負けず嫌い二人

雨宿

第1話

一番でいなさい。そう言われて生きてきた。

当時小学生四年生だった俺は、 今となって思えばなかなかの面倒な親の元で育ったと思う。勉強は当然ながら運動も先生からの評価も同級生からの人気も。何もかも優秀でいろと、両親は俺に何度も言い聞かせた。全部出来れば幸せになれると、そう信じていた。

実際に俺はなかなかに優秀だった。小学生のテストなんて表百点、裏五十点の簡単なテスト。一日一時間も勉強すれば満点くらい容易い。通知表は全部五、クラス委員もやって、先生からも信頼のおける生徒であった。その時、そこそこ容量の良かった俺にはあまり苦痛ではなかったのだ。

両親の期待に応えるのは楽しかったし、先生や友達に頼られるのも嬉しかった。

それが、忘れもしない夏頃。その子は俺のクラスに編入してきた。可愛い女の子だった。美しい髪は腰まで届くさらさらの焦げ茶色。整った顔立ちはまだ幼さがあって可愛い印象が勝っていたが、美女と呼ぶのにふさわしい女の子になるだろうことは目に見えていた、そんな子。

彼女は、人では無かった。

人と獣の混じり物。人のように二足歩行をしながら、獣の特性を受け継いだ世にも奇妙な存在。獣人。

そして、人間よりもはるかに秀でている上位種だ。

ぴょこぴょこっと揺れる俺たちとは違う耳。犬型だ。

黒板の前に立って強気に足を開き、ピンと腰をのばした自信満々な笑顔が俺の脳裏にその日、呪いのように染み込んだ。

ゆらりとスカートの下から除く一本の尾。明らかな俺たちとの違いが、クラスメイトの視線を受けてぴぴぴっと揺れた。


衝撃的な犬の少女が現れてから早くも三月。

突然現れた美少女転校生に俺の居場所が奪われる──なんてことは当然無く。ただひとつ、ずっと死守していた体育の授業での一番が彼女になったことだけが俺に襲いかかった変化だった。

親に叱られるかという危惧もしたが、転校生が来たことを伝えると「まぁ、獣人なら仕方ない」と別段俺を咎めることはなく、両親は顔を見合わせて笑った。

それもそうだ。まず、獣人と人では基礎的な能力がまるで違う。上位種とはよく言ったものだ。人間では太刀打ちできないから格上なのだ。そんなものと張り合うなど馬鹿げている。まさしく無謀かつ無意味なのだ。

たとえば、クラス委員の仕事でみんなのノートを抱えて持っていく時、俺なら重さによろけながら職員室までの階段を登っていかなきゃいけないのに、彼女は足を大きく開いて助走を付けて数段飛ばしで駆け上がっていく。実際に仕事を押し付けたわけじゃない。優しく明るい彼女はすぐに周囲に溶け込んだため、俺にも当然のようにちょっかいをかけてきた。お優しいことにも、俺の仕事を勝手に手伝ってくるようになった。

人間のくせにこんな大荷物一人で運ぶなんて馬鹿じゃないの。

手伝ってくらい言えばいいのに、とは彼女がよくボヤいていた文句だ。

だが、この子は俺の荷物を奪って階段を駆け上がって行くたびに絶対に転ぶか腕の中のものをぶちまけるのだから、学べばいいのに。俺よりは賢くないらしい。そういや、教科書に突っ伏して寝てる姿もよく見る。走った時靡く髪はとても綺麗なのに、惜しいやつだった。

