第45話 落涙とお願い

 独り暮らしをしていたミカエラが、誰かに看取られて最期を迎えられたのは幸運なのだろう。


 亡くなる前日、私もお世話になっていた村の樵の一家が彼女を訪ねて異状に気づいた。その衰弱ぶりをして、死がすぐそこまでやってきていると悟ったそうだ。だから付き添った。最期のその瞬間まで、傍らにいることにした。そのおかげでミカエラは死臭や蛆でいっぱいになる前に土の下へとその身をうずめることができたのだった。


 村で行われた慎ましい葬儀に、両親は私の代わりに参列してくれたという。

 手紙では「安らかな死に顔」と書いているが、それが事実かどうかは怪しい。

 そう信じたい、そうであってほしい気持ちが当然あるけれど、一方では頭の片隅に、帰って再会することができなかった私への恨みつらみがそこにあってほしいだなんて思いもあった。

 もう彼女に叱ってもらえない。握手を交わせない。彼女が木彫りする姿を見ることはできないのだ。


 私はカシラギを含めてこの神彫院にいる大人を師匠とみなしたことはない。私の師匠はミカエラだけだ。彼女の勧めで私はここに来た。私が木彫り師として成長して帰ってくるまで、どうか生きていてとそう願い、本人に伝えた。けれど叶わなかった。


 どうして悪いことが重なるのだろう?

 ユウの涙と叫びに戸惑い、胸を痛める私に届けられた訃報。

 ミカエラの死。これは何かの罰なのか。だとすれば私の咎は何だ。


 気がつけば私は鑿を握り締めて、誰もいない作業室に一人いた。


 覚えている。この仕上げ鑿は私が最初に選んでもらい、使った代物だ。あの日から多少は大きくなった掌、指の一本一本にぴったりと馴染んで、離れない。離したくない。握り締める力は強くなっていく。


 窓から降り注ぐ月光と星明かり。太陽に比べるとあまりに弱い光が夜を照らす。

 室内に無造作に放り出されていた木片を拾い上げ、作業台に乗せるとそこに刻み始めた。ミカエラが初心者の私に与えてくれた課題の一つ。まずは基本的な彫り方を会得するための模様を彫る。まっすぐな線を繋いでできる図形。

 彫っていく、ひたすらに……。





 噛み締めていた唇が切れて、血の味がした。その時になって現実感のある痛みが私を襲う。鑿を動かす手が止まる、否、止まりかけたそれを止めてなるものかと動かし続ける。でもうまくいかない。手が震える。私は息を深く吸い込み、夏の夜で肺を満たすと、ゆっくりと吐き出した。

 それを数度繰り返していると、不意に口笛らしき音が私からする。


 口笛……兄は上手だった。今だってきっと。その兄から幼い頃に吹き方を教えてもらった記憶があるのに、吹けた記憶はない。

 下唇を舌で舐めるとまだ鉄臭さがあった。私は次の木材を探し出して、作業台に乗せる。そして思い出すのはミカエラでも兄でもなく、あの子。そうだ、あの子の歌だ。


 彼女の歌の中でも特に耳に残っていて、それに歌っている時の表情が思い浮かべられる歌がある。楽しげに、幸福そうに歌っている歌。聖歌なんかじゃない。可憐な少女がその心を込めた歌。


