18、燃垣江利瀬の帰宅後は



 ※※※



 嫌だ、嫌だ、嫌だ! あんなところに戻るなんて絶対に嫌だ!


 光に閉ざされていく中、燃垣江利瀬は手を伸ばす。いきなりやってきたあの女神の首を絞めるために。いつだってこうしてきた。邪魔なものは、気に入らないものは全て排除すればいい。どんな手を使ったとしても。


「っ、殺してやる……!」


 だから、燃垣江利瀬は手を伸ばす。自分の行動を注意してきたクラスメイトを教室の隅で踏んで蹴って楽しんだときのように、相手の財布をひっくり返して中身を全部取り出したときのように、服を奪って写真を撮ったときのように。


私は悪くない。あいつが悪いんだ。


 死のうとするなんて根性が足りないんだ。こっちは少し遊んでいただけだというのに、迷惑なのはこっちだ。


 そう思っていたのに、気がつけばみんながおぞましい化け物を見るような目でこちらを見ていて、友達はみな首を振っていた。あの子と友達じゃありません、と。そう言っていたのが微かに聞こえた。


「殺してやる、殺してやる! 燃えて、消し炭になっちゃえ!」


 異世界に来て、燃垣江利瀬は安心したのだ。遺書を読み上げられた、その数日後の出来事だったから。家に帰る足が重くて仕方がなかったから。


 だからその矢先に異世界に来て、燃垣江利瀬は救われた思いだった。しかも特別な力があって、自分を呼んだという美しい女神が言うのだ。


「あたしの糧になるって言うなら、いくらでも好きにしてくれて構わねぇ。ここはいい。力さえあれば金も、酒も、女も、男も、お前の思うがままさ」


 夢のようだった。法律という面倒なしがらみのない、強者だけが恩恵を得られる世界。しかも、自分にはそのための力まで備わっている。


 燃垣江利瀬はすぐに女神に従うことを誓った。女神から与えられたという能力、異能を振るえば誰もが跪いた。頭の悪い乱暴者ばかりがいるのが気に障ったが、それも些細なこと。元居た世界を思えば、そこは楽園であった。


 だというのに、どうしてあんなところに戻らなければいけないのか。あんなところ戻るなんてまっぴらごめんだ。絶対に嫌だ。


 しかし、そんな燃垣江利瀬の考え通りにはいかず、手はいつまでたってもあの憎き女神に届いてくれない。それどころかどんどん遠のいていく。


「殺してやる――――っ!」


 憎い、憎い。あの青い髪が、見下すような冷たい金色の目が。こちらの気持ちなどまるで汲む気のない、あの冷徹さが、憎くてたまらない。

 燃垣江利瀬は叫んでいた。肺が痛くなるほど息を吸い込んで。もしも言葉が直接的に人を殺められるのなら、彼女の声は間違いなく女神の命を刈り取っていただろう。


 しかし、現実はそうはならず、気がつけば燃垣江利瀬は見知ったアスファルトの上に立っていた。叫ぶ口はそのままに、江利瀬の殺意だけが通学路の夕闇に吸い込まれて消えていく。


 通りかかったランニング中らしい中年男から、じろじろと不審がるような眼差しを向けられて、江利瀬は足早に歩きだす。


 最悪、最悪、最悪!


 知っている学校用の白いシューズも、ダサいからとわざと緩めたセーラー服のリボンも、使い慣れた鞄の持ち手も、何もかもが戻ってきてしまったという事実を強調しているようで腹立たしい。


 どこかに逃げてしまおうか、そう思う江利瀬だったが、ここは異世界でなく現実で、自分は異世界転移者でなく、ただの中学生であることに気づいてしまうともう項垂れるしかなかった。


 移動するには金がかかり、子供は夜中にうろつきでもしていたら、捕まって返されるのがこの現実世界なのだ。ついさっきまで、あんなに自由だったのに。

 だがそこまで考えて、江利瀬は気づく。


 ひょっとして、自分は長い間行方不明扱いだったのではないか?