忙しなく走り、どこでも跳ねる。

美しくて誰にも負けない運動神経を持つ彼女だ。

誰もが彼女の次に早く走る俺を褒めた。一番早いと。

すぐ横に風を切る女をおいて、何を言っているのか。

上位種だから勝てなくて当然というのは、わかっている。

だが、それでも。

それでも、やはり勝ちたいという思いはずっと捨てられなかった。

勝てるはずがない。知っている。

勝てなくて当然。わかっている。

──けれど勝ってみたいと思ったのだ。

お前の得意分野で。

一番出ないと満足出来ない人間にしておいて、負けを傍受しろなどと良くも言えたものだ。


そうして始めた毎朝のランニング。

·····だったが、どこかしら聞きつけたのかそのバカが度々顔を見せるようになってきた。私も! とついてくる。人の気も知らずに。

オマエに勝ちたいのに、オマエまで鍛えてどうするんだ。意味が無くなるからやめて欲しい。頭を抱える気持ちだったが、それでも邪険に扱うことが出来なかったのは彼女の無垢な笑顔故だろうか。

早起きは苦手と言っていたのに、いつの間にかわざわざ家の前からではなく近所の公園からスタートしている。

投げ出すことも出来ず、遠ざけることも出来ず。

結局、毎朝着いてくるようになり俺の試みは彼女の成長の手助けをして終わった。

……全く、特等席で彼女の走る姿が見えることくらいしかいいことがない。


学年が上がると彼女とはクラスが別になり、合同授業の体育ですら男女分けがされるようになった。

しかし、名残惜しいかといえばそうでも無い。

その後も変わらず彼女は毎朝のランニングには姿を表す。待ち合わせをした覚えはないのだが、このバカは朝に会えないと泣きそうになりながら学校中を探し回りだす。

迷惑をかけたらしい友人たちに懇願され、不本意ながら遂には連絡先の交換までしてしまった。

ちなみに家を教えていたら間違いなく突撃してきたであろう勢いだったと先生からも聞いた。風邪だ。

中学生になっても、その特別な朝の時間は続くと思われたけれど、そんな「ずっと」なんてことは当然有り得なくて。

彼女は彼女らしく、獣人のための陸上強豪校へ進学した。全寮制だ。

一番であるということに強い感情を持っているようには見えなかった彼女だったが、彼女にとって走るということは特別ではあったらしい。確かに彼女は身体を動かして全力で取り組む楽しさを間違いなく知っていた。──だって、そんな彼女に俺は魅了られているのだから。

俺は、そんな彼女にのめり込むように、対抗するように、意地を張るように進学先で陸上部に入った。

結局いまのいままで、ただの一度も彼女には勝てなかったけれど、だからってここで折れるのは癪だった。

朝のマラソンの時だってそりゃあ全力疾走していた訳では無いけれど、それでも俺の速度に合わせてくれてたのは分かってる。

オマエはオマエで好きなとこで走ればいい。

こっちは、お前がいなければいつだって一番なんだから。


……ちなみにこれは余談だが、何故か彼女の休みの度に連絡が来て、わざわざ遠くの学園にまで呼び出され、休日のほとんどを不意にした。俺だって部活で休みが少ないことをアイツは忘れているに違いない。


彼女の公式戦を見に行った。アイツが来い来いって言うから仕方なしに見に行った。スタート前のむず痒い感覚も、前だけを見据えて重い足を動かす必死な姿も、なにもかも。

別に見なくてもいいと思っていた。オマエが勝つと思っていた。

だってそうだ。お前が一番なんだから。この場に俺と、お前が居て。

それなら絶対に一番はお前だ。

意味不明で滑稽な言い分だ。きっとこの感覚は俺にしか分からない。

中盤は思うように前の方をキープ出来ずにもどかしかったけれど、最後に一気に加速して全部追い越した彼女に、思いっきりガッツポーズをしてしまった。ばちっと彼女と直後に目が合ったけれど、見られていないことを願う。

