1-2
「ですが、どうしても。僕の願いを叶えるには、穂白様が必要なのです」
その行動は少なからず穂白の困惑を誘った。
自分の館で他者に跪くというのはかなり屈辱的で矜持が傷つけられるものだ。そこが立派なものであれば尚更。しかし男は易々と、封印から解いて出会ったばかりの災厄の権化に捧げてみせた。入室時から腰に剣のひとつも佩かず、穂白の錠まで解いて。
自分の領域だからと高を括っているのか。目的のためであれば手段を選ばず危険も顧みない性質なのか。それとも、なにを失ってでも叶えたい切望があるのみなのか。
先までの軽薄な振る舞い、目の前の敬虔で神妙な懇願。この男は演じることに慣れているように見えるからこそ、どの可能性もあるように思える。底が見えない。分かることといえば、どんな願いを抱えているにしろそのために厳重に封印されていたものを解いてしまう天碧という人間は少なからずまともではない。
「ここ、花樹国よね」
穂白は自由になった手をついて、そっと寝台から上体を起こした。
「どうして、そうお思いに」
「私が元の場所に帰してって言ったとき、あなたは花樹国内にある場所しかあげなかった。それにそこの机に飾られてる青の鈴蘭も少なくても大陸内では花樹でしか咲かないもの。他にも部屋の作りとかがいかにも花樹らしい」
「さすがですね」
寝台のふちに座るように足を下ろして、腕を組み、穂白は天碧の旋毛を見下ろす。
「私はこの国で極刑が下された存在、災厄の穢れ姫よ。その封印を解いたことがもし誰かに知られれば——」
「そんな俗称はあなたに相応しくない」
天碧は
「あなたはこの世のなによりも、清く、気高く、美しいのだから」
この期に及んで大仰な甘言を叩く口はため息ひとつで無視して、穂白は続けた。
「私が封印されてから、まだ十年しか経っていないんでしょ」
「もう、十年ですよ」
「その間によっぽどなことが起きていなければ私を知って恨んでいる人間はきっとまだ数多く生きているはず」
「たしかにあなたが王都に足を踏み入れれば、きっとすぐに気付かれるでしょうね。封印されていた故か、あなたの体はあの頃のままですから。ひとつだけ、変わられたところもありますが」
穂白は瞬いた。霊力が巡らないことを除いたら自分の体に変わったところを感じていなかった。
「かつてのあなたは絹のような白髪でしたが、今のあなたは濡羽のような黒髪です」
言われて自分の髪をひと束手に取ってみると、たしかに真っ黒に染まってた。文献も事例も見聞きしたことはないが、封印されると髪の色が変わるものなのだろうか。自分の容姿にこれといったこだわりはないから別に構わないのだけれど——それにしても、今の天碧はまるで封印される前の穂白をみたことがあるような物言いだった。
天碧を顔を合わせてから今に至るまで、穂白は彼に既視感のひとつも覚えていない。もし自分が知っている誰かが来たら嫌だなと危惧していたから、その点においては実は密かにどぎまぎしていたし、予想が外れてほっともしていたのだが。
天碧がただ一方的に穂白を見たことがある可能性は十二分にあるし、もし仮に面と向かって対峙していたとしても十年は前のこと。穂白と会ったときの彼はまだ幼い子供だったに違いなく、男子三日会わざればなんとやら、記憶に引っかからないのも無理はない。どこでどんなふうに会ったのかを聞けば思い出せるかもしれないけれど。
「……とにかく、私を解放したことを誰かに知られたらあんたは確実に重罪を課せられる。それは分かっているでしょう」
疑問は喉の奥へ飲み下した。自分の頭の中で過去をなぞるのでもかなり苦いものがあるのに、客観的な自分の過去を語られたらもっと複雑な気分になる予感がした。
「そうまでして叶えたいあなたの願いってなに」
天碧は自分の願いを叶えるためには〝どうしても穂白が必要〟だと言った。
そこにあるのが征服や報復といった黒々とした類のものならば、必ずしも穂白を召喚する必要はなかったのではないか。たしかに花樹国の歴史から見れば穂白はそれなりに悪名高いだろう。十年経った今、どのように解釈され伝えられているかは分からないけれど、国を大いに傾けた自覚はある、歴史書に名を連ねていてもおかしくはない。そんな悪人を利用しようというのはなくはない発想だろうけれど、しかし穂白を解放するだけの霊力を持っているのならば、式神なり霊魔なりを呼ぶこともできるはずだ。それらであれば強力なうえに正しい手順を踏んで降伏させれば明確かつ厳重な主従を結ぶこともできる。使い勝手も確実性もそちらの方が高いに決まっている。
