逃げ鏡

ライブハウス

ふと視界に入ったライブハウスに入る気になったのも、渉から一向に連絡が来ないせいだった。すでにバイトは終わっている時間なのに、何をやっているんだろう。退勤の打刻を打ったらすぐに、スマホを取り出すのが現代人ではないだろうか。


もしかしたら、道中に事故に遭ってしまったのだろうか、それともバイト先の書店に強盗が立て篭もったので、連絡をする暇がないのでは…。


というマイナスな妄想をやめたかったのもある。自分も何かに集中した方が有意義に時間を潰せる。そのライブハウスは大通りから外れた裏路地に、いかにも箱といった佇まいでひっそりと存在した。ドアに張り出されているプログラムを見ると、昼間からアマチュアの団体がアコースティックライブを開催しているようである。


厳重に閉ざされたドアを開けると、低い女性の歌声が全身に降り注ぎ、歓迎するように包み込んだ。どこかで聞いたことのある海外の曲だ。


「いらっしゃい」

受付の女が無表情で立ち上がった。大きな細縁眼鏡はカマキリを思わせ、異様に細い手足もそれを際立たせた。女性らしい曲線の色気が全くない。女は何かぼそぼそと言った。ステージの声にかき消されて全く聞こえないので顔を近づける。エキゾチックなスパイスの香りがした。


「チケット代、プラス、ワンドリンクで1,500円」


「すぐにドリンクを交換したい。メニューは?」


女は僕が出したお金を数えずにカウンター下に押しやると、すぐ横の写真立てを指さした。そこには手書き文字の、色あせたメニュー表が飾られていた。じっくり吟味した後、落胆の声を上げる。


「なんだ。お酒はないの?」


「未成年には売れない」


「未成年じゃないと言ったら?」


「証明できるものを出して」


「生憎持っていないんだけど」


「なら、売れない」


僕はちらりと受付の女に視線を向ける。うねった長い髪は胸元を置い隠すほど伸び、下に行くほど明るい色のグラデーションになっている。年は僕よりいくつか上だろうか。いちいち無愛想だが、媚びない態度に好感を持った。


「じゃあ、ジンジャエールを。あと、君の連絡先を教えてよ」


女は何も言わず、再度メニュー表の近くを指さした。小さな名刺にライブハウスの位置が記された地図と、オーナーの連絡先が書かれている。どうやらフラれてしまったらしい。


ジンジャエールを受け取って、僕はステージから一番遠い隅っこの椅子に腰掛けた。ちょうど転換時のようで、青いライトが控えめにステージを照らしている。


残ったものは、一抹の寂しさと絶望だった。白いベッドシーツの上で胸を上下する裸の女を思い出す。理想の女を我が物にして、それが終わればどうでも良くなった。すぐに風呂に入って、恋人の胸に飛び込みたかった。


今も裸のまま横たわっているのかもしれない。母親は異変に気づいただろうか。僕のことを通報するだろうか。そうしてもらって構わない。暗がりに連行されたとてこう言ってやればいいのだ。彼女の願いを聞き入れたまでだ、と。


演者と思しき男が楽器を持って入場してきたとき、観客の一部にどよめきが起こった。聞き耳を立てると、あの楽器がベースであることに驚いているらしい。


確かに弾き語りでベースは珍しい。しかし目新しいものでもない。ライブハウスに数回通っただけの僕でも何度か見たことはある。


彼の準備を待っていると、受付のカマキリ女がカウンターから出て、ステージに近い場所に椅子を置き、腰を下ろした。


ステージの男がそれに気付いて手を振ると、女は口角を上げて手を挙げた。分かりやすい親密さに、そういうことかと納得する。

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