旅立ちの日

 ???



 教会を購入し、旅立ちの準備を済ませた俺はヨウコの二階、つまり大将が住んでいた空っぽの部屋に仰向けになって、何もせず天井を見上げていた。引き払うまでまだ少しあるから、ここを一時の寝蔵として使わせてもらったのだ。



 明日は、北海道への旅立ちの日。



 話によれば、ミチルの父親の会社が出しているかなりの有名店で働くとのこと。ベテランの職人さんが退職してしまったから、次の大黒柱が見つかるまでの穴埋めとしてヘルプを担当するようだ。



 ……不安だな。



 一口に割烹といっても、俺が作れるのは一般的な代物ばかりだ。金持ち層を相手する店は当然のように懐石料理も提供するだろうし、ならば短期的に、しかも失礼のないように働くならば見て覚えるなどと悠長なこともしていられない。



 それとも、案外あっさり教えてくれるモノなのだろうか。考えてみれば俺の周りの大人で人にモノを教えるのが得意な人って新海先生くらいだったから、説法の塩梅がよく分からない。



 まぁ、そうは言ってもやらなきゃいけないんだけどさ。



 カッコつけて、神父を豚箱にブチ込んで、ミヨコさんにも勢いと恩義で半ば強引に認めさせた結婚だ。ここでビビって教会の女性たちを救えなければ、下手すりゃミチルとの関係もご破算になりかねない。



 恐らく、人生において最も重要な選択の一つを間違えたのだから、その他の事柄くらいは間違えないように頑張らないと。

 そして、今日より明日、明日よりは明後日と、ミチルにどんどん好きになってもらえるように努力しなきゃならないってのあるしな。



 そんな気持ちで、今の俺は生きてるってワケさ。



「お兄ちゃん!! まだ寝てるの!?」



 ……突如として下の階から聞こえてきたセリフに、俺は思わず耳を疑った。ミチルさん、流石にそのギャグは洒落にならなくないですか?



「あ、起きてるじゃん。なんで返事してくれないのよ」

「ちょっと、お前の勢いについていけなくて」

「ふぅん。でもさぁ、なんかお兄ちゃんってしっくり来るんだよね。シンジって呼び捨てにするより楽だよ」



 こいつ、ほんっっっとうに過去のこととか気にしないんだな。ポジティブ過ぎて、たまに自分の陰キャっぷりに嫌気が差す時があるぜ。



「それに、男の子ってこういうの好きでしょ? 深夜アニメでも、ヒロインの子が主人公をお兄ちゃんって呼んでるの何回も見たよ」

「前から気にはなってたけど、お前ってやっぱアニメとか好きなんだな」

「だって、友達がいなかったんだもん。ハッキリ言って私はオタクちゃんだよ。一人の時間を持て余してた間、色んな映像を見てきたからね」



 図書館にある漫画を読んだ程度の俺は、流行り物や幾つかの有名作品しか知識がないのだが。まぁ、サブカルチャーの世界も奥が深いだろうし、ミチルが誇っているのならいいことに違いない。



 彼女は、いつものように「んふふ」と笑うと、コートを脱いでコンタクトを外し、縁が水色の眼鏡を掛けた。暗いところでアニメばっか見てるから、そうやって目が悪くなったんじゃないですかね。



「それで、そのオタクちゃんが何しに来たんだよ」

「私は何もしません。するのはシンジです」

「どういうことだ?」

「今日一日、私はずっとシンジと一緒にいます。なぜなら、明日から会えなくてとても寂しいからです。会えない間の癒やし成分を補充しに来たのです。シンジにはその責任があるのです」



 湯呑みに緑茶を淹れて差し出すと、ミチルは俯いてからもう一度俺の方を見た。



「本当に、寂しいんだよ」 



 ……。



「ごめんな。人助け、やめられなくて」



 俺を必要としてくれる女が見つかったのだから、あらゆる人間に尽くそうってのはおかしな話だ。なかなかどうして、いつの間にか俺は存在証明とは他の理由で人を助けているようだった。



 その理由とは、つまり『したい』からだ。



 せっかく見つけた唯一無二の恋人を、ほっぽりだしてまで人助けをしたがっている。これはもう、生き物が空腹を抑えられないように、俺が衝動を抑えられないからとしか言いようがない。



 そして、そんなワガママでミチルを寂しがらせてしまう。最愛がここにあるのに、彼女との時間を削ってしまう。一途から随分と矛盾しているようだが、この呪いのような欲求は一生消え失せることもないのだろう。



 やっぱり、俺は婆ちゃんの息子なんだって思うよ。



「……ダメ、許さないよ」

「そんなこと言うなよ、許してくれないと困る」

「なら、許してもらえるようにいっぱい愛してください。誠心誠意、真心を込め時間をかけて、つま先から頭の天辺まで私に好きだと伝えて、二度と不安にさせないでください」

「分かった」



 とはいえ、実のところ俺は女が恋人に何をされれば嬉しいのかを知らない。他人には色々と偉そうな講釈を垂れていたが、結ばれた後にどうすればいいのかという経験を一切していないからだ。



