白と黒 5

           

                    4



 アスティが気が付いた時は、そこは先程の場所ではなかった。

「ん……」

「気が付いたか」

 かがんで自分を見ていたのはセスラスだった。隣には王妃もいる。

「……」

 アスティは玉の汗を浮かべながらそんな二人を放心して見ていた。まるで睡眠薬がまだ残っているかのようにぼうっとしている。

 あれからあまり時がたっていないのは魔力が大して回復していないことでもよくわかった。

「ここはさっきの場所から少しきた場所です。もう少し休んでいましょう」

 王妃が安心させるようにアスティに言った。この人のこの声は……安心する。

 アスティは立ち上がれず、動くと吐き気がして、しばらくそうしていた。ディヴァはずっと前からその辺をぐるぐると歩き回って何事か考えていた。

「……」

 アスティは少しでも息をすると吐きそうな衝動によく耐えながら、数十分ずっとそうしていた。その時ふと道の向こうから吹いた風が、アスティの頬をなで吹き抜けていった。「水のにおい……」

 アスティとディヴァが呟いたのはほぼ同時だった。アスティはじっと瞳を閉じ、眉を寄せて辛そうにしていたが、やがてやっとのことで立ち上がって、壁にすがりつきよろめきながら道の向こうに歩き始めた。

「ア……アスティさん……?」

 王妃が戸惑った声をかける。必死のアスティには聞こえないようだ。

「陛下……」

 ディヴァが困惑して少し離れたところで考え事をしていたセスラスに声をかけた。

 セスラスも気が付いて立ち上がりアスティを制止しにかかった。

「アスティ……どうした」

「あ……ち、ちょっと」

 アスティは構わず進んだ。ひどい吐き気でどちらが上で、どちらが右かわからないほどにぐるぐると世の中がまわった。吐きそうで辛かった。涙が出た。

 しかしアスティは進んだ。何故だかはよくわからなかった、自分のなかの何かが、このまま行け、進めと命令しているかのようだった。

 やがてアスティは目的と思われる場所へ辿りついた。

 いや、辿りつかざるを得なかった。そこは行き止まりだった。そして水のにおいの正体だった。

「地底湖……」

 ディヴァが信じられないように呟いた。ここまで入念な罠をしかけるとは……あの女は何を考えている? ああまた……時空の向こうから睨んでいる。こんなにすぐ側にいるというのに。しかしディヴァにそんなことに構っていられるほどの余裕はなくなっていた。アスティは目の前で湖に入ろうとしていた。

「アアアアアアスティさん!?」

「アスティ! 何を!」

「! ……」

 一同の制止にも関わらずアスティは深い湖の底に身を投じた。それは入水以外のなにものにも見えなかった。立っているのにも、息をするのにもやっとだったアスティが水のなかに入ったところで、起こる事は目に見えていた。力ずくで止めるには遅すぎた。

「アスティ!」

 セスラスの目の前でアスティは完全に見えなくなった。静寂があたりを支配した。

「……」

 ディヴァは絶句した。この洞窟のことは自分もよく知らない。というよりは完全に無知だ。ここはどう見ても行き止まり、あの女は、何を考えているのだ。

 クプクプ……

 ……    ……

 どこからか……水の湧く音が静寂を破って聞こえてきた。

「!?」

 ……    …………

「な……?」

 突如起こった大音響……ディヴァは思わずローブの袖で顔を覆った。

「おお……」

「これは……」

 セスラスは目を見張った。目の前の大きな地底湖。両手を広げても尚、それよりも広いこの湖。その湖が、真ん中から分かれている!

 ゴオオオオオオオ……

 湖底の中央にはアスティが立って彼らを見ていた。

 アスティがやったことなのだろうか。

 あの身体で、回復していない魔力で、どうやって? その遥か向こうには湖底の道が続いていて、なにか小さい四角の穴が口をあけていた。道はおそらく、その向こうにあるに違いなかった。彼らは水の壁を両側に見上げながらアスティのところまで辿りついた。アスティはひどく落ち着いた顔をしていた。冷静というかなんというか、麻薬でもやったようにぼおっとしている。体力はどうやったのか、この様子ではすっかり元通りのようだ。 アスティは先頭に立って歩き始めた。道の終わりは四角い穴から階段になっていて、まだ下に降りることを示していた。水が足首辺りまで残っていたが、構わず階段を降り、そこにあった錆びた鉄の扉を開け、一同は進んでいった。

 彼らが扉の向こうに消えると、また湖は元のようにゆっくりと戻っていき、静かに最初の静けさを取り戻していた。



 その日の不寝番はセスラスがすることになった。あまり戦闘がなかったので疲れていないということもあったが、アスティの疲労がひどく、黙っていれば、ともすれば不寝番をしかねない彼女に代わってセスラスがやると言い出したのだ。アスティも自分の身体のことはよくわかっているらしく、ひどく疲れた顔で黙っていただけだった。

 こうして二日目の夜が過ぎた。



 次の日の昼すぎ近く、彼らは道を通りぬけ、とうとうそれらしき場所までやってきた。 吹き抜けになっていて天井は見えないくらい高く、古い神殿を思わせる。ホール状になっていて奥が深く、行き着いたところには数段の階段、そして大きな祭壇のようなものがあった。その祭壇が気配のようなものを持っていることは、ディヴァにでもわかることだった。

「……」

 アスティはひとりその祭壇に向かった。なにがある? なにが起こる? こればかりはディヴァにもわからない。時が近付いているのか、女はこちらを睨む気配もない。

 アスティは祭壇の前に立った。

 カッ……。

 突然光が彼女を照らした。

《鍵は?》

 どこからか男の声がした。ひどく不気味で鳥肌のたつ声だった。

「かぎ……? なんのこと?」

 アスティは薄い声で尋ね返した。まだ昨日の疲れが尾を引いているのだ。声はしばらく黙っていた。

 どこかでなにか唸る音がした。

《鍵を持っていないのか……

 どうやってここまで来た…………いやそれより、お前は権利を持っているのか?》

 ---------ゴウ!