 私も挑戦してみる。口笛よりも歌がいい。

 これがミカエラの弔いになるとは思っていない、これでユウが私のすべてを許してくれるとは思っていない。それでも歌おう。


 今度こそ鑿を持つ手は止まる。歌いながら彫るなんてのは私にはできない。記憶を辿り、歌う。過ぎ去った日々を想う。村での日々。短い旅路。神彫彫での毎日。


 鑿を両手で包み込んで、月を仰いで祈り歌う。途中から、あるいは最初から自分が何をどう歌っているかわからなくなっている。

 木を彫り刻むように歌う。自分の内側に溜まっていたものをすべて音にする。


 違うのは残らないことだ。いくら私が空気を震わせても、それは誰かの耳に残らない。月や星がそれを押し固めて、誰かに届けてくれはしない。


 ――――失われてゆくだけ。

 それを理解した時、ようやく涙が流れた。

自分の耳にすらおぼろげな歌、どこの誰にも聞こえはしない歌を歌い続けて……。




 どれぐらいの時間が経っただろう。とうに就寝時間は過ぎていそうな深い夜の気配。いつもならそれを感じ取れるのに、やけに月が明るくて。

 泣き疲れ、喉を枯らした後でも、その欠けた月を望んだ。


 彼女が私の背中にその頭を、とんっと当ててきた時も私はまだ月に見惚れていた。

 幻想ないし幻覚かと思った。だからその感触が伝わってしばらくは、それが去るのを、私が現実と向き合えるのを期待していた。


 でも、背中にはずっと彼女の感触があった。これまでに何度聞いたかなんて数えていない「ねぇ」と言って、頭を離して今度は後ろから抱きしめてきた。


「探すの、苦労したんだから」

「……でも、見つけてくれたんだ」

「変だよね。出てけって叫んだ時はそれが本音で、すっかりそれしか考えになくて。なのに、いなくなると寂しくて。その穴はダフネでは埋められないの」


 私の師匠が死んだんだよ。それが一ヶ月近く遅れて私のもとへ手紙で知らされたんだよ。私はあの人のことを家族同然に思っていたんだよ。そう、家族。それはあなたやエルダに対する思いとはまた違って、敬意と新愛とそれから言葉にし難い何かあたたかな感情から作られた気持ちなんだよ。私に木彫りを教えてくれた人なんだよ。


 こうしたことすべてが声にならなかった。もちろん、歌にだってならない。


「わたし、わがままだったみたい。ううん、なんていうのかな、これ。わたしは……リラといっしょにいたい。それが一番なんだって今回のことでわかっちゃった。リラがね、わたしのことをそんなふうに思っていなくても、それがどんなに悲しくてつらくても、怒るんじゃなくて、叫ぶんじゃなくて、わたし……」


 止まる。先が続かない。木を彫るようにはいかない。


「ユウ、お願いがあるの」


 私は窓の外、月から目を逸らして、その下に広がる深い森を見つめて口にした。


 神樹の森。私たちはそこから神樹を得て、選出課題に臨む。そして彫り人が選出されてその乙女が女神像を造る。何のために? それがスクルトラに安寧をもたらすと信じて。


「――女神像を彫って。神樹の彫り人になってほしい。他の誰かじゃいけない。ユウじゃなきゃいけないんだ」

「それが、お願い? リラからの、お願いがそれなの?」

「……私は狼を彫る」

「おお、かみ?」


 病巣に冒されていたソレイユが逃げた崖で出会い、そしてダフネの右手を噛み千切った獣。どんなに美しい姿をしていたのだろう。カシラギはたしかにそこに美を見出した。私があの軒下の狼に特別を見出したように。


 私は話す。ユウに、私の原点を語り聞かせる。納得は求めていない。ただ、伝えることに意味がある。


「リラにとって大切なことなんだね」

「……うん」


 宿命と言っていい。そう呼ぶことにする。


「選出課題がどんなものであろうとも、私はそれを無視して神樹で狼を彫る。私はそのために来たんだ。それが今、はっきりとわかった。ユウ、あなたは女神様を彫るためにこの選出課題で課題に沿った木彫りをするの。そうして。彫り人に選ばれて女神像を彫るの」

「リラのために?」

「私たちのために」

「ねぇ、ほんとうに二人にとっていいことって信じてる?」


 わからない。返答を保留して、私は彼女の手をほどくと、向き直った。


 ユウの目元が腫れている。がむしゃらに走ってきたのか、髪も乱れている。夜の色をしたその綺麗な髪に触れる。それを彼女が許してくれた。


「終わりにすればいいと思ったんだ」

「終わりに……する?」

「うん。ユウが、この先のスクルトラの千年を見守る女神像を造ればいいんだ。なれるよ、ユウなら。最後の神樹の彫り人に」

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