4.5

 長く綿密な毛は、さながら毛ばたきのように小さな埃や葉を絡め取っており、人間だった頃とは異なる悩みを与えてくる。しかし機嫌を急に悪くした琴音は、口を尖らせドアノブをひねる。


「はーい、案内しますぅ〜」

「……何だその態度は。腹でも減ったか?」

「すいてません〜」

「……貴様、今“厄介な奴を拾ってしまった”などと思っていないだろうな」

「それは思ってません〜」


◇◇◇


 浴場は一階の隅にあり、既に利用された跡があった。濡れた床を踏みしめながら湯船を覗くと、温かな水蒸気が毛を湿らせる。


『ふむ。少し狭いが、この身体であれば問題あるまい』


 人間の身体では、恐らく脚は伸ばしきれなかったであろう。次いでシャワー周りを観察するが、琴音はまるで退室しようとしない。


「……おい。いつまで見張っているつもりだ」

「え? だってシャワー自分じゃ浴びられないでしょ? あと髪の毛――というか体毛? も、乾かさないといけないし」

「案ずるな、その程度どうということはない」

「ほんと? じゃあこれ回してみて?」


 琴音の指先は蛇口ハンドルをさす。確かに、アレを今の手で駆使出来なければ論外だ。とはいえ生前も幾度となく使ってきた代物だったため、余裕に思わず笑みが溢れる。


「ほう、試練というわけか。だがオレは生憎と、腕力には自信があってな。まあ、それを証明する良い機会だろう」


 立ち上がってハンドルを両手で挟み、目一杯力を込める。


「ふんっ!!」


 しかしネジは毛ほども動かず。オレの肉球だけが悲しく擦れる。だが、このまま引き下がっては男の名折れ。両手にありったけの気合を籠め、再戦を臨む。


「くそっ、この程度……!!」

「がんばれ〜」

「馬鹿にしおって……! うおおおお!!」


 背後で金属の板の視線を感じながら、死力を尽くす。だが結果は変わらず、情けなく座り込む。 


「っ、はあ、はあ……」

「ね? やっぱ難しいでしょ」

「そうだな……」


 慢心していた過去の自分を殴りたい。居た堪れなくなり、目線と耳が下を向く。


「……致し方あるまい。琴音、恥を忍んで頼む」

「はーい!」


 すっかり意気消沈した俺に反し、琴音は上機嫌でシャワーノズルを手に取った。


◇◇◇


 そうして時刻は23時を過ぎ。琴音とともに、彼女の部屋で就寝する。人生で数えるほどしか得られなかった、周囲に敵のいない、手放しで寛げる空間。しかし薄暗がりに不思議と血が騒ぎ、尻尾は左右にゆらゆらと揺れる。


『くそ、落ち着かん……。これも獣になってしまったが故か? ベッドを選んでいたら、間違いなく琴音に迷惑をかけていただろうな』


 流石に琴音と同衾するのは気が引けたため、床にブランケットを敷いて休むことにしていた。時折窓の向こうから聞こえる怪音に興味をそそられながらも、目を閉じて眠気が来るのを待つ。


『……それにしても、まだ転生初日とは思えん目まぐるしさだ。だが疲労に屈せず、明日からは一層身を引き締めなければ』


 肉球を握るように、ぎゅっと拳を作る。すると琴音がおもむろに上体を起こし、オレを見下ろす。


「……ねえ、ヨスガ」

「どうした。お前も寝付けんのか?」

「うん、少し気になることがあって。……ヨスガの奥さんや子供って、どんな感じの人なの?」

「そうだな……妻は少し気が抜けているが、料理が上手く可愛らしい。子供は娘が二人いるのだが、長女は責任感が強く、常に無愛想だった。だが一方で次女は穏やかで心優しく、常に笑顔を振り撒いていた」


 説明している際に、妻子の顔を思い出す。陽に照らされた海のように煌めく青い髪、グラスに注がれたロゼワインの如く透んだ桃色の瞳。


『――だが、オレはどんな人間だった?』


 彼女らの輪郭はハッキリと覚えている一方で、オレ自身がどんな風貌だったかは既におぼろげになっており。眉間にしわを寄せていると、琴音は顔を向けたまま横になる。


「ふぅん……」

「何だ。訊ねてきた割には、関心が無さそうだな」

「ううん、違うよ。何ていうか……ヨスガはほんとに異世界からきた人なんだな〜って、改めて思い知らされた感じ」

「ああ。それに関してはオレも痛感している。人々の見目や文化も、何もかもが異なっているからな」


 会話をしていると、次第に目蓋が重くなってきた。尻尾も揺れ止み、いよいよ睡魔が襲いかかる。すると琴音はそれを察したかのように、ふっと微笑みを浮かべる。


「ふふっ、明日から色々調べてみないとね」

「そうだな。そして無事に再会を果たした暁には、今度こそ……平穏な、日々、を……」


 誓うよりも早く、意識が朦朧とする。長時間張り詰めていた緊張は不意に途切れ、反動としてオレの動きを止めた。


「ヨスガ? ……ふふっ、寝ちゃってる。おやすみ、ヨスガ」


 意識が飛ぶ直前に、頭を軽く撫でられる。その温かさは、妙に心地良かった。

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