 いわば、これはハッピーエンドの後の物語。終わりの続きというのは何とも奇妙なモノだが、それでも便宜上の名前をつけるのなら『御伽噺』なのだろう。



 何故なら、ここには俺たちの幸せしか存在していない。辛いことのないファンタジーな世界を描くならば、それはまさしく御伽の国の物語と呼ぶべきだからだ。



「ところで、ミチル。『愛』を『する』って割と意味が分からなくないか?」

「どういうこと?」

「だって、愛って『価値』のことだろ。価値のあるモノを手に入れることはあっても、価値そのモノを手にすることは出来ないじゃんか」

「なら、シンジにとっての私の価値を高めることが『愛する』になるんでしょ。手に入れたあとで価値を高めることは、他のモノにだって通じることだと思うよ」



 なるほど、これは一本取られたな。



「つまり、俺は俺にとってのミチルの価値を高める行動をすればいいワケだ」

「うん、そういうことになるよね」

「そうだな。……なら、まずはもう少しかわいくなってもらおうか」



 ということで、俺はミチルの肩をマッサージして疲れをとることにした。健康でいることは、間違いなく個人の価値を高めることになるだろうからな。



 それにしても、最近少し胸が大きくなったのだと言ってミチルは喜んでいたが、この肩こりはそのせいなのだろうか。



「なんで大きくなったと思う?」

「イソフラボンをたくさん摂ったからか?」

「ぶっぶー、恋をして女性ホルモンが活発になったからおっぱいが大きくなったんだよ」

「なるほど、そんな科学的な根拠があるのか」



 ならば、逆説的に巨乳は成長期にたくさん恋をした女ということになるのだろうか。幸せな奴ほど幸せになりやすくなるというのは、なるほど、金持ちがより金持ちになる理屈とよく似ている。



「因みに、男の人に揉んでもらうと大きくなるともいいます」

「……へぇ」



 続いて、俺はミチルの髪を梳かしてやることにした。



 普段から気を使っているからか、枝毛の一本も見当たらない滑らかな手触りだ。髪は女の宝だという。男の俺だが、なるべく綺麗になるよう丁寧に気を遣って櫛を動かした。



「それにしても、また伸びたな。もう切らないのか?」

「どうしよっかなぁ、シンジはショートカットの方が好き?」

「どうだろう。まぁ、こうして長いからちゃんと愛することも出来てるワケだし、ロングのままでいいんじゃねぇの?」

「んふふ、そっか」



 さて、次はどうしようか。



 これ以上にミチルの価値を高めようと思ったら、勉強を教えたり料理を教えたりってことになるんだろうけど。それはまさしく、恋愛ではなく父性、いや兄性とも呼ぶべき愛情になってしまうような気がする。



 無論、それも間違っちゃいないのだろうが。今日ミチルを愛する理由は、彼女が一人の間の寂しさを少しでも紛らわせることなのだから。何かこう、彼女が喜ぶことをやってやりたい。



「分かった、お前の好きなアニメでも見よう。好きなことを存分に語ってくれ、俺はそれを聞きたい」

「それ、いいね」

「教会のゴチャゴチャを解決するために使うだろうって、塚地さんがノートパソコンを貸してくれたんだ。こいつを使おうか」



 部屋の隅からちゃぶ台の上にパソコンを置くと、彼女はそれをカタカタと操作し、何かのサイトにログインしてから「どれにしようかなぁ」と呟きながらタッチパッドで画面をスクロールした。



 しかしながら、14インチのモニターは二人で横に並んで見るには些かサイズが小さいな。せっかく真面目に鑑賞しようとしているのだから、出来れば俺も正面から見たい。



 ……。



「なぁ、ミチル」

「なに?」

「おいで」



 言うと、ミチルはほんのりと赤くなり複雑そうな微笑みを浮かべてから、何も言わずにちゃぶ台ごと動かして壁に寄りかかる俺の足の間に収まった。



「ギュッてしててね」

「はいよ」

「離しちゃやだよ」

「分かってる」



 言われた通り、俺は彼女の前に腕を回して肩に顎を乗っけた。吐息がかかっただろうか、「ひゃん」と声を漏らすと操作する手を止めて震え、やがて耳が熱を発するかのように真っ赤に変わっていく。



 さては、こいつ実は男慣れしてないな。俺が恋の終わりの続きを知らないように、散々っぱらアプローチかけられて断り方や乗り方だけ覚えていて、後の知識はからっきしなんだな。



「なぁ、ミチル」



 名前を呼ぶと、ミチルはまたしてもピクリと体を震わせた。



「な、な、なんですか」

「アニメ、まだ選ばないのか?」

「だって、シンジが耳に息をかけるんだもん。あと、名前の呼び方がエロかったです」

「……なんだそれ」



 まさか、この俺が無自覚に何かをやらかしてしまったということなのだろうか。それとも、女には男がグッとくるポイントが分かり辛いように、女にだけ思うことのある致し方のないことなのだろうか。