しかし、天碧は穂白を選んで解放した。どうしても穂白が必要になる事態として思い当たるものがあるとすれば。
「どうしても穢れを除いてほしい人でもいるの」
身内か愛する人でも穢れに侵されたのか。金や能力でも及ばない事情が生じて、藁にもすがる思いで穂白を起こしたのか。
もし、そうなのであれば。
それぐらいであれば。
それでまた封じてくれるのならば。
天碧はおもむろに面を持ち上げた。
「穂白様は、やっぱり、美しいですね」
穂白を仰ぐとその瞳をそっと細めた。春の草原のようにやわらかな翡翠が穂白を捉えて反射した。
「穂白様が憂いてくださったような事態は発生しておりませんので、どうかご安心を」
「穢れを除いてほしいわけじゃないってこと?」
「はい。ですが、穢れ絡みではありますね。穂白様にお力添えいただきたい祓穢事がありまして」
「国から厄介な依頼が来ているのです」
「は?」
「あなた様なら、それを解決に導くための灯火を照らしてくれるのではないかと思うのです」
なにを言っているんだこの男は。
つい先に穂白を解放したことがバレたら天碧には重罪に課せられるだろうという話をしたばかりなのに、あろうことか穂白を国絡みの祓穢事に連れ出し手伝わせようとしているのか。そもそも厄介な依頼の手伝いを要請するために穂白を解放したり跪いたりするものか、本気なら愚かを通り越していっそ呆れる。この男の本当の願いは一体どこにあるのか、底にあるものがちっとも読めない。
「もちろん穂白様にお手伝いいただくからには、僕のすべてをあなたに捧げます」
ふいに足にひんやりとしたものが触れた。見れば、寝台から降ろしていた穂白の足を天碧が手に持っていた。
「僕にとって至上の不幸は、あなたが損なわれること。天地神明に、そしてなによりも尊いあなたに誓いましょう。この身のすべてを賭けてあなたをお守りすると」
そして天碧は穂白の足の甲にそっと唇を寄せた。
熱く薄い皮膚の感触を受けながら、穂白は流れるように出る甘言や仕草に一周回って関心すら覚えた。
もしかしたら普通の少女であれば胸の高鳴りのひとつぐらい覚えるものなのかもしれないが、あいにく穂白は異性に対してそういった感情を覚えたこと自体がなかった。幼い頃は女手ひとつで弟を育てながら祓穢を目指すのに必死だったし、祓穢になってからも不浄や穢れを祓い除くために各地を奔走していた。母数が決して多くはない祓穢は常に多忙なのだ——同僚の中には恋愛を楽しむ人はいたし話を聞くこともあったから、単純に穂白がそういったものに興味がなかっただけと言うものあるのだろうけれど。
手足の錠が外れ、時間も経ち、霊力が巡りはじめた感覚がある。穂白の封印を解いたから霊力がすっからかんだという天碧の発言の真偽がどうあれ、一瞬の隙を作るぐらいなら難でもないしそれで脱走できる自信もある。
だが脱走したところで、自分で自分を封印する術なんてのは見聞きしたことはないし、調べるにしたって確実に時間はかかるし文献は大概人の手によって管理されている、誰かに見つかる危険がある。ならばと封印術が使える有能な祓穢を探し当たったところで再封印してほしいなんて要望は信じてもらえるかどうか怪しいところだ。穏便にいかない可能性の方が高いだろう。
無駄な争いをせず、少しでもこの世界への滞在時間を短く済ますためには。
「本当に、誓えるのね」
「もちろん」
穂白がぱちんと指を鳴らせば、そこに小さな白い光輪が生まれる。
「——ひとつ、あなたの行いに祓穢としての意思が見受けられなかった場合。ふたつ、あなたが悪意を持って無辜を傷つけた場合。みっつ、あなたからの依頼を達成した際にあなたが私の望む報酬を齎さなかった場合」
「誓約術ですか」
「このみっつを守ると誓約するのであれば、私はその祓穢事を手伝ってあげる」
「もちろん喜んで誓約いたします」
尋ねるより先の、即答。
「あなたがもしどれかひとつでも条件を破ればこの指輪は鋭利な刃となりあなたの指を切り落とすわよ」
「ええ、もちろん、構いません。むしろ、あなたとの誓約を破って指ひとつなんてのはあまりに安すぎるように思われます」
「……」
「それに、術といえど穂白様から指輪をいただけるなんて。至極光栄の極みです」