それからも、結局俺は彼女が大会に出る度にそれを見に行く。俺の陸上部だって、学校終わりも休日もなかなかの練習量なのにどうしてもいけない時以外は彼女を優先させた。

見に行かないと、携帯が壊れるまで着信が止まないのだ。明らかに動作が重たくなって、彼女を「これ壊れたら俺と連絡取れなくなるぞ」と脅すまで通知は絶えなかった。

あぁ、そうだ。

彼女のレースの中でも特に思い出深いのが獣人のみの全国大会に彼女が初めて出た時の話。

彼女は負けた。

それも彼女は後ろから二番目。完全なる惨敗である。体調が悪かったは言い訳にはならないだろう。体調管理は選手の勤めだ。

夢の大舞台で、彼女は負けた。

文化祭の時に謎のコスプレ衣装を意気揚々と見せびらかすために俺を呼んだ彼女は、今日一転して真剣な顔で息を切らしながら膝に手を着いて項垂れた。

だが、その後は落ち込んでトラウマにでもなるかと思えば、結局は俺もあいつも似たもの同士って訳で。

豪雨の中、痛いほどの雨が彼女を打ち付け、その長く美しい髪が風呂上がりのようにびしゃびしゃに水滴を垂らしていても。

──彼女は初めての敗北に目を輝かせていた。

まさにまさに、小学生の頃の俺と同じって訳だ。

一番であり続けていた俺は彼女に敗北して彼女に焦がれるようになって、負けを知らなかった彼女は俺じゃないヤツに負けて勝利に焦がれるようになったのだ。

むしろショックなのはこっちだ。

お前が一番じゃなきゃ、俺は何番だ。一番のお前に負ける以外、気に食わない。こっちはお前のせいで負けず嫌いこじらせているのに。

というか。

俺はこんなにもお前に焦がれてるってのに、俺はそれになり得なかったことが、酷く、刺さった。


その後の彼女はやる気を出しまくって、勝利を重ねた。それは、奇しくも彼女に邪魔された俺のランニングのように、一番を目指して燃え上がった俺のように。癪だから彼女には言ってなかったが、その一件に感化された俺は陸上の全国大会に出るまでになっていた。これまた癪でたまらないが、走りで。

報告するなら、一番になってから。

そんな意地で伝えはしなかった。

俺は彼女に敗北を見られるのはなにより気に食わないから。


それはそれとして、その次の年も文化祭の劇でキャストに抜擢されたきらびやかな衣装を身にまとった写真が何枚も送られてきた。当日の予定も開けさせられたのに。こんなにはいらない。



さて、俺が、俺の一番を彼女にいつ伝えたかというと、それは叶わなかった。

負けた訳じゃない。全国大会上位入りは確実と言われたし、練習のうち何回かはレコードを出せるようにさえなっていた。

ただ、辞めた。

陸上部を大会の目前に辞めた。部にとっても迷惑なことは分かっていたけれど、それでも続ける気にはなれなかった。

彼女が走れなくなったのだ。

選手にとってはあまりにも致命的な怪我で恐らく彼女の道は絶たれてしまうのだと彼女の友人から聞いた。

彼女にとってあまりも酷な話だ。

半ば衝動的に明日行きますと伝えると流石に驚かれた。明日は平日だと言われて、そうですね。と何も考えず静かな声色で返した。

もちろん開校記念日でも振替休日でもないし、授業も部活もある。それでも、どうでもよかった。何か出来る訳でもないが、あの負けず嫌いが争えなくなってどうなっているのか見てみたいと思った。

それは多分、俺の行く末でもあるのだ。

毎日のようにかかってきていたうるさい彼女からの連絡がその夜だけは来なくて。風邪だろうが合宿中だろうが連絡してきた彼女の声が無いとどうも物足りなくて、俺から電話した。

俺から連絡するのなんて初めてで慌てた様子の彼女が電話に出た。

何年の付き合いだと思ってるんだ。

彼女の明るいいつも通りの声に混じる不安くらい、腐れ縁の身からすれば聞き分けるのは容易い。

彼女相手にデリカシーも何も無い態度を見せてる俺だが、直接彼女からその理由を聞き出すのは気が引けた。

単純に俺の勇気がなかっただけだとも言える。明日訪ねることは言わなかった。


次の日、彼女の部屋に向かうと誰もいなかった。

連絡をくれた彼女と同室の友人に部屋まで案内してもらったが、本当なら中まで入るつもりはなかった。ここは女子校なのだ。催事ならまだしも、普通は男を入れないだろう。

しかし、彼女が普段から俺の事を語り回ってるらしく、また彼女が俺に毎晩テンション高く連絡していることは有名なことらしく、あっさりと通された。

その時の優しい目は若干気になったが。アイツは何をして何を言った?

