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(その穢れ姫を今更呼び起こすなんて、どんな悪者か、愚者なのか)

 穂白が目を眇めてため息を吐くと、部屋の扉のそばに立つ少女が肩を震わせた。

 あの日——穂白は封印されてからずっと、穂白は孤独で静かな微睡と覚醒の間をひたすら揺蕩っていた。これからもそれが延々続くと思っていた。

 しかし、そこに突然光が差し、目を覚ますと映ったのは——赤紗の天蓋。

 ぱちりと瞬いてこんな世界でも夢を見れるようになったのか、見れるようになってしまったのかと半ば絶望したのは束の間、手首足首にひんやりとした硬質、背にやわらかな弾力を感じた。

 ぐるりと視界を巡らせてみると、穂白は自分がどうやら広々とした寝台に横たわっているらしいこと、そして手首足首には鉄製の錠が嵌められていることに気づいた。

 試しに手を振ってみればしゃんと音が鳴って、そのときから既に扉のそばに佇んでいた少女が「お目覚めになりましたか」と声を掛てきた。おずおずとした様子、引っ詰めの髪型、黒の衣に白の前掛け、赤紗越しでは表情までは分からないがそれでも透けて見える情報から、おそらく彼女は監視を命じられた侍女なのだろうと瞬時に推測し、穂白はこう言った。


「今すぐ私を呼び出したやつを連れてこい。さもなくば、この屋敷に関わる全ての人間をすべて末代まで呪ってやる」


 実際そんなことできはしないのだけれど。

 声を低めて全力で圧を込めて言えば、少女はひぃっと情けない声を上げながらも、


「わ、私がご主人様から授かった使命はあなたの目付なので……何があっても目を離してはならないと言われているので……!」


 と、扉の前から動こうとしなかった。

 だが、そもそもとして穂白が目覚めたら穂白を呼び出した者——彼女のご主人様とやらに伝えるようにも用命されていたらしい。少女は穂白との会話後すぐに扉の向こうに声を掛けた。そこにも使用人が控えていたのだろう、少女の言葉を受けると、とっとと走って行く音が聞こえたのだが……それからもうずいぶんと時間が経っている。

 先の脅しもあいまってか、穂白がため息を吐くたびに少女は今にも災いが降るのではないかと恐れるようにびくつく。それでも決して職務を放棄しないあたり、彼女は気弱に見えて意外と肝が据わっているのか、それともご主人様とやらはよほど凶悪なのか、逆に非常に人望が厚かったりするか。

(私の封印を解いている時点でろくでもないやつなのはたしかだけれど)

 天蓋の紗の向こうに机や書棚が見える。まるで誰かの私室のようだが、穂白がかつて弟と二人で暮らしていた家屋が丸ごと入りそうなほどに広く、家具もひとつひとつが質良い。そもそも二人以上の使用人を雇えている時点で、ここの家主もとい穂白を呼び出した人間はそれなりの富豪と窺える。

(それに霊力や術にもかなり長けている)

 せめて足の錠さえなければ自分の眠りを突然に覚ました不行儀者を見つけ出して脅してでも再封印を命じれただろう。だが、長い封印から目覚めたばかりだからか体にうまく霊力が巡っていないうえ、穂白に掛けられた錠には重度の霊力封じの術が施されていた。どのみち壊すのは難儀だっただろう。

 富豪で、穂白の封印を解いたり重度の術も扱える、中身は一体どのようなものなのか。人間というのはその身に抱えたものや手に入れたものの重さに比例して歪みが生じる節がある。端的な例では、穂白が知る限りの金持ちは大抵腹が黒かった。つまり、これからやってくるご主人様が純朴な人間である可能性はおそらく低いだろう。せめて、厄介な性質をしていなければいいけれど。