「まぁ、せっかくなのでラブコメを見ましょう。映画作品だから、二時間弱で終わるし」

「そうか」



 そんなワケで、ミチルはようやく一本のアニメを選んだ。何だか、幻想的な色使いが目を引く綺麗な作品だ。



「これはね、軽い寝取りモノだよ。もちろん、そういう見方をしている人は少ないかもしれないけど。この監督、本当はそういうのが好きなの」

「えぇ……」

「でも、切なくて面白いよ。私、シンジと会うまではこういう悲しいお話が好きだった」

「どうして?」

「真実とか、永遠とか、そういうモノが無いって思い込みたかったから」



 俺は、ミチルの頭を撫でた。きっと、今から始まる言葉こそが、俺と出会う前のミチルなんだって思ったから。



「絆は、いつかは絶対に風化して壊れちゃう。自分がどれだけ相手を思っていても、相手が自分を同じように思ってくれているとは限らない。そうやって、私の持っていないモノが決して美しいモノではないんだって、慰めてもらえる気がしたんだ」

「随分と露悪的な趣味だな」

「んふふ。趣味って、還元していけばそういうモノでしょ? 自分の嫌いなところを肯定してくれるから、人生をかけるくらいハマっちゃうんだと思う」



 池の魚を食って生き延びた日々を思い出した。確かに、生まれた時からずっと腹を空かせていた俺だったからこそ、こんなにも料理という趣味にハマってしまったのかもしれないな。



「まぁ、アウトプットに活かせないという意味では、私の趣味に意味なんてないけどさ。それでも、あの頃はただ暗くて悲しくて、最後には救いもなくみんな死んじゃうようなモノが好きだったんだよ」

「そんな性格で、よく学園のアイドルなんてやってられたな」

「人を騙すのって、実は凄く気持ちがいいんだよ。だから、その達成感に酔ってたのかもしれないね」



 ……ならば、そのポジティブな考え方も俺と出会ったからというワケか。また一つ、ミチルを愛し続けなきゃいけない理由が増えたな。



「んふふ」



 それから、しばらく黙ったままでアニメを視聴し、映像は切ないエンディングを迎え幕を閉じた。彼女の言う通り、学生時代に将来を約束した二人が転校によって別れ、最後には再会することもなく離れ離れになってしまう悲しい話だった。



「面白かった?」

「あぁ、面白かったよ」

「そっか。なら、よかったよ」



 アニメが終わって真っ暗の画面になっても、ミチルは俺から離れようとしない。それどころか、少し姿勢を直した俺の手をギュッと掴んで、貝のように縮こまってしまった。



「なぁ。お前、男に触れられても怖くないのか?」

「怖いよ。本当は、シンジが相手でもちょっとだけ怖い。そんなこと考えたくないのに、変に緊張しちゃうの」

「……だろうな」



 呟くと、ミチルは深く息を吸い込んでから眠るように頭を俺に預けて、目線を上に向けると口を噤んだ。不安そうな表情は、きっと俺の心変わりを心配している。自分の知らないところで女を知ってしまえば、やっぱり捨てられてしまうのかもしれないと考えている。



 ミチルの気持ちが、手に取るように分かる。そして、俺は決して、確たる証拠や儀式も無しに『裏切らない』と宣うつもりは無かった。



「……んっ」



 頭を支え、唇だけが触れ合うようにキスをした。ミチルの吐息が漏れて、すぐに距離を離す。すると、彼女は名残惜しそうに目を潤ませて、必死に何かを堪えていた。



「怖いか?」

「……怖いから、もう一回して。もっと優しくしてくれたら、克服出来るかも」



 言われ、従うように更に優しく、淡く、手を握りながらキスをする。



「……もっと、長くしてくれたら慣れてくるかも」



 だから、今度は少しだけ長く。押し付けようとする彼女の唇から、敢えてほんの数ミリだけ離れ優しく。そして、いつの間にか俺の体にしがみついて泣いていた彼女の頭を撫でた。



「……なんで、そんなイジワルするの?」



 キスに夢中なミチルが、あまりにも愛おし過ぎて。ただ、すべてを彼女の望むようにしてしまえば、もうキスをねだられないんじゃないかと思って。



 そんな彼女に、意地の悪いことを出来る程度には冷静な自分が不思議だ。しかし、相手に価値を与えることが『愛する』ならば、俺はこの上なく彼女を愛していることになるだろう。



 さり気なく、眼鏡を外してちゃぶ台に置いてやった。やはり、何も飾っていない方が綺麗だ。



「お願いだから、焦らさないで……」

「怖いんじゃないのか?」

「……ばか」



 本当に堪え性のない女。そんなことを考えた瞬間