16、寝ている女神は気づかない
※※※
「もっと反対すると思ってた」
「……別に、子供らに罪はない」
「それはそうなんだけど、お兄ちゃんのことだからさ。もっと『罠かもしれない。用心すべきだ』って一晩は頷かないかと」
「オレの知っているカミラは嘘をつくようなやつじゃない。……ところでそれはオレの真似か?」
「似てるでしょ」
夜更け、影に沈んだ森の中でアルルは月の光を頼りに、兄同然の男の隣へと腰を下ろす。彼女を見下ろす目は「早く寝ろ」と口よりも達者に語っていたが、臆することなくアルルはちょうどいい岩の上で膝を抱える。
「それに、お姉ちゃんのことも。あんなに心配してたのになって」
「アルル。あれは得体の知れない女だ。懐くのもほどほどにしろ」
「それ、お兄ちゃんが言う?」
「……一応は、この場所を救ったやつだからな」
「一応ねぇ」
あの慌てようはどう見ても一応、には見えなかったけど。そう言いかけてアルルは言葉を飲み込んだ。この兄は注意するときの力加減を知らないのだ。ポールも自分も、何度頭のてっぺんにコブをつくったかわからない。
ただそれでも、彼らが怒った獣の形相に恐れを抱かないのは、その後の顛末を知っているからこそだった。
兄はそれこそ見るのも恐ろしい表情で怒ったが、たんこぶをこしらえるたびに、彼女が慕う祖母同然の存在から「力加減を覚えろ」と叱られていたことをアルルは知っている。それを大人しく尻尾を垂らして聞いていたことも。
この森の中でライゼは確かに誰にも負けない強者だ。けれど、それに負けないくらい恐ろしいほどの不器用でもある。それこそ今では面倒見のいい兄の顔ができるようになったが、初めも初めはそれもできずに、追放者たちからただ恐れられる存在だった。
「私に薬の壺持たせたときは何事かと思ったけど」
「……オレが入るわけにもいかんだろう」
「それは当たり前なんだけど」
初めて見たとき、アルルは彼を巨大な獣だと思った。誰にも触らせず、手を出せば噛み千切るだろうと本気で考えていた。
けれどそれは間違いで、ただ姿が違うだけの自分たちと同じ存在なのだと、「使え」と用意された小屋を見て思ったのだ。
不器用で、加減知らずで、用心深くて。面倒見がよく、けれど誤解されがちな兄。
だからアルルは突然やってきた女神の、兄への言動に驚いた。檻から出てきた彼女には、恐れも媚びも、なにひとつなかったから。
アルルはいっぺんにあの女神のことを好きになった。ライゼへの歯に衣着せぬ物言いが、なにより嬉しかった。
「お兄ちゃんも難しい顔してないで、見えないものが見えてるなんてまだ調子が悪いのか心配だったって言えばいいのに。ポールのとき、お姉ちゃん絶対誤解してたよ。顔真っ青だったし」
「……ふん、女神の言うことなんぞ信用ならん」
「もー」
「それに、あのときはお前を宥めるのに必死だったからな」
「あ、あれはいーの! 蒸し返さないでっ!」
自らの醜態を思い出し、アルルは膝に顔を埋める。我ながら酷い有様だったし、自分が友人の変化であそこまで狼狽するとは思っていなかった。確かに弟のような存在ではあるけれど、まさか泣くなんて。
うーうー言いながら足をばたつかせていると頭に手がポンと乗せられる。「もう寝ろ」の意だった。
「明日に響く」
「うん。明日、早いもんね」
「……不安じゃないか?」
「不安じゃないかっていったら、嘘になるけど。でもお兄ちゃんもカミラさんもいるし、それに、女神様もいるもの。怖いって言う方が失礼だわ」
女神と一緒にシュラ王国に行く代わりに、アルルたちも全員も連れて行くとライゼが騎士たちに約束させたのは、今日の夕方のことだった。
騎士たちを残していくという話もあったが、この森は魔物が出る。たった数人の騎士には任せられないと兄が言ったのだ。
確かに兄がいなくなった瞬間、ここは壊滅するだろうとアルルは思う。魔物は動物で、動物は力の強いものに従うもので、この森で何とか平和に暮らしてこれたのはライゼという強者の縄張りに守られてきたにすぎないからだ。
主がいなくなった縄張りがどうなるか。そんなの簡単に想像できる。
ぶるりと体を震わせて、アルルは立ち上がる。夜の風で体が冷えたのかもしれない。気づけば、座っていた岩もずいぶんと冷たくなっていた。少しだけと思っていたのに、かなり長い間話し込んでしまったらしい。
「おやすみ、お兄ちゃん」
「ああ、おやすみ」
寝る前の挨拶をすれば、振り向かずに帰ってくる返事。けれどそれは見張りの役割を疎かにしないためだと知っているから、アルルは特に気にもせず、月を背に小屋へと歩き出す。月の金色に毛先を染められた黒の毛並みが、瞼の裏にはりついていた。
薬の壺を渡されたとき、「何かあったら大声で叫べ」と言われたとき、アルルは言葉に表せない喜びに胸を支配された。
それには頼ってもらったという、役に立てていることへの嬉しさでもあったけれど、一番胸の内を占めていたのは、女神からの信頼に答えようとしている兄の姿への喜びだったのかも、とアルルは思う。
守るためとはいえ、尖った針のようにすべてを寄せ付けなかった兄が、やっと自分たち以外に心を開き始めたのだ。
ライゼは自分たちを守るためなら自分自身も犠牲にするのではないかと気が気でなく、その上今回犠牲にするとわかってしまったアルルにとって、兄が信頼し、助けとなってくれるかもしれない者が現れたかもしれないという状況は、ひどく喜ばしいことであった。
小屋の入り口を音を立てないように開け、アルルは中にそっと入り込む。ここも今日で見納めか、とずいぶんこざっぱりしてしまった室内を暗闇のなか眺め、そして葉を重ねたベッドに散らばる青い髪に気がついた。
「う、うーん、申し訳ありませんお客様……今回のことは当店の不手際が……あああいけませんお客様……ラーメンはいけません……」
何を言っているかはさっぱりだったが、女神がうなされているということはわかった。明け方の神聖な姿からは考えられない親しみ深い姿に、アルルはくすりとほほ笑む。女神も悪夢を見るのだ。
アルルはベッドの傍らに立って少し考えてから、女神の隣に横になる。今夜はほんの少し冷えるから。そう考えながら、アルルは空に浸したかのような青い髪へと鼻先をこすりつけた。冬の花を思わせる、さわやかで甘い匂いが彼女のまぶたをトロトロと閉じさせていく。
「アオイ様、どうか、お兄ちゃんと、ポールと、それからおばあちゃんと……みんなをお守りくだ、さ……」
幼いころに見た祈りの真似事は、眠気に段々と雑になり、最後の「い」は寝息となって消えていった。
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