だがまぁ、彼女の休日毎に校門前で俺が待っているとなれば確かに有名にもなるだろう。女だらけ、獣人だらけのこの学校で歳の近い人間の男は物珍しいことだろう。


だが、通された部屋の中に彼女の姿はない。同室の子は小さく悲鳴を上げて、寮の管理者か理事長か医務官か……なんにせよ俺をほっぽって消えてしまった。

あのバカかどこにいるかなんて、探すまでもなく明らかだというのに。


周りの子にグラウンドの場所を尋ねて行けば、案の定彼女はそこにいた。

彼女は俺の姿に目を丸くしたが、いつものように飛び跳ねて手を振ることは無い。

戻るぞ、と呼びかける。

一見どこが悪いのかはわからなかったが、僅かに彼女の身体の重心が片足を庇うようにズレていた。ここまで来たのも相当無理をしたのだろうことが察せられる。

俺の言葉には答えず、彼女は傷だらけの笑顔で笑った。そして背を向けスっと目を細める。

この表情は、見たことがある。

散々見た、スタートラインに立った時の真剣な顔だ。

流石に訳が分からなくて眉を顰める。

走れないって聞いてるのに、明らかに片足を庇っているのに、無理なんかすべきじゃないのに。

俺が訝しんでいる間に彼女は構える。小さく息を吐き出して、俺を見る。浮かべているのは笑顔。誘われている。

けれど、僅かに笑顔にピリッと苦痛の顔が走ったのを見た。

それでも彼女は思いっきり地面を蹴った。

俺が理解出来ず惚けている間に。

一瞬で構えて、その踏み出した一歩目から飛び出していった彼女の加速力は怪我をしていてもさすがは獣人と言ったところだろうか。

一歩踏み込んだその勢いでぐっと遠くまで言ってしまう。

だが、もう一歩踏み込んだ足はぐらりとゆれる。ダメだと思った。

走っちゃいけない。悪化する。いつバランスを崩して倒れ込むかもわからない。

危なすぎる彼女の行動に、俺は咄嗟に全力で追いかけて彼女を捕まえた。

腕を掴んだ。

倒れ込む身体を引き寄せて、愕然とした。

──捕まえられて、しまった。

適わないはずの、彼女に。

いくら部活で鍛えてると言っても、俺は人間だ。叶うはずもなければ、走っている彼女の腕を掴むことなんて、出来るはずがない。

ずっと焦がれていた一番の彼女の、終わりだった。

何度挑んでも追い越すことは愚か、隣に並ぶことだって出来なかったのに。

俺の足は彼女に追いついて、その腕を掴んだ。

「……」

目を丸くした彼女は信じられないと捕まった手を見つめる。そして、気丈に笑おうとしたが、震える唇は奥歯を噛み締めることしか出来ない。

呆然と佇む俺を前に、やがて彼女は崩れ落ちて瓦解したようにボロボロと泣き出した。

俺は腕を離すことすら出来ないまま、彼女を前に立ち尽くした。



俺が退部届けを出して走るのを辞めたのはその次の日だ。

当然ながら彼女は漫画のような奇跡の復活をすることなんて出来ず、足は歩けるようにはなったけど思いっきり走るにはまだまだ支障があって。

俺たちの青春時代に続けてきたそれは案外呆気なく、到底ハッピーエンドとは言えない形で幕を下ろした。

ただ一つハッピーエンドらしいことがあったとすれば、走るのをやめたことで二人して暇な時間が増えたことくらいか。放課後に休日、随分とまぁ長い時間だ。もう推薦が狙えなくなった彼女のために勉強を叩き込む時間にもなった。


つまり、相変わらず俺は彼女に振り回されてるし、俺は性懲りも無く彼女の近くにいる。

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負けず嫌い二人 雨宿 @Lie_akira

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