16 これはいわゆるデート、というものでは
ヴィーダ帝国の帝都、グレイスローズ。
売り買いの声を張り上げる人々の群れを離れたところからひとり眺めている者がいた。黒縁の眼鏡をかけ、ハンチング帽をかぶった青年である。
くたびれた背広を羽織り時計台の下で人待ち顔で立つ姿は垢抜けないのに、通りすがりの娘たちの注目を不思議と集めていた。やけに美しい金髪と、眼鏡の向こう側の知的な碧の双眸のせいかもしれない。
そんな青年に、グレージュのブラウスと格子柄の臙脂のロングスカート姿の少女がゆっくりと歩み寄った。つばの広い帽子を被り、人目を惹く色素の薄い髪をその中に押し込めて隠している。
「ゆ、ユーリスさま、お待たせいたしました……」
小声で話しかけると、青年は片眉を上げた。
「珍しい名前というわけではないけれど、様付けで呼ばれるとそれらしくて目立つんじゃないかな。エリー? それにしてもその帽子は妙だね。不自然だ」
自分こそ帽子を被っているくせに、ユーリスはおもむろにエリーシャから帽子を奪った。
「ゆ、ゆっ……ユーリスさ……いえ、ユーリスっ!」
よく出来ました、とユーリスはエリーシャの頭を撫でた。手で無造作にかき混ぜられた銀灰色の髪は、風に靡いてさらにもつれた。ユーリスから帽子を取り返して再び被り直したが、もう綺麗に押し込めることは出来なさそうだ。ぼさぼさの髪を整えてから再び帽子を被ったエリーシャを見て、ユーリスはにやにや笑っていた。
子供の悪戯のようなことをするユーリスにエリーシャは嘆息する。
そもそも今日だって何故だか急に(ユーリスの思い付きで)、一緒に外出をすることになってしまった。いわゆる
「あのう、待ち合わせする必要があったのでしょうか?」
エリーシャは婚約者であるユーリスの居所であるサフィルス宮殿に住まわせていただいている。べつに一緒に出かければよかったのではないか。そう指摘すると、ユーリスは「それでは意味がないだろう」と呆れたように言った。
「僕たちは恋人らしい振る舞いを学ぶために街に出たんだよ?」
「それは、そうですが……」
来る夕食会(皇族ほぼ全員出席)に向けて、人前でも婚約者らしく振る舞えるように模擬演習をしておこうということになり、予定を合わせたのはよいのだが――具体的に何をどうするかは当日まで決めていなかった。もしかすると忘れていたのかもしれない。
「恋人というのは、こうして待ち合わせをするものだと本で読んだことがある」
「そ、そうなのですね」
読書は必要な知識を補うために行う、と割り切っており小説の類はあまり読んだこともなければ、同性の友人もいなかったのでエリーシャはその手の話題にひどく疎かった。
「なんでも待っている間も相手のことを考えて気持ちが盛り上がるとかなんとか……」
「ユーリスさ……もそうでしたか?」
「この時計台前はその手の待ち合わせの定番らしくてね。よそよそしい雰囲気で言葉を交わす男女の姿を見かけたよ。とても参考になった」
あくまで観察者の視点であることにエリーシャは苦笑した。客観的すぎるというか――まあ、その方がユーリスらしいし、自分たちの奇妙な関係にはふさわしい。実際、すこし離れたところから護衛の者がユーリスの挙動から目を離さないでいた。目的のために必要なことをしている、という感覚なのだろう。
「では、お手をどうぞ」
「……どうも」
腕を組んで歩き始めると街の風景の中に溶け込めたような気がした。エリーシャは社交シーズンに帝都を訪れても、フォレノワール伯爵家別邸に引きこもって外出はほとんどしていない。どこへ向かっているのかもよくわからなかった。
オレンジ色の石で築かれた橋の上を多くの人が行き来している。何か目当てのものでもあるのだろうか、きょろきょろしているとユーリスが怪訝そうにエリーシャを見遣った。
「落ち着きがないな……僕の婚約者は何を探しているのかな?」
「いえ、あまりにひとが多いのでびっくりしてしまって」
フォレノワール州は人間よりもヤンペルト羊の方が多いと言われている。人酔いしそうだと思いながら、エリーシャは左手で橋の欄干を掴んだ。
「あっ、ユーリス様!」
「様、はつけないと言ったじゃないか。どうしたの、そんな大きな声を出して」
見てください、とエリーシャは川面を指さした。
グレイスローズの雑多な市街と、皇宮近辺の景観維持が厳しく定められた特別地区とを隔てるテデュース川の上に、より寒い地域から飛来した渡り鳥が身を寄せ合って翼を休めていた。純白に斑の茶色が混ざった羽と頭頂部の瑠璃色がよく目立つ。
「可愛いですね……」
「知っているかい? あの野鳥、カワハミガモは夫婦仲が良い象徴のように言われているのだけれど、実際は一年ごとにパートナーを変えるそうだよ。まるでダンスでも踊るかのような気軽さだね」
「さすがユーリスさ……は博識ですね。でもいまそのお話をする必要が……?」
そのとき、バサバサと勢いよく羽搏いて、水面の鳥たちが一斉に水面を飛び立った。列を作り、東の空へと飛んでいく。ぼうっと風で飛びそうな帽子を押さえながら空を見上げていると、ユーリスが食い入るように此方を見ていることに気付いた。
「どうかしましたか?」
エリーシャが声をかけると、ようやく我に返ったようにユーリスがゆっくりと瞬きをした。眼鏡の向こうの双眸は相変わらず凍えた色味なのに、なぜだか柔らかく思える。
「――綺麗だな、と思っただけだよ」
「そうですね。こんな景色が見られるのなら冬も悪くないかもしれません」
澄んだ冬空を自由に滑空する鳥の影に、エリーシャは目を細める。
「……どうかしているな」
ふいと顔を背けて歩き出したユーリスの予想しなかった動きに足が縺れ、転びそうになる。よろけたエリーシャを抱きとめ、支えた。
「っ、わ!」
腕の中からユーリスを見上げる。
こんな顔をしていただろうか。もっと冷たそうな、顔をしていたような気がする。
「まったく……君は危なっかしいな。一瞬も目が離せないじゃないか」
「申し訳ありません……お手を煩わせてしまい」
「――いや、君は悪くない。行こう、このまま外で突っ立っていたら寒いだろう? 手が冷たくなっている」
黒皮の手袋越しのユーリスの手が温めるようにエリーシャの手を挟んだ。奇妙なことに、じわりと熱を帯びたのは手ではなくて頬だった。
「あ、あれっ……」
「エリー?」
きゅう、と胸が締め付けられるように痛む。体調でも悪いのかもしれない、そう思いはしたがこの感覚以外はいたって正常だ。ただ、ユーリスを見ていると頭がぼうっとする。絡んだままだった視線をそっと外し、ぎこちなく歩き始める。お互いいちどほどけてしまった会話の糸口を掴めずに、無言のままだった。
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