第24話 かつての二人
満月の夜のお茶会の数日後。
例の依頼を遂行するべくカシラギを訪ねると、部屋から出てくるカルメンとばったり出くわした。
何か言いたげな顔をしつつも沈黙を選んだ彼女が足早に去っていくのを見送る。そして中に入った私はカシラギにナパボルトの現状について訊ねてみた。
彼女がカルメンから聞き及んでいることと、私がエルダから聞いたのはほとんど一致した。
ただ、ナパボルトが神彫院から門弟を早期帰還させたいのは、工房全体をあげて大掛かりな彫刻事業の計画をしているからだそうだ。それは言わば復権計画であり、推し進めているのは長年働いてきた人々らしい。彼女たちにとって木彫りが唯一の生業であり生き方そのものなのだろう。
「それであなたは、世界の変動に恐れをなして鑿を振るうのをやめるのか」
話が一段落するとカシラギはそう言った。
私は「やめません」と即座に答えたが、彼女の超然とした態度に怯みそうになった。
きっとカルメンに対してもこんなふうだったに違いない。
エルダはあの夜、ナパボルトのことを教えてくれた上で、あそこは帰る場所でないと私たちに伝えた。ユウの言葉に力づけられたのもあるのか、諦めずに最後までやり抜くと誓ってくれたのだ。
では、カルメンはどうか。
その作品の評価をしてエルダや私よりも神樹の彫り人に選出される可能性は高い。しかしそれはユウと肉薄しているのを意味しないのだった。……ついさっきまでこの部屋にいたカルメンは、カシラギを前にして何か誓っただろうか?
「さて――保管庫へ行き、私なりにあなたのこれまでの作品を再評価して、なるべく詳しく書き留めてみた。受け取りなさい」
「は、はい」
候補生が課題で制作した作品は、講評会が過ぎても、廃棄処分されるのはごくわずかだ。焼かれたり砕かれたりするのはそれを候補生自身が強く希望している時のみなのである。
多くは、在籍している候補生のためにある保管庫に回される。卒業する前に作品の処遇を再検討しないといけない。私もここを去る際に一つか二つを村へと持って帰り、残りはまとめて焼却してもらう心づもりである。
また一部の作品は候補生の許可をとって、王家と関係のある美術商に買い取られることもあると聞く。
「読めない字、わからない言葉があれば言ってくれ」
「いえ……綺麗な字ですね」
お世辞ではなく、渡された紙には美しい文字が並んでいた。見惚れてしまう、線と点の組み合わせだった。
私が文字の読み書きを習ったシスターは、文字それ自体が芸術となり得ると話していたが当時はいまいちわからなかった。
書体に個性がないほうが読書が捗りそうだと思ったぐらいだ。年々、目ざましい発展を遂げている印刷技術に感心しても、これまで手書きの文字に感動したことはなかった。
そんなことをやや興奮気味にカシラギに話した。ありがたいことに、彼女の反応は一言でなかった。
「私が木彫りを師に習い始めたのは六歳の頃だが、十一歳の時に一度、彫るのをやめたんだ。字を書くことに魅了されて、二年余り私は木や鑿から遠ざかっていた」
「でも、戻ってきたんですよね」
「ああ。私には新しい文字を生み出し、意味を与え、それを世に広める力はないと気づいた。どれだけ、どんなふうに書いてもそれは誰かの軌跡をなぞるに過ぎない」
「木を彫るのはそうではない、と?」
「そうだ」
そしてこの人は神樹の彫り人に選ばれた。
木彫り一筋でなく、その寄り道が役に立った。そう思うのは結果論だろうか。
院内に飾られているカシラギの作品からわか技量よりも、彼女の奥深い部分を垣間見た気がする。
「……リラ、あなたは賢い。あの頃のダフネにどこか似ている」
「ダフネさんと?」
カシラギは今度こそ「ああ」と短く返して黙り込み、その目で私に紙を熟読するよう促した。読み終えて顔を上げると、彼女は用意していた道具と木材で実践的な講義を私にしてくれる。
図らずともそれはミカエラとよく似通ったスタイルの教え方だった。無駄がまるでない。的確だ。的確すぎると言っていい。だから、教わる側も半端な覚悟では耐えられない。もし万一、彼女が「あなたがこれを習得するには十年かかる」と言ったならば、信じそうだった。
二時間足らずカシラギから手解きを受け、夕暮れ時を迎えた。
