第35話 母と子

 神彫院を去ったダフネが次の修行場所に選んだ北の森に、生まれて間もないユウを連れてソレイユがやってきたのは夏の終わりだったという。


「スフォルツァ家と、ソレイユのパトロンとなった公爵家には親密な付き合いがあったが、神彫院を離れてからのダフネとソレイユの個人間でも文通が交わされていた」


 最後までソレイユに木彫りで勝利することができなかったダフネは半ば彼女を師匠のようにみなしていた。ナパボルトに帰る選択肢は端からなかったそうだ。


「身籠ったソレイユは、公爵家に祝福されないのを知ると、ダフネに手紙で救いの手を求めたのだ」

「祝福されない……」

「誓って言うが、公爵家がソレイユにどんな態度をとったかを私は知らない。あくまで彼女自身が口にしたことだ。私は……知りたいと思えなかったんだ」

「北の森に先生が合流したのも、ソレイユさんが望んだのですか」

「いや、少なくとも連絡をよこしたのはダフネだ。文面にソレイユの名はあったが、赤子については書かずにな」


 屋敷から北の森に住まいを移った時点で、ダフネとスフォルツァ家との仲はほとんど絶縁状態になっていた。

 

 彼らがいつまでも木彫りに敬意を払わずにいたから――――カシラギがダフネから聞いているのはそれだけだ。


 神樹の彫り人に選ばれていればまた話は違ったかもしれないが、ダフネはその機会を自ら放棄したようなものだから、家との仲違いはより根の深い部分にあったとも予想できる。


 どちらにせよ、ソレイユたち母娘の力になるには、当時の世捨て人同然の身では無理があったから、ダフネはカシラギに連絡をしたわけだ。


「私たち三人は北の森に小屋を構え、そこで二年ほど共に暮らした。神彫院での生活よりも不便だったが、木彫り師としては充実した日々だった。ダフネがソレイユを招き、私を呼びつけたその森は神樹の森に負けず劣らずの素晴らしい森だった」


 三人の若い女性と赤子だけで生きることができたのではない。

 ダフネがスフォルツァ家を離れる際に彼女への忠義からついてきた従者がいたり、近くの集落の人たちの中に親切な人がいたり、それに加えて神樹の彫り人であるソレイユに作品を造ってもらいたがる人が、彼女たちを助けたのだ。


「あの森は本来ならば余所者の立ち入りが禁止されてい。だが、私が合流する頃にはダフネは、皆からまるで森を守護する女神のように称されていた。実際、私たちは森に生きる動植物から害を受けることはまずなかった。あの日までは」


 ユウが三歳となった秋のこと。

 ソレイユは原因不明の病に冒され、数日間ずっと寝たきりの状態だった。

 最寄りの集落から来てもらった医者の診断では、伝染病の類ではなく、先天的な臓器の機能不全が長い年月をかけてもたらした症状だそうだった。


「私やダフネ、それにソレイユ自身がその医者の言うことを信じたのは、医者が話した日常的な兆候に心当たりがあったからだ。それに……ソレイユの身体の一部は、触れずとも異常だとわかる色合いと腫れを示していた」


 彼女を蝕む病は、いわゆる不治の病と呼べる段階に至っていた。




 不意に部屋のドアが規則正しくノックされ、カシラギを呼ぶ職員の声が聞こえた。

 出発の準備ができたかどうかの確認だ。


「リラ。どうかこの続きは、あの子と一緒に。ダフネは許してくれないだろうが、あの子は知る権利があると私は思う。つまり――母親の最期について。そしてダフネの決断と私の……」


