前編

「どうやら僕、恋人ができたみたいなんだ」


 放課後、2人だけの生徒会室。

 困ったように笑いながら、春野悠はるのゆう先輩はそう言った。


「…………はへ」


 何て返事をしたらいいのかわからなくて、ただ空気が口から漏れる。

 夏の暑さもピークを過ぎたのに、今日は蝉の声がよく聞こえた。


「あれ。冬木ふゆき君? 冬木澪ふゆきみお君? おーい」


 私の名前を呼びながら、春野先輩が眼前で手を振っている。

 柔らかそうな髪の毛に、くっきり整った目鼻立ち。

 生徒会長という立場もあってか、王子様、なんて影で呼ばれているのも頷ける。


「ごめんね。後輩とはいえ、女の子に突然する話じゃなかったかな……?」


 落ち着け、私。まずは冷静になるんだ。


「いえ、そんなことは。えっと……恋人って、恋人ですか?」

「うん、あの恋人だね。彼女とも言う」


 どうやら聞き間違いじゃなかったらしい。


「でも先輩、今までそういう人は作ってこなかったじゃないですか。それがなんでまた……?」

「ああ……やっぱりそう思うよね」


 苦笑する先輩。それを見て、はてと思う私。


「お試し期間、ということらしいんだ」


 思わず首を傾げる。


「向こうに告白されて、最初は断ったんだよ。そしたら、お試し期間を設けて欲しいって言われてね。その期間で、好きにさせてみせるって」

「それはまた、なんとも……」


 きっと、心が強い人なんだろう。

 面と向かって、好きな人に告白する勇気があって。断られても、すぐ諦めない根性と、好きにさせると言ってのける自信まである。


「そこまで言われたら、無碍むげにするわけにもいかないなと思ってさ。それで、来月の文化祭が終わるまで、お試しの恋人になったんだよ」


 そんな、私とは真逆の人。

 臆病な私が、出遅れたのが悪いわけで。

 文句を言う権利なんて、これっぽっちも――。


 ※※※


「泥棒猫ってこういうことを指すんだなと思いました」

「いやなんの話?」


 生徒会の仕事が終わってすぐ、私は幼馴染の秋山直斗あきやまなおとをファミレスに呼び出して、事の顛末てんまつを話した。


 互いの両親が仲が良く、昔から家族ぐるみの付き合いをしてきたので、こういう踏み入ったプライベートトークも出来てしまう。

 異性というより、気の置けない悪友。

 私が春野先輩に抱く想いを知っている、唯一の人でもあった。


「……で、澪はどうすんだよ」


 じっとりとした目で問うてくる直斗。

 彼は釣り目気味なので、そうされると少し怖い。


「決まってます、徹底抗戦です。これまでの私は確かに状況に甘んじていましたが、こうなったら本気を出さざるを得ません」


 グッと拳を握り、真っ直ぐ直斗を見つめる。

 その直斗は大きくため息。目の前のポテトを無造作につまんで、口に運んではまたため息。


「なんですかこれ見よがしに。幸せが逃げまくってますけど良いんですか?」

「悪い、幼馴染としてあまりにみじめでな」

「はい?」


 こちとら緊急事態だというのに、直斗は何を言っているんだろう。


「春野先輩の相手、誰だかわかってんの?」

「…………聞きそびれました」

「だと思ったよ。先輩と同じ2年の、夏川祈里なつかわいのり


 はて。どこかで聞いたことがあるような。


「今話題の転校生だよ。そんでもって、現役女子高生アイドルのな」

「……そんな漫画みたいな人いるんですか?」

「そんな漫画みたいな人と徹底抗戦するつもりの一般人はいるらしいけど?」


 ぐっ、と言葉に詰まる。

 すぐさまスマホで夏川祈里と検索。かわいい。おまけにスタイルも良い。最悪だ。


「……で、具体的にはどうするんだ? 中学の時の服がまだ余裕で着れる冬木澪さん」


 再び言葉に詰まる私。そこまで言わなくても良いんじゃないだろうか。


「ここらで諦めたらどうだ? ちょうど良い機会だろ」


 さしずめ私は、リングでタオルを投げられる寸前のボクサーというわけだ。思えばこのセコンドにも、ずいぶん長く試合に付き合わせてしまっている。

 でも、まだだ。


「……いいえ。こっちは中学時代に惚れて以来のベテランなんです。高校まで追いかけてきたんです。ぽっと出に譲ってやる気持ちは毛頭ありません」

