30 祝勝祭 ―グレイス・ヴィクトリア―


「エリー、どうしたの」


 僕の婚約者殿はどうも落ち着かないね、とユーリスが揶揄うように言った。

 【祝勝祭】の会場は皇帝の居所であり政治の中枢を担うヴェルテット宮ではなく、同じく皇宮の中のルシャテリエ宮で行われるのが通例だ。

 サフィルス宮殿から移動する馬車の中で、ユーリスの横顔を何気なく眺めているうちに、つい――碧い双眸ばかりを注視してしまっていたようだった。

 先日、ヴィオラと地下室で見た絵の話をしたせいだろうか――どうしても意識してしまう。


「ユーリス様、あの……わたしに言っていないことはどれほどあるのでしょうか?」

「どうしたの、急に」


 ユーリスはどことなく面白がるような素振りを見せた。めずらしくユーリスのことに興味を持ったふうなエリーシャが物珍しかったのかもしれない。


「それはもう、たくさんあるよ。嘘と秘密は紳士の嗜みだからね」

「そのような嗜みは聞いたことがありませんが……」

「じゃあ皇族の嗜みということにしておこうか。簡単に手の内をさらしてしまうようなつまらない男に僕が見えるとでもいうのかな、君は」


 ユーリスは、饒舌なときほど機嫌が悪い。何かに怒っているのか、もしくは――恐れている。


「っ」


 眼前に迫った端正な顔立ちに心臓が止まるかと思った。ぎ、と馬車の座面が軋む音にはっとした。

 自分の手で唇を塞いだおかげで、ユーリスの口づけは手の甲を掠めただけだった。


「ふうん、考えたね。嫌なの、僕とキスをするのが?」

「いまは……口紅が取れてしまうので」


 とっさに考えた言い訳にしてはふさわしいものだ。今日の【祝勝祭】は最大規模の舞踏会だ。第二皇子の婚約者がみっともない姿で会場に現れたらいい笑いものになってしまう。


「……それもそうか。今日も、君は第二皇子の婚約者として完璧に振る舞ってもらわないと困ってしまうからね。期待しているよ」

「その、不審な動きがあればご報告します――えっと、必要に応じてわたしは【同調】を使いますので」

「ああ、そうだね――特に兄上の周辺には注意して。警備は厳重だけれど人の出入りが多いから、どうしても穴はある。僕は君が能力を発動していても姿を追える――目を離さないでおくよ」


 ジェスタ自身は好感の持てる人物ではあったのだが、やはり引っかかっているのはアナベル・ウィンダミア嬢のことだった。

 ラーガによれば、ジェスタ殿下はアナベル嬢に好意を持っているらしい。恋心を利用して接近し――何か、取り返しのつかないことが起きてしまわないか、注意を払う必要がある。


「もちろん、勘違いの可能性もあるからね。短絡的にアナベル嬢を悪者にしてしまえば彼女の名誉を傷つけることにもなりかねない……だから、君の助けが必要なんだ」


 ユーリスの言葉にエリーシャは頷いた。


「地下室での件もあるし、くれぐれも無理はしないで。身の危険を冒してまで尽くす必要はない――エリーは僕の『大切な婚約者』だからね」

「心配、してくださるのですか?」


 あたりまえだろう、とユーリスは微笑みを浮かべる。


「きみという共犯者がいなくなれば目的達成も危ぶまれる。僕はか弱い第二皇子、ユーリス・モレットだもの」

「いちおうお聞きしておくのですが……ユーリス様の目的、とは何なのでしょうか」


 エリーシャの問いに、そろそろ君も気づいているとは思うけれどね、とまるで鼻歌でも歌うような気軽さで言った。


「『ユーリス・モレット・ヴィーダを皇帝にしないこと』だよ」



 力強いラッパが吹き鳴らされ、入場者の名前が読み上げられていく。ルシャテリエ宮に集った貴族たちはそわそわしながらその瞬間を待っていた。


「ユーリス・モレット第二皇子殿下、パートナーのエリーシャ・フォレノワール嬢の入場です!」


 読み上げの声に【帝国の薔薇】を一目見ようと一斉に振り返った。

 やわらかな笑みを湛えたユーリスが開け放たれた両開きの扉からゆっくりと大広間へ入った瞬間に、誰もが声を発することを忘れ――息を呑んだ。沈黙がやがて興奮とざわめきへと変わっても、その中をユーリスは婚約者と共に悠々と歩んでいく。