そしてようやく彼女たちが少女だった頃の話を聞くこととなった。
「文字に起こしてまとめようともしたが、失敗したんだ。どこから話せばいいか……私は十四歳の春から十七歳の秋までの三年間をここで過ごした」
「候補生は今より多かったのですか」
「そうだな。倍はいなかったが五十人近くいた。私は西部の生まれだが、師の勧めで十三歳になると同時に王都の大工房へと移り、そこに所属していた数人と同じ時期に入学した」
女神像の代替わりが三年後に迫った時点でやってきた十四歳というのは、他にも多くいたという。
歴代の彫り人たちの平均年齢が十七から十八の間であるのは、世間に――そこに私の生まれ育った小さな村は含まれないのだけれど――よく知られていることだった。
「ダフネさんとは同い年なんですか」
「いいや、彼女が私の一つ上だ。神彫院にも私より半年早くいた。最初の一年間、私たちに交流らしい交流はなかった。彼女は同じ工房の連中としか関わりたがらなかったから」
おおよそ二十年前の話だから、まだナパボルトに失墜の兆しが現れているかいないかの時期だ。神彫院に送られた令嬢木彫り師たちは今よりも数多くいて、矜持もより強かったのだろう。
「十五歳の夏、ある課題が与えられた。内容は『神樹の森に生きる弱き生き物』だった。あなたは体験していないはずだが、夏場は森へと入って自然と触れ合う課題が多いのだ」
「つまり、実際に森の中で題材を探して、それを彫ったんですね」
「そのとおり。代替わりまで二年を残していて、抽象的な事物より具体的な生物を彫らせようとする課題だった」
そして現に、多くの候補生たちが選んだのは水辺に漂う小さな虫や日陰にひっそり生えている植物だったそうだ。
「――だが、ダフネは違った。彼女は大鷲を彫ったんだ。忘れられない、あれは見事な鷲だった」
「それを弱い生き物と、ダフネさんは主張したのですか」
「当時の講評会担当者は候補生によく質問する方で、当然、ダフネは問われた。皆の前でだ。すると彼女は『森の中で食物連鎖の頂にいる一種と言える大鷲は、その連鎖を作る下々がいなくなれば生きてはいけません。だから最も弱いのです』と答えた」
「それはなんというか……」
ダフネらしくないと直感した。
なぜだか、そう感じた。それではまるでユウみたいだ。いや、ユウの師匠はダフネなのだから妥当ではないか。しかし私の中で蟠りが消えない。
「私も納得がいかなかったんだ」
カシラギは私と心を通わせるかのようにそう言った。
「直接、ダフネに聞きに言った。思えば、それが彼女に初めて話しかけた日だ。講評会が終わった後、彼女は木陰に座って涼んでいた。一人きりでな」
その少し後になってカシラギが知ったことには、その夏あたりからダフネは単独行動が多くなっていた。つまり同じナパボルトの少女たちと折り合いが悪くなっていたそうだ。
「大鷲を彫るのを選んだ理由をもう一度聞かせてほしいと言うと、ダフネは黙って睨みつけてきた。自慢にならないが……私はあの頃から人当たりが悪く、彼女もそうだった」
本当に自慢にならない。
「そんな彼女を睨み返してやると、やがて彼女は声を上げて笑い始めた。それで本当のところを教えてくれたんだ」
「では、さっきのあれは嘘だったんですか」
「そうなるな。彼女は言った。『森を歩いていたら大鷲に出会ったのよ。大空を飛ばずに枝の上でくつろぐその姿にとても惹かれたから、彫ることにしたの』と」
「それってようは、課題を無視して、彫りたいから彫ったんですね」
それはそれで私の知るダフネらしさはなく、いっそうユウに近づいたと感じた。
そうは言っても、ユウがこれまでに課題を無視して好き勝手に彫ったことはない。どの課題も楽しんでいる節があるからだ。
もし課題よりも楽しそうなものに出会ったら、彼女もまたダフネが大鷲を彫ったようにするのではないか。
「……大鷲との出会いを偶然ではなく必然にしたと彼女が笑って話す様は、それまでに私が知り合ったどんな少女よりも美しかった」
淡々とそう口にするカシラギだったが、その瞳に宿る熱は隠せていなかった。
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