《わたしと戦う権利を!》

 アスティを照らす光の四方からいっせいに光の粒子が迸った。

「! ---------」

 突然の苦しみ、言語を絶するこの痛み、アスティは目の前に星が散って気が遠くなるのを感じた。



            ………………



《この程度か。貴様ではないのか。

 いつなのだ。どこにいるのだ。なにをしているのだ!》

「っ---------」

 アスティは大きくのけぞった。もうこれ以上立っていられそうになかった。心のなかでは苦しくて叫びたいのに痛みと苦しみで声が出なかった。呼吸さえ忘れていた。

(……)

(王……)



            ………………



 心のなかでは救いを求めていた。そして愛しい男の名を一心に繰り返していた。

(---------王!)

《ここまで来たのならほめてつかわす。しかし鍵がないのなら通すわけにもいかぬ。褒美に死をやろう!》

「---------」

 セスラスの瞳が、すべてを無視して透明なものになった。

「---------陛下?」

 もう誰の声も聞こえなかった。尋常ならざる事態に動くことも忘れて一同は見入っていた。

「---------」

 なんだ。自分はどうするのだ。誰か言え。自分はなにを? どうすれば? アスティを救うには、この先に行くのには、一体どうすればいいのだ。言え。言えば動く。光より速く、大地より強く。目的を果たしアスティを救うために。さあ言え。

 どうするのだ。

 ---------。

 ---------。

 ……   ……   ……

 衝撃は太古の昔から光速すら越えて彼を直撃した。耳鳴りがするほどの早さだった。

「! ---------」

 彼は答えを手に入れた。

 まっすぐ、光よりも速く、風よりも無心にアスティに向かった。アスティはその時倒れようとしていた。両手を祭壇の上に乗せて辛うじて耐えていたが、ぐにゃりとその腕も力つきて、とうとうアスティは支えるものがなくて倒れようとした。ひどく涼しかった。ひどく透明だった。いっさいの汚れがない気分、それは悟りを開いた時に似た清涼で静かな気分だった。

《力つきよ! 鍵ももたぬ者が!》

(---------)

 なんだろう……。

 ……もうすぐで思い出すような、この感じ……

 アスティは目を閉じた。

 急に重力がなくなった。倒れた、遠くなる意識が最後にアスティにそう伝えた。

 アスティは発泡酒をイメージした。もう気のぬけてしまった発泡酒。いくつもの炭酸の泡がグラスに張りついていたのに、今はもう残るひとつだけ。自分はその残った炭酸の泡の最後のひとつぶ。

(……)

 ああ……グラスから離れて……---------もう消える……

 アスティは上を見た。光がさしていた。

「…………」

 まぶしい……。

 すごい浮遊感だった。あまりのことに目がまわった。強い力をどこかに感じた。

(? ……)

 アスティは立ち上がっていた。自分の力ではなかった。最初はなにがおこったのか理解できなかった。なにしろこの光を浴びているだけで強烈な激痛が全身を襲う。どこかに感じた強い力、その力はいったいなんだろうと思って辺りを見回すと、その強い力はセスラスであるということがわかった。どこかとは自分の腕だった。アスティは彼に支えられていたのだ。

「……王……?」

 どうしてそんなに強い光を瞳に?

 あなたは痛くないのですか? 平気なのですか?

 ……やはりあなたは善なる運命を持つお方---------。

 アスティはそっと瞳を閉じた。

 セスラスの助けは嬉しかったが、もう遅いと思っていた。遅すぎたのだ。死ぬ。アスティが自分の間違いに気付いたのは己れの安堵のため息の、あまりのやすらかさにだった。

「……? ……」

 全身の痛みはいつのまにか消えていた。まるで熱湯に砂糖が一瞬で溶けてしまうほどの甘やかさだった。

 今やアスティの身体を支配しているのは激痛ではなく暖かい充足感だった。運動をたっぷりとして、その後で好きなだけ眠った後のような、なんと健康的でやすらかなこのやすらぎ。アスティは深く息を吸った。

《……なんだ貴様ら……!

 そんなことをして勝てるとでも思っているのか! もろとも吹き飛ばしてくれる!》

 !

 しかし次の照光の前になにか自分たちのまわりで重い空気が渦巻いたのをアスティもセスラスも気付いていた。

 風が下から舞い上がった。それは降りかかる光の粒子を悉く蹴散らしてさらに上へ上へと舞い上がった。

《……!? 貴様らは……》

 しかし不気味な声の言葉はそこでとまった。

 ひゅごう!

 舞い上がった風が二人の頭上遥か上で再び激しく渦巻いたからだ。

《! ぎゃああああああああああ!》

 上で大きな爆発が起こった。洞窟は一瞬凄まじい揺れに翻弄され、立っていられる者は誰もいなかった。

 砕けた石の細かい粒が落ちてきたが、倒壊はしなかったようだ。揺れがおさまって真っ先に王妃は二人のもとに駆け付けた。

「お二人とも怪我は!?」

「あ……いえ……」

 アスティはまだ何が起こったかよくわからず茫然としている。一体何だったのだろう。 それにこれ以上もう進めない。さっきのが院長の言う制約なら自分は機会を逃したことになる。アスティは青くなった。

 ゆっくりと祭壇のもとへと近付いてきたディヴァが顔を上げ、そんなアスティとセスラスに言った。

「行きましょうあれが……目的の場所です」

 少年の視線の先には、今まで壁だった場所にぽっかりと口を開けた扉があった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る