「緊張しているね」

「あっ、当たり前ですっ……」


 小さな声で交わす言葉は観衆の声に掻き消される――見世物にでもなった気分だ。声まで震えてしまったエリーシャを最も楽しんでいる風なのがユーリスであることが腹立たしい。

 むう、と唇を引き結んだエリーシャをちら、と横目に見ながら完璧に振る舞うユーリスの姿に誰もが見惚れていた。

 ユーリスは深い青のジャケットには黒のタイを合わせて全体的に重めの印象だが、パートナーであるエリーシャは、ユーリスの眸の色と同じアイスブルーのドレスを選んでいた。腰の部分にあしらわれた白のリボンやスカート部分の銀糸の刺繍が軽やかに見せ、ふたりのバランスを取っていた。


「エリーも背筋を伸ばしなさい。『薔薇』の隣を歩くのだから視線を浴びることにも慣れないとね」

「はい……ぅ、あっ!」


 ドレスの裾を踏んで躓きかけたエリーシャをさりげなくユーリスが支える。いかにも睦まじいようすに周囲の視線も心なしかやわらかくなったように感じた。

 

「もしかしていまのは計算かな?」

「違います……ユーリス様はわたしをなんだと思っているのですか」


 冗談だよ、と甘やかな声音でユーリスは囁いたが、何を考えているのかエリーシャはいまだに読み切れないところがあった。

 中央まで進んだところで、背後で大きなラッパの音が鳴り響いた。思わず振り返ると、先ほど自分たちが入って来た扉の前に立つ男女の姿が目に入る。


「ジェスタ・ダヴィド第一皇子殿下、そして……パートナーのアナベル・ウィンダミア嬢の入場です!」

 

 かすかにユーリスの表情が強張ったのがわかった。ユーリスが入って来たときよりもざわめきが大きい。何故、ウィンダミア嬢がパートナーなのかと囁き合う声が響いた。


 ――ラーガ兄さま、わたしは聞いていませんよっ!


 集まった人々の中に長兄の顔を探しながら、エリーシャは焦りを隠しきれないでいた。ゆったりとした足取りで中央の、ユーリスとエリーシャがいる方へふたりが歩いて来る。

 いつのまに、ジェスタとアナベルの仲が進展したのだろう。エリーシャとしてはふたりの仲を取り持つようなことはしなかったのに――。


「ユーリス。具合が悪いと聞いていたが大丈夫なのか」

「こんばんは、ジェスタ兄上。ええ、おかげさまで……。ところで、そちらの美しい方をご紹介いただけますか?」

 

 深紅のドレスに黒い羽根のついた髪飾りの女性が、優雅にお辞儀をした。


「ああ。此方はアナベル・ウィンダミア嬢――おまえも、何度か夜会で顔を合わせているだろう」

「もちろん、存じていますよ。このように美しい女性の顔を忘れはしません。ご機嫌よう、アナベル嬢。昨年の春、お母様が開催されたパーティーでお見かけしたような記憶が……いや、別の機会だったかな?」


 アナベルはぎこちない笑みを浮かべた。


「……ユーリス殿下にご挨拶が叶い、嬉しく存じます」

「侯爵家のお茶会では、僕の婚約者が世話になったようですね。ねえ、エリー?」

「あっ、は、はいっ! アナベル様、こんばんは。素敵なドレスですね」

「ありがとうございます、エリーシャ様」


 淡々と受け答えをしているものの、アナベルはどこか上の空だった。別のことに気を取られているような――そのとき、エリーシャはぞくりと背後から鋭い視線を感じた。

 先ほどまで向けられていた羨望の眼差しとは明らかに違う、明確な悪意。

 振り返っても会場内の多くの紳士淑女の中に紛れて、その持ち主を特定することは困難だった。寒気を堪えながら、何事もなかったような顔で会話を続ける。


 既に戦いは始まっているのだ、とエリーシャは直感していた。


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