「そうかよ。……ま、片想いのまま何もしないよりはいいだろうけども」


 ふと目を伏せて、口元だけで笑う直斗。


「そんで、勝算はあるのか?」

「もちろんですとも」


 へえ、と直斗。興味なさげにポテトをつまむ。


「いいですか。芸能人なんてどうせみーんな性格が歪んでいるに決まってます。きっとその夏川なにがしもぶりぶりのぶりっ子なんでしょう」

「……つまり?」

「周辺調査をして、化けの皮を剥がしてやるんです!」


 ※※※


 証言者その1。

 夏川祈里のクラスメイト。

「祈里ちゃん? すっごくいい子だよね〜。芸能人なのに、全然お高く止まってないって言うか?」

「……なるほど。次行きましょう」


 証言者その2。

 夏川祈里と同じ水泳部の1年生。

「夏川先輩は、とっても優しくてカッコいいんです! この前の練習試合でも、リレーで私が遅れた分を巻き返すどころか、そのまま勝っちゃって! なのに、これはみんなのおかげだよって……!」

「……次です」


 証言者その3。

 校内に存在する、夏川祈里非公式ファンクラブの会員。

「祈里ちゃんは僕らファンにも優しいんだ。手を振れば振り返してくれるし、握手会でも顔と名前を覚えてくれている。それにこれはファンの間では常識なんだが、彼女がアイドルになったのはとあるきっかけがあって――」

「ありがとうございました〜」


 ※※※


「……思ってたのと違います」

「見事なまでに善人だったな」


 関係者への聞き込みを終え、私と直斗は川沿いの帰り道を歩いていた。


「私の計画がおじゃんです、まずいです」

「だから最初から勝ち目ないって言っただろ」

「でも……」


 どうしても、認めたくない。

 私の方が先に出会ったし、先に好きになったし、気持ちも大きいはずなんだ。

 ついこの前転校してきたばかりの人に、春野先輩の何がわかるって言うんだ。


「あー……ま、話ならまた聞いてやるからさ。んじゃこのままバイト行くわ」


 黙りこくった私を見て、さすがに少し気まずくなったのか、直斗の声色はほんのちょっぴり優しかった。


「……ありがとう、付き合ってくれて」

「……おう」


 道を曲がって歩いて行く直斗の背を見送り、再び私は思考の渦へ。

 正直、状況は決して良くない。

 強いて希望を挙げるならば、先日の春野先輩の様子を見るに、気持ちはまだ向こうに傾いているわけではなさそうだということ。


 やっぱり、こちらも攻勢を仕掛けなくては。

 でも、一体どうやって?

 相手は一度告白を断られても折れない心の持ち主だ。私なんかがちょっとやそっと奥ゆかしいアピールをしたところで、春野先輩に与えるインパクトとしては劣るに違いない。


 そもそも、私にそんな勇気があるのか。

 それが出せなかったから、現状こうなっているわけで――。


「前見て、前っ!」


 後ろからの大声。

 それと同時に意識が戻り、向かい来る自転車を視認する。近い。ぶつかる。

 とっさに身をひねる。何かに足を取られる感覚。体のバランスが大きく崩れて。

 腰に走る鈍い痛み。空中に投げ出される浮遊感。そして誰かの叫ぶ声。


 どぼん、という音と共に、全身を走る衝撃と冷たさ。体がなんだか重たくて、目が痛くて、不気味なくらい静か。

 それどころか、何かが鼻と口に流れ込んでくる。液体。水?

 どうしよう、苦しい、誰か、助けて。


 がむしゃらに手足を動かしていると、再びどぼんと大きな音。

 手首を誰かに掴まれて、ぐいっと引っ張り上げられる。


「落ち着いて! ねえっ、大丈夫だから!」


 すぐそばで誰かの声。

 でもその意味を理解する前に、私はむせるので精一杯だった。


「わ、ちょっと水飲んじゃったかな。大丈夫、もう安心だよ」


 再び誰かの声がする。肩から上で感じる生ぬるい空気と、それより下にまとわりつく冷たさ。いつも通りの、日常の音。

 そこで初めて、川に落ちて溺れかけていたことをぼんやりと理解した。


「え……と、あの。ありがとう、ございます」


 のろのろと顔を上げて、目を見張る。


「んーん。あなたが無事でよかった〜!」


 そこにいたのは、夏川祈里その人だった。

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