 異世界では新参の部類だったとはいえ、転移してからかなりの時間がたっている。それこそ何年というほどではないが、中学生であるなら十分騒ぎになる長さだろう。


 ならば恐らく、と江利瀬は考える。「自分がやったことも有耶無耶になっているのでは?」と。それならば都合が良い。


 江利瀬は薄ら笑いを浮かべる。それなら誘拐犯でもでっち上げて、酷く恐ろしい目にあったのだということにしてしまえばいい。皆は新しい事件にすぐ食いつき、あんな地味な事件なんて忘れてしまうだろう、と。自分はせいぜい可哀そうに見えるフリでも練習しておけばいい。


 途端に足が軽くなった。こうなると返してもらえていいタイミングだったかもしれない、とさっきまで憎んでいたはずの女神にお礼まで言いたくなってくる。


「あー、きみ、燃垣江利瀬さん? 藻部中学の」

「えっ?」

「あ、やっぱり。江利瀬さんだよね?」


 誰だ、こいつ。

 突然見知らぬ男に止められて、江利瀬は軽快に動いていた足を止める。サングラスをかけた怪しげな風体の男は止まったことを了承と受け取ったらしく、にこにこと笑いながら話しかけてくる。 


「同じクラスの川山奏太そうたくん、知ってるよね? その子のことちょっと話を聞かせてほしいんだけど」


 背筋が凍った。


「っ、し、知らない!」

「えー? 知らないってことないでしょ当事者なんだから。ほら、そういうとこしらばっくれると心象も悪くなるよ? ほら、ぼくんとこで謝罪記事出したらさ、きっとお友達も」

「知らないし、わけわかんないことい、言わないでよっ!」


 凍った喉で何とか言い返し、まだ何か言ってくる男を振り払って家へと駆ける。バクバクと、心臓がうるさい。嫌な汗が幾筋も背中を流れる。


 家まで追いかけてくるかと思ったが、男は追ってはこないようだった。時間が空いてもまだあいつみたいなやついるんだ、と額の汗をぬぐいながら江利瀬は家へと続く角を曲がる。


「えっ、や、やだっ! なに、何っ⁉」


 その瞬間、視線という視線が突き刺さった。すぐに眩しくて目を開けていられなくなったが、シャッター音で撮られているということは理解できた。

 カメラのフラッシュを浴びながら、困惑の声を上げる江利瀬。そこに無遠慮な声が突き刺さる。


「おっ、本物来たじゃん。極悪非道の女子中学生。こっちに目線くださーい」

「川山さんは両足の複雑骨折で入院中だそうですが、どんな気分ですか?」

「悪いとは思わなかったんですか?」

「お友達は関与を否定してますけど、実際のところは?」


 頭が真っ白になる。そのせいで投げつけられる質問を理解できない。

 江利瀬は固まったまま、鞄が落ちたのにも気づかないまま、呆然と家と、その前にできた人だかりを眺める。


 眩しさに慣れた目は、残酷にも鮮やかに罵詈雑言の落書きでデコレーションされた江利瀬の家と、その奥で必死に頭を下げ続けている両親を映し出した。


 江利瀬に気づいた父親が、顔を真っ赤にして大股でこちらへと近づいてくる。


「江利瀬っ! お前もこっちにきて、頭を下げるんだ!」

「え、は? い、嫌だよ、だって私、誘拐犯に誘拐されて――」


 パシンと乾いた音がして視界が横に吹き飛ぶ。遅れてきた頬の痛みで、ようやく叩かれたのだと気づいた。


「この期に及んでそんな嘘までつくのかっ!」

「ち、違う! だって、私、ずっといなかったのに」

「何を言っとるんだっ! 今朝も登校してただろうがっ!」


 父親のその言葉を聞いて江利瀬は気づく。あの日から、自分が異世界に呼ばれた日から、一日だってたっていないのだということを。


「謝りなさい、江利瀬! 謝りなさい!」


 必死な母親の声が遠い、父親に引かれた腕が痛い。

 江利瀬は気づいてしまった。もう何もかもが手遅れで、ここから先一生このことからは逃れられないのだと。


 絶望した江利瀬は手から炎をだして何もかも消し去ってしまおうと考える。しかし力を与えてくれた女神のいないこの世界ではマッチ一本分の火すら、彼女の指先に灯ることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る