 そこで言い淀むと、カシラギは立ち上がってノックの主に応じた。短いやりとりの後、声の主の気配がなくなる。


 最期と言われ、やはりと思った自分がいた。ユウの母親であるソレイユは既に他界しているのだ。


「あの、一日だけでも出発を延ばすことはできないのですか」

「その訴えはもっともだ。私があなたでもそう言う。けれど、できない。旅の手配はすべて王家が取り仕切っていて、使者たちに私からそれを望むのは難しい」

「けれど先生なら……神樹の彫り人なら!」


 たった一日待たせるぐらい、どうということはないのでは。内緒にしていればいいのだ。道中で悪天候に見舞われたとでも説明すればそれでいいではないか。

 ユウをここへと連れてきて、カシラギからすべてを聞く。それは今すぐに行われるべきではないか。


 カシラギは静かに首を横に振る。


「二十年前とは違う。ひょっとすると、王家との付き合いはこれが最後になるかもしれないな。この年齢になってなお、私を側に置きたがる輩はいるが、それは木彫り師としてではない。そうだな、ダフネの言葉を借りれば、敬意が払われていないのだ」


 私は思わず立ち上がる。

 そしてカシラギを引き止められる何かを言おうとした。たとえば、それはユウのことだ。彼女を想えば、一ヶ月以上もまたせずに明かすべき真実を明かすべきなのだ。

 そこまで考えてから足元がぐらつく感じがした。どうして自分がここにいるのかがわからなくなった。あの子の友達として、それでいいはず。

 だけれど、私は知る資格が本当にあるのだろうか。かつてこの神彫院で私たちと同様に過ごした三人の少女。その物語……ではなく現実を。


「気が滅入ったようだな。無理もない」

「いえ……」

「自分で始めておきながら、妙なものだ。秘めてきたダフネへの想いや失われた過去の日々、それをかつての自分と同じ、一人の候補生に語りきかせているとはな」


 ふとカシラギが目を細めて、私へと寄り、頭を撫ででくる。


「ソレイユは母となった。ダフネも半分はそうなることを選び、今では半分ではないかもしれない。だが、私は母にはならなかった。この先もそうなることを選ばない、決して」

「それって……?」

「――――あの子の歌は」


 カシラギの声が柔らかくなる。


「母親であるソレイユが聞かせたものなんだ。ずっとずっと、あの子のために歌っていた。透明な歌声は森に響くというより浸透していく雰囲気があった。それを聞けばあの子は泣き止んだ」

「子守唄みたいに?」

「ああ」


 美しいカシラギの顔。それを近くで目にすると、年相応の皺があるのがうかがえる。彫刻らしからぬ、どこまでも人間らしい皺だ。


「継承した、と言うのは大袈裟な気もするがカルメンたちから聞く噂では、どうもそうらしいな。遥か古の、女神を讃える歌が今、彼女の娘と共にある」


 カシラギの手が私の頭から離れる。慣れていない手つきだった。目の前にいるこの人は私が想像するよりも木彫りにその心身を捧げているのだ……。


「ソレイユさんも歌いながら彫り刻んでいたのですか?」


 私の問いに、さっきよりも優しげにカシラギは首を横に振った。


「それが理想なのだと話していたのを覚えている。ソレイユはそこに辿り着きたがっていた。公爵家で過ごしていた間も、私とダフネの先へ先へと進んでいたんだ」


 先へと。

 でも、辿り着けずに命を落とした。


 今は何歩だ?

 ユウと何歩離れているんだ。

 私たちは同じ道を歩んでいるだろうか。


 ソレイユ、ダフネ、カシラギ。その三人の道はとっくに別々となっている……。


「平気か? 気分が悪いようなら医務室まで送る。それぐらいはさせてほしい」

「だ、大丈夫です」

「そうか……。どうか私が帰ってくるまで、作品を彫り進めてくれ。あなたの力になれるとしたら、木彫りのことだから」

「はい。それでは、お気をつけて」


 そう言って私は出入り口のドアへと向かう。近づいてそれに手を伸ばしたところで振り返り、カシラギを見やった。


「先生は、木に何を期待しているのですか。何を想って彫り続けているんですか」


 いきなりで、しかも抽象的な私の問いかけにカシラギは自嘲気味に笑ってみせた。


「女神の祝福でないのは確かだよ」

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