上品なたまごの割り方

秋冬遥夏

一品目「オムライス」花音side

 換気扇から甘いたまごの匂いが漏れていた。台所の小窓からは温かい光がこぼれて、彼女の影が動いているのが見える。美味しそうな匂いに誘われて戸を開けると、彼女はキッチンから首だけを出して、嬉しそうにはにかんだ。

花音かのんちゃん、おかえりなさい!」


 ここ最近の私は、この言葉だけが生きがいだった。彼女の「行ってらっしゃい」が聞きたくて家を出て、「おかえりなさい」が聞きたくて帰宅する。私はハイヒールを脱ぎながら、今日もしあわせって思った。

「花音ちゃん、今日はね。オムライスだよ」

「え、まじ?」

「うん、上手にできた」

「さいこーじゃん」

 エプロンを解いてから彼女は、丁寧にオムライスを机に運んでくれた。その後ろ姿はバレンタインにチョコをあげる小学生みたいで、胸が鳴るものがある。

「めっちゃうまそう!」

「そう? よかったあ」

 そのオムライスは、魔法の味がする。たまごには砂糖が入ってて、ケチャップはたまごの下に隠されている。なんで下に隠してるのって聞くと、彼女は毎回恥ずかしそうに顔を赤らめて「ないしょ」って叫ぶ。

 私は部屋着に着替えたあと、すぐに彼女の待つテーブルについた。そしてあの日の思い出を掬い取るように、ふたりはスプーンを持って、いただきますって声を上げるのだ。


 彼女との出会いは風が冷たい仕事帰りのことだった。手元の缶チューハイは9%で、残りの91%はさみしさでできている。つまるところ、私はその日失恋をした。

 彼氏からの「他に好きなひとができた」なんてありきたりで、真偽もわからない連絡で、私は生きる意味を見失った。家に帰ったら腐ってしまいそうで、近くの公園に寄ったのが、今思えば運命の始まりだった。


 ベンチで休んで、気持ち悪くなったら公衆トイレに駆け込んで、またベンチに戻って休む。その往復の途中で、ふと彼女を見つけた。すべり台の後ろで、息をひそめて泣いている、若い子って印象だった。

「え、どしたん」

 彼女は固まって動かない。その姿は、ライオンに怯えるウサギみたいで、愛おしかった。数分間、見つめていると彼女は、息をひとつ吐いてから、震える声で話し始めた。


「あの、私。五十嵐いがらし那月なつきって言います。助けてください。追われているんです。元カレがストーカー気質で——」


 そのとき、一緒だと思った。失恋した私と、ストーキングされる彼女。同じ恋愛に悩む人間として、確かな親近感がそこにはあった。

「えっと、ここだと危ないから。うち来る?」

「え、いいんですか?」

「いいよいいよ、てか来な?」

 彼女は蜘蛛の糸を見るように目を潤ませて、ありがとうございますって言ってた。

「うち、散らかってるけど大丈夫?」

「いえいえ、ありがたいです」

 こうして失恋をした公務員の私と、ストーカーに悩む大学生の彼女の、奇妙な関係が始まった。そして状況が落ち着くまでは、私の部屋をシェルターとして使うことになった。急な出来事だったが、私もさみしかったから、ちょうどよかった。


 確か、はじめて彼女が作ってくれたのも、オムライスだった。冷凍ごはんとたまごしか冷蔵庫になく、彼女が驚いていたのを今でも思い出す。

「あの、私。これから、ごはん作ります」

 オムライスを頬張りながら、彼女は言う。

「え、いいよ」

「いいえ、部屋を無料で借りている身なので、家事くらいはやらせてください」

「そう? やってくれるなら、マジ助かるけど」

 彼女は兄弟が多く、昔から下の子のご飯を作ってたから、料理の腕には自信があるとのことだった。特にたまご料理が得意で、毎回一品はたまごを使った料理が出た。


 あれから、毎日の食事が楽しみになった。朝は目玉焼き。お弁当には卵焼き。カニ玉や茶碗蒸しだって作ってくれた。いつか彼氏と食べたコンビニ弁当の味を上書き保存してくれる、どれもやさしい味がした。

 そして、いま目の前にあるオムライスが、私はいちばん好きだった。黙々とふたりで食べていると、スプーンが食器にあたる音だけが部屋に響いて、少し楽しい。

「ちょっと、トイレ借りるね」

「どうぞー」

 彼女が席を立った今が、チャンスだった。気になるのは、ないしょのたまごの下。箸をいれて、たまごの布団をめくってみる。緊張の瞬間だった。


 そこには、ぐちゃぐちゃになったケチャップでも、確かに読める字で「すき」と書かれていた。彼女がたまごに隠しているのは、密かな恋心だったのだ。

 洗面所で彼女が手を洗う音が聞こえる。私は慌てて、たまごを元に戻してから、それを口の中にかき込んだ。

「おまたせー」

「ううん、ぜんぜん!」

 たまごの甘さが口に広がって、恥ずかしくなった。私はいま「すき」を食べている。失恋から始まった関係は、新たな恋を運んできてしまった。彼女は女の子で、私ももちろん女性で、ではどうしていこうかと考えていた。

「かのんちゃん、大丈夫? ぼーっとしてるけど」

「ううん、大丈夫」

「そっかあ」

 彼女は今日も、やわらかい笑顔を見せる。そこに胸が弾む音がして、仕方がなかった。

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