客はいないのか?」と聞くと、彼は肩をすくめた。


「もう何ヶ月も、宿は客を入れてない。夜は危険なので」


 聞きたいことが多すぎる。

 しかし、ここはふつうに名前から聞いた。


「おれはケルウス。あんたは?」

「コルヌ」

「コルヌ? それは古くから伝わる神の名だ」

「そうかもしれないね。私はこれでも生まれたときの身分は高かった」

「じゃあ、これも、そのころの装飾品か?」


 ケルウスは長い指を伸ばし、コルヌの右目をおおう金の眼帯をはずした。コルヌレクスは片目にきわめてまれな特徴があるという伝説が流布しているので、神をきどっていると思ったのだ。だが、その下から現れたのは、ぽかりとあいた眼窩がんかの黒い穴だ。完璧な美貌のなかでは残酷なほど痛ましい。


「……すまない」


 眼帯を返すと、コルヌはしかし、落ちついた動作でそれをつける。


「誰かに見られたのは初めてだ。責任をとってくれ」

「というと?」

「一晩、私のとなりにいて、話し相手になってほしい」

「どうして?」

「退屈だから」


 まあ、そのくらいはいいだろう。


「言っておくが、おまえがどれほど美形でも、男を抱く趣味はないからな?」

「私の客の多くはご婦人だよ」

「ああ、なるほど」

「ここは神殿へいたるまでの宿場町だから、観光客が多いんだ。お金持ちの貴婦人を一晩楽しませてあげれば、一年は遊んでいられる」


 コルヌの美貌なら、それも可能だろう。


「一度しか聞かない。その目はどうしたんだ?」


 センシティブな質問だが、コルヌは答えてくれた。


「子どものころ、事故にあって」

「災難だったな。もちろん、今でも充分、美しいが」


 それにしたって、右目が健全なら、それこそ王侯にだって寵愛ちょうあいされるだろうに、美貌にきずがあるばかりに、こんな僻地で旅人相手の商売だ。彼の人生には同情する。


 ケルウスが眼帯の上からコルヌの頬をなでると、彼は残された左目をそっと閉じた。薄紫色の瞳が隠れると、まるで彫像のようだ。


 ケルウスはなぜか、居心地が悪くなった。コルヌはそのつもりはないのだろうが、ふとした仕草が強烈に人を惹きつける。男を抱く趣味はないと言いながら、籠絡ろうらくされそうで、うろたえた。


「それより、これがもっとも重要な質問だ。さっきのアレは、なんだ?」

「ああ、アレ」


 この村で何が起こっているのか?

 あのおぞましいものの正体は?

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