本当にこの男の口は達者なものだ、と穂白は目を眇めた。
「……よっつ、胡散臭い言葉を私に向けないこと」
「どれも本心からの言葉なのですが」
「その言葉がもう胡散臭いし、ですますやら穂白様やらも聞いてて疲れる」
天碧はひとつ瞬き、そっと眉尻を下げた。
「穂白様のことを呼び捨てろということですか」
「あなた普段から誰も彼もに様をつけて敬語で喋る性質なの」
「……穂白が、それを望むなら、そうするよ」
先までの流暢な喋りが驚くほどになりを潜めぎこちない。なにがそんなにやりづらいのかと不思議に思っていると、「でも」と天碧は言葉を続けた。
「穂白への思いを伝えるのを制限するのだけはどうか勘弁してもらえないか。胸の中で溜まり溢れ爆発して死んでしまう」
「言ってろ」
「本気だよ」
そう言う天碧の顔はまるで捨てられた子犬のようだった。どこからかくぅんという切ない鳴き声が聞こえてきそうなほどの哀愁が漂っていて、こちらが悪いことをしているような気分にさせられないこともない……本当に、自分の顔を理解しているというか、表情を作るのがうまい人だ。
「……じゃあそれだけでいいわよ。よっつ、私にうざやったい敬語と敬称を使わないこと」
「ありがとう、穂白」
すっかり元の調子を取り戻して微笑んだ天碧は、穂白の方にすっと左手を差し出してきた。指輪を嵌めやすいようにという気遣いか、きっちり五指を開いている。
穂白が指輪を持った手を動かせば、それが自身に嵌められる瞬間を心から期待しているかのような煌めいた眼差しで追ってくる。
一見はまるで子供の指輪交換。現実は指一本を賭けた誓約。
そこの見えない天碧の望みと少しでも早く再封印されたい穂白の望みの折り合いとして仕方なくこちらから提案したことではあるけれど、それにしたってあまりに躊躇いがなく好意的な様子になんともいえない気持ちになる。
指が切り落とされたところでどうにかなる算段でもあるのか。それとも穂白が掲げた条件を絶対的に守る自信があるのか。
——願わくば、前者の事態にならないでほしいけれど。
このにこにことした男の腹の底にあるのがもし、悪意だとしたら。きっと穂白は公衆に身を晒さざるを得ないし、そうすればきっとあの苦痛が再演される。もう二度と味わいたくない、思い出したくない、それでもふとした瞬間に蘇る、世界のすべてが敵になった光景。笑ってしまいそうになるほどの諦念。誰も自分を信じてくれなかったから、自分も自分を信じられなくなった。それでも唯一永遠に信じ愛せるたったひとりの肉親、どうか弟だけは平和にすこやかにこの世で過ごせますようにという祈りを胸に、かつての穂白はこの世界を後にした。
——弟は今どうしているのだろう。
穂白が祓穢になったときに一緒に王都に出てきた。特待で祓穢の教育機関に入ったこともあり祓穢寮内の空き部屋に居候させてもらってそこに弟も一緒に住んでいたが、穂白が封印された後は追い出されてしまったに違いない。自分のせいであの子に辛い思いをさせてしまったに違いない。それでもあのやさしい師があの子を見捨てずにいてくれていたら。守り育ててくれていたら、無事に大人になってくれていたら。
どうせこの世界に戻ってきてしまったのならばたしかめたい気持ちはあるけれど、探し出すのは難儀だろうし気軽に探しに行けるような立場でもない。
——この男に言えばあの子の情報か、もしくは居場所を突き止めて教えてくれるだろうか。
……いや、絶対に駄目だ。穂白の故郷である辺境の村の名前まで知っているくらいだ、穂白に弟がいることぐらい知っているにだろう弟が生きていてくれたら、この花樹国にいたら、天碧は彼の居場所を把握しているかもしれない。気にしている様子を軽率に見せれば、いざというときに利用されるかもしれない——あのときみたいに。
苦い記憶を潰すように奥歯を噛み締めながら、穂白は天碧の中指に光の輪を嵌めた。
根元まで通せば、光は一際眩く煌めき、それから天碧の白い手に溶け込むように透明になり消える。
「誓約成立ね」
「ああ。なにがあっても穂白を守るよ」
「そんなのは誓約内容に含まれてないけれど」
「これは僕からの穂白に対する宣誓だよ」
天碧は光を受け入れた中指にそっと唇を寄せた。
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