08 それでは契約内容のおさらいを


 そんなこんなで、帝都に着いてすぐに婚約式が執り行われ、その後三日間、ユーリスから何も音沙汰がなかった。端的に言えば放置されていた。


 顔を見ないで済むのは正直ありがたいのだが、恐怖を先送りにしているだけだという感が否めないため、あんな悪夢を見続けているのだろう。


 エリーシャのいるサフィルス宮殿は、ユーリス皇子専用の邸宅だ。

 帝都の広大な皇族所有地の一画に、第一皇子邸であるディアマン宮殿の隣り合わせに建っている。

 かすかに青みがかった石材を利用して建築されたサフィルス宮殿では、前庭に広がる美しい池にすがたを映した冬の蒼空と、端正に整えられた美しい庭園に咲く深紅のカメリアが見ごろだ。


 宮殿には第二皇子付きの使用人が数十人出入りしており、エリーシャは皆の名前を覚えるのにも苦労していた。


 宮殿内は自由に出歩くことを許されていたので、庭園を散歩したり、書庫に赴きずらりと並んだ蔵書たちの背表紙を眺めたりと平穏な日々を送っていたエリーシャだったが、第二皇子婚約者付きとなったメイドから「ユーリス殿下がお見えになります」と告げられた瞬間、一変した。


「どどど、どうすれば……⁉ 謝罪の礼法ってどんなものでした……?」


 予想外のエリーシャの慌てぶりにメイドが気味悪がっていたのだが、予告された時間どおりにユーリスがエリーシャの部屋を訪れた。

 メイドにお茶の準備をするように命じて、二人きりになった途端、張り付けられた【帝国の薔薇】の微笑が消えた。


「ご機嫌はいかがかな、我が愛しの婚約者殿」

「ひぅあ、え、ええっと、ご機嫌ですとてもっ」


 何を口にしているか自分でもわからないまま返事をしたが、ユーリスは気にも留めなかった。きょろきょろと室内を見回している。棚に置かれた宝石がはめ込まれたオルゴールを手に取った。


「悪くはないね。適当に、年頃の女性が好みそうなものを誂えて入れておくようにいっておいたのだけれど。何か不自由はないのかな?」

「たいへん快適に過ごして、います……」


 びくびくしていたエリーシャを興味なさそうに一瞥した。形式上聞いてみただけで、文句を言い出せるような状況ではないのはお互いに承知している。正式に婚姻する前に自らの宮殿に住まわせた婚約者――にしては冷え切った視線が絡んだ。

 捕食者と被捕食者の格差にも似た、対等とは言い難い関係なのだから仕方がない。


 オルゴールを棚に戻し、ユーリスがエリーシャへのもとへと近づいて来る。今朝みた悪夢が頭をよぎった。


 銀の首輪、の代わりにエリーシャの左手の薬指にはユーリスから渡された指輪がはめられている。銀細工師に作らせたそれは、ユーリスの眸の色と同じ淡いブルーの宝石が石座ベゼルにあしらわれており、細いアームには薔薇の模様が刻印されている。


「どうしたの、そんな怯えた瞳で僕を見つめて」

「い、いえ……怯えて、など」


 いっそここで【同調シンク】を使えば、この品定めするような視線から逃げられはしないだろうか。

 いや、ユーリスは能力を発動した状態のエリーシャに気付き、声をかけあまつさえダンスまで踊ったのだ。逃れることはまず、不可能だろう。

 異能も万能というわけではなく、相性が悪い相手も存在する。家族間でも、能力同士が反発し合い、効果が打ち消し合うこともあった。ウィルバーが、想いを寄せる令嬢には【魅惑チャーム】が効かなかったと嘆いていたのを覚えている。


