34 罠 ートラップー

 レミル公子と話している間もエリーシャはアナベルの行動を注意深く観察していた。ゆっくりと今度こそ誰ともぶつかるまいと気を付けながら、気取られないよう移動していく。


「アナベル様は、あの位置で……殿下が飲んでいたグラスはテーブルの左端」


 エリーシャは談笑する人の輪に入るようにして姿を隠し、さりげなくテーブルに近づいた。そっと覗き込めばグラスの水面がかすかに揺れ、泡立っているのが見えた。

 

 ――何かが混入された可能性が高い。


 そのとき、エリーシャが近づいてきたせいかアナベルはさっとグラスを手に取った。他の者が誤って取らないようにしたのだろう。


 薬品を入れたのだとしたら、可能性があるのは媚薬だろうか。


 第一皇子と関係を持ったということになれば、婚約者もしくは愛妾として重用される可能性も出てくる。そうすれば家計が苦しいと評判のウィンダミア家の財政状況も少しは改善するかもしれない。浪費家の母親がいれば、難しいかもしれないが。


 もしくは――毒であるのかも。


『第一皇子は、死に至るでしょう』


 街で見かけたアナベルと老女のやりとりが頭をよぎる。

 それにティーパーティーで見かけた男との会話もある。あのときは何を話しているのかはわからなかったが、言い争うような強い言葉にアナベルは委縮しているようにも見えた。

 口に出すのも憚れる恐ろしい計画に関与しているのでは、という疑いがエリーシャの中でどんどん育っていく。


「……突き止めなくちゃ。わたしはエリーシャ・フォレノワール――ユーリス様の『婚約者』だもの」


 激しく鼓動する心臓が胸を突き破って飛び出してこないよう、ぎゅっと掌で押さえ込んだ。

 じりじりと距離を詰めてもアナベルはまだ気づかない。

 ひとには感知することが可能な範囲がある。その意識の内側には入らないように注意しながらアナベルの斜め後ろに回り込むと、エリーシャは彼女の視線の先を追った。


 じっと、食い入るようにひとりの男性の姿を見つめている。華やかな容姿とは言わないが、薄茶色の髪に眼鏡をかけた深いグリーンの双眸が知的な印象を与える。にこやかな笑顔で仲間と熱の入った会話をしているらしく、アナベルの視線には気づく気配がなかった。

 痛みを堪えるように唇を引き結び見つめる表情は切なげで、ついエリーシャまで胸が苦しくなった。


 そうか――アナベル嬢はあの方のことを。


「アナベル様」


 思わず声をかけると、はっとしたように振り向いてエリーシャに目を留めた。


「エリーシャ様。いつからそこにいらっしゃったのですか? 声を掛けてくださればよかったのに」


 アナベルは淡々とした口調で会話を繋いだ。茶会で会ったときの印象とあまり変わらず、意志の強い瞳をした令嬢だった。他人に媚びることを是としない、誇り高さがある。

 すらりと背が高くてスタイルがいい。背中の露出が多いドレスを着ていても下品な印象にはならない細身の身体つきには、しなやかな獣のような美しさがあった。


「そのグラス」

「……はい?」


 エリーシャは、ぎこちなく微笑みながら指さした。


「喉が渇いてしまったので、一口いただいてもよろしいでしょうか」

「いえ、これは飲みかけですので。新しいものをいただいたほうがよろしいかと」


 動じることなくアナベルは答えた。ぎゅ、と爪が掌に食い込むほどに力が入る。此処でわたしが引いては駄目――ユーリス様のためにも、ジェスタ様のためにも。


「どうしてもそれが飲みたいのです。先ほど、アナベル様が『秘密の調味料』を入れていたのを見かけましたので……是非味わってみたくって」


 さっとアナベルの顔色が変わった。


「エリーシャ様。何をおっしゃっているのかわかりませんわ」

「そのグラスはどなたのお飲み物ですか? アナベル様のものでしたら飲んでみてくださいませ。感想をお聞きしたいです♪」


 ぱん、と手を打ち鳴らしておねだりするようなポーズを取った。


「それとも――そちらはジェスタ殿下のお飲み物だったりするのでしょうか? いずれ皇太子となられるだろう方が口にするものに……こっそり、何か刺激の強いお薬を混ぜたりなんて、してませんよね」

「っ、エリーシャ様……!」


 アナベルは「何か勘違いをなさっているようですわ」と力なく首を振った。血の気の引いた表情のまま、庭園に通じるドアの方へと足早に歩き出す。


「あ……待ってくださいっ」


 エリーシャは、グラスを持ったまま庭園に出たアナベルの背中を追いかけた。

 もしかするとエリーシャが問い詰めたことでアナベルが薬品入りのグラスを自分で呷ってしまうかもしれない。もし毒薬だとしたら――そんなことをさせはしない。絶対に。


 足元が暗いので躓きそうになりながら、前を歩く白い背中にエリーシャはついていく。ホールの中は暖められていたが、黒雪月じゅうにがつの夜は肌寒いどころではない。極寒だ。雪が降っていてもおかしくない。


 薄着で仕立てられたドレスで寒風に晒されていては、ユーリスならすぐに咳が出て寝込む羽目になるだろう。もちろんユーリスはドレスなど着ないのだが――いや、エリーシャは愉快な想像ににやけている余裕などないのだった。


「アナベル様っ」


 証拠品を此処で押さえれば、ユーリス様の役に立てる。アナベルを説得してグラスを手に入れなければ。そうすれば、風向きが変わる。


 皇宮における何者かの悪意のかたちがはっきりと見えてくるかもしれな――い。

 そこまで考えたところで暗闇の中で火花が散った。


 ご、と後頭部に強い衝撃が走る。


 途端に、目の前が真っ暗になった。

 身体の自由がほとんど効かない。軸を失った脚から力が抜け、よろけて傾いで、そのままうつぶせに倒れた。


 嘘。わたし、どうして。痛い。頭が熱い。たすけて。


 ――ユーリス、様。


 倒れる寸前、とっさに薬指から引き抜いた指輪がてんてん、と低木の茂みの近くまで転がっていく。

 その白銀の光の軌跡すらエリーシャは見ることはかなわなかった。


 己の身になにが起きたのか考える余裕もなく、エリーシャの意識は庭園の青い闇の中へと沈んでいった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る