 もう何度目か分からないため息を零しつつ、窓の外に目を向ければ昼下がりらしい晴天が赤紗を煌めかせる。久々の陽光は懐かしく、眩しく、煩わしい。

 ——はやく、かえりたい。

 できる限り他人にこの世界に干渉せずに再封印されたい。そのためには余計な思考や行動は慎むべきだろう。

 そうは思っても、ご主人様とやらがいつまで経っても来ず、穂白からも迎えに行けない時間はあまりにも退屈だった。そして穂白は退屈があまり得意な性質ではなかったから、先につい、少女に尋ねてしまったのだ——「今はいつなの」と。そして小動物のように震える少女の唇が紡いだ回答から、どうやら自分の封印から十年が経過したことを知った。

 もう十年、と思うべきか。まだ十年、と思うべきか。

 封印されていた間も意識や思考がまったくなかったわけではないけれど、常に微睡に揺蕩っていたような感覚だった。深く思いを馳せることもなければ、日々が経過している実感を覚えることもなかった。ある種の安穏がそこにはあった。

 しかし引きずり戻されたこの世界では、穂白の頭は主の望みをちっとも介することなくそれはもうくるくると働く。時間の経過を知り、克明に過去に思い馳せることができてしまった。幼い頃の弟との貧しくも楽しかった生活、祓穢となってからのたくさんの人と出会い関わり合った日々、そして——戦争の終末に自身の体から穢れが溢れ出し、親しかった人たちからも言葉の刃を向けられ、処刑に至るまでのこと。

 思い出せば、薄暗い靄のようなものが胸に満ちて少し苦しくなる。苦しかったから、逸らすようにこの部屋を観察したり家主に関して考察してみた。しかし、一度こびりついた澱は取れず、少しでも気を抜けばまた呼吸が詰まりそうになる。それをどうにか押し出して、またため息として消化する。


「あ、あの……喉とか乾いていらっしゃいますか……?」


 扉のそばについている少女がおずおずと声をかけてきた。


「喉?」

「ため息が多いように見受けられたので、その、喉が乾いているんじゃないかなと思いまして……ご主人様から、貴方様に極力不自由がないようにと仰せつかっていますので、温かいものでも冷たいものでもなんでもご用意いたしますのでどうかお申し付けください」


 穂白は思わず瞬き、それからたまらず鼻を鳴らした。

(極力、ね)

「それならこの手足の錠を外して今すぐあなたのご主人様をご用意してもらえる?」と言いたいところなのだが……それが極力と言わざるを得ない理由なのだろう。

 それにしても、不自由をさせないよう使用人に言いつけたり、やけに質のいい部屋で監禁したりと、彼女のご主人様は一体どういうつもりなのだろうか。穂白が纏う衣服も封印される直前に着ていた黒装束ではなく、着心地のいい白の衣と裳になっていた。

 単純に考えるのならば、かの穢れ姫を不躾に呼び出しただけでなく粗末に扱えば祟られかねないと恐れてのこと、とどのつまりご機嫌取り。だがそれなら、そもそも穂白の目覚めに立ち会わずあまつさえ待たせるようなことをするだろうか——。


「そもそも、式神様は喉が渇くものなのでしょうか」

「……は?」

「す、すみません、浅学で。式神様の生態を知らず……」

「いや、その式神ってなに」

「え? あなた様はご主人様が祓穢事の補佐として呼び出した式神様では——」


 そのとき、ずっとだんまりだった扉が開いた。


「待たせてごめんね。急ぎの嘆願が入ったものだから」


 そこに現れたのは一人の男だった。

 男は侍女に下がるよう言い付け、彼女が去った扉が静かに閉じると同時、澱みない足取りで穂白の方に近づいてきた。白く骨ばった手でそっと赤紗を捲ると、男は穂白を見下ろし微笑んだ。


「ごきげんよう、穂白様。調子はいかがかですか」


 歳は二十代前半くらいだろうか。翡翠の瞳は切れ長で、穏やかな線を描く眉も相まって理性的な印象を与える。すっと通った鼻筋も、形のいい薄い唇も、神様に愛し拘り抜かれたように配置されたその顔は世間一般的に〝かなりの美男子〟に分類されるに違いない。

 薄墨色の髪は後ろはひとつに束ね、左前はきっちりと編み込まれている。それにより晒されている左耳朶を飾る花を模った耳飾りはしゃらりと煌めいた。

 長身に纏う衣や裳は紺鼠に淡水の差し色と刺繍が入っていている質素なものだった。華やかな風貌をした男を過度に賑やかせない、それでいてその上質さから決して貧相に見せることもない、彼に非常によく似合った召物だった。

 それ故に、そんな彼の仕草は微笑みは、嫌味も隙もない完璧な柔和と美しさを持っていた。よく言えば世渡りがうまそうで、悪く言えば胡散臭い、自身の容貌をしっかりと自覚して操っているように思える。


「あんたが私の封印を解いた〝ご主人様〟?」


 警戒を一切隠さず目を眇めた穂白が問うと、男はわずかに笑みを深めた。


「ご主人様なんて呼ばないでください。僕は天碧あまきといいます」

「あんたの呼び方なんてどうでもいいのよ」

「いいえ、呼び方は大事ですよ」


 天碧と名乗った男は寝台に膝をかけて乗り上がると、穂白の方に体を傾け、それからそっと穂白の手を取った。


「だって、あなたにご主人様なんて呼ばれたら……ね?」


 うるさいほどにきらきらとした美形が穂白に近づいてくる。


「倒錯と興奮を覚えざるを得ないでしょう?」

「は?」

「僕の言葉に従う穂白様なんて……想像しただけで堪らなくなってしまいます」

「うわ」


 と思った。声にも出た。鳥肌が立った。なんだこいつ。


「ふふ、かわいい顔ですね」

「あんたのせいでね」

「なるほど、僕の行動があなたの表情を動かしたと……唆ることを言う」

「殴っていい?」


 完璧な微笑みだけで胡散臭いと思うのはさすがに勘繰りすぎの偏見かもしれない……とも思っていたのだが、とんだ杞憂だったらしい。役者でもなければこんな歯の浮くどころか身の毛がよだつ台詞を平然と紡げるわけがない。


「穂白様の中で晴れるものがあるのならば、僕は構いませんよ」

「結構だわ」

「そうですか」

「そんなことより」


 穂白は変わらずにっこりとしている男の顔を睨みつけた。


「私を元の場所に帰して」

「元の場所」


 天碧の瞳がそっと細む。


「それは峯露村ねろのむらのことですか。それとも祓穢寮旧倉庫室のことですか」


 そんなことまで調べているのか。穂白はいっそう眉を顰めながら、「違う」と応えた。


「あなたがどんな野望を持って私を呼んだのか知らないし興味もないけれど、私はそれに協力する気は一切ない。一刻も早く封魔の香炉に帰して」

「そこがあなたの帰りたい場所なのですか」

「そうよ」

「そうですか」


 そこで会話が途絶え、無言が落ちる。やがてひとつ瞬いた天碧はにこっと笑った。


「今は無理ですね」

「これはお願いじゃないわよ」

「現実として無理なのです。穂白様の封印を解くために甚大な霊力を使ったので、今はすっからかんなものですから」

「手錠の霊力封じは」

「それは事前に用意していたものですよ」

「じゃあ他の封印術が使える祓穢を呼んできて。金は持ってるんでしょ」

「たしかに呼べないことはありませんが」


 翡翠の瞳がまっすぐに穂白を見据え反射した。


「あなたにとってそれほどまでに心地よい場所だったのですか。あの香炉の中は」


 穂白もまっすぐな眼差しを向けて答えた。


「この世界よりは遥かにね」


 しばしの無言が落ちる。天碧が穂白を見つめたままだったから先に逸らすのも癪だと力強く見つめ返した。

 ふいに天碧は穂白の手錠に指を添えた。かちり、という音ともに錠が解ける。


「あなたの安寧を奪ってしまったことは謝ります。多大なる無礼を働いたことも」


 次いで天碧は寝台から降りると、穂白の足元に寄りそちらの錠も解いた。

 それから天碧は、あろうことかその場に跪いたのだった。

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