「僕と一緒にいるのに考え事とは――君はよほど、僕に興味がないようだね」

「滅相もないです、いつも殿下のことで頭がいっぱいです」


 嘘ではなかった。どうしたらこの厄介な男から逃れられるか、エリーシャはあのダンスパーティーの夜から考え続けている。


「エリーシャ……君という子は、ぐぅ!」


 何か言いかけたユーリスががくっと膝を折った。

 勢いよく振り返ると、第二皇子殿下は急にバランスを崩した原因を強制的に排除した。ひょいと持ち上げられた真白の毛玉が黒い手足をじたばたと動かしている。


「……へえ。この可愛げのない家畜、連れてきたんだ? 邪魔だな。丸々としてとして食べごろになったら厨房に連れて行くとしようか」

「申し訳ありませんっ、第二皇子殿下……! グルル……この子は私の唯一の友達なんです。どうかご容赦いただければっ」


 生命いのちの危機をおぼえたグルルがめえめえ悲鳴を上げた。必死の懇願を聞いてくれたのか、興味をなくしたのかは不明だがユーリスは仔羊を床に下ろした。


「これ、オスだよね? ふうん……男を入れるなんて、どういうつもりなのかな、君は。婚約者の居室に真っ先に入るのが僕じゃないとは、がっかりだよ」

「この子は羊です! 異性として数えないでください……」

「ペット可とは言っていなかったはずだけどね。僕は毛が多い動物があまり得意ではないんだ」


 じろ、とエリーシャを見下ろす視線の冷たさに縮こまっているとユーリスは「まあいい、許可する」とおざなりな承諾を寄越した。


「あっ、ありがとうございます、殿下……!」

「ユーリスでいいよ、君のことはそうだな……ご家族に倣ってエリーと呼ぶとしようか」

「い、いえ。エリーシャで結構です」

「エリー」

「……はい、ユーリス様」


 何事も従う。それが強者と弱者の関係性の基本である。

 そんな話をしているうちに、お茶の準備が出来たらしくメイドがいるあいだはわざとらしく睦まじいようすを演出していたユーリスだったが、退室してすぐにがらりと態度を変えた。


「そこに座りなさい」

「はい、ユーリス様……」


 いいえが許されない状況で対面の席に腰を下ろすと、ユーリスは組んだ手の上に顎を載せてエリーシャに向かい合った。


 テーブルの上に置かれた焼き立てのスコーンからは、ふわりと小麦とバターの香りが漂うが、空腹をまったく感じなかったので手を伸ばす気にもならない。足元ですんすんと鼻を鳴らすグルルにスコーンを割ってやった。


「婚約式の件なのだけれど」

「っ、ごほっ……ひゃいっ」


 口に付けた熱い紅茶が喉を滑り落ちる。火傷しそうなほどの熱にエリーシャは噎せた。


「君の演出は僕にも知らされていなかったよね。肝が冷えたよ……結果としては、君の神秘的な美しさを強調する結果にはなったのだけれど」


 ユーリスが言っているのは、エリーシャが婚約式でつけていた黒い仮面のことだろう。ちくちくと棘を指すような物言いは彼の特性ではあるが、久しぶりに会った婚約者相手にはさすがに手酷すぎる。


「申し開きがあれば聞いてあげるよ」

「……申し開き、というようなものではないのですが、妹のサエラの頼みで。お守り代わりに婚約式で装着けてほしい、と言われて」


 餞別として渡された中に、あの黒い仮面があった。なんでもフォレノワール家に伝わる嫁入り道具だそうだ。どうしてサエラがこれを持ち出したのかはわからないが、ヴィオラ――伯爵も、そうするといいわと勧めてくれた。


「それほど特別なものには見えないけれど……君の一族には、不可思議な能力があるわけだし、何らかの効果があったのかもしれないね」


 エリーシャが渡した仮面を眺めていたユーリスが、興味を失ったようにテーブルに置いた。


「では、エリー。契約といこうか――ひとまず、僕たちは晴れて婚約者となったわけだけれど正式に結婚するまでには幾らか時間が残されている。そうだね……引き伸ばしたとして一年ぐらいかな?」

「……一年、ですか」


 長いようで短い。嫁入り準備のためにあれこれ教師がサフィルス宮殿に派遣されてくるとの説明を侍従長から受けていた。


「そう。時間もある程度、拘束されるだろう――すまないね、面倒だとは思うけど皇子妃になる者の義務として受けてもらいたい」

「承知しました」

「ただ、この婚約期間に僕の目的が果たされた場合は、婚約破棄してあげてもいい。もちろん百対零で僕の責任という形で。出来うる限り、君には傷がつかないように取り計らうし、望むなら新しい相手を紹介してもいい。まあ、そのときになったら考えればいいさ」


 口の中に含んだ紅茶が渋く感じた。舌をびりっと痺れさせる苦みにエリーシャは顔をしかめる。


「その、目的というのは一体どのようなものなのでしょう」

「いい子だね。素直な子は好きだよ」


 開いた窓からぶわりと風が入って来る。レースのカーテンがゆらゆらと揺れていた。


「知っての通り、僕は病弱な第二皇子。身体の不調は常に感じているし、正直、いつお迎えが来てもおかしくないと思っている……ああ、ちなみにここは笑うところだよ」

「笑えるわけがないでしょう……」

「ふふ、君は本当に善人なんだね。そんな君の優しさに付け込んで僕は要求するよ」


 きらきらと輝く金髪が眩しくて――昼の光の中にいても、どこにいたとしても、何をしたとしても。このひとは汚れなく、綺麗なのだとエリーシャは気づいた。


「フォレノワール家の秘密を僕は誰にも言わない。その代わり――君はその能力【同調シンク】で僕の敵を見つけてくれ。これは命がかかった使命だ、失敗は許されない。拒否することも認めない。だって……」


 ――君は、僕の物だから。


 ユーリスはまっすぐに、エリーシャの瞳を見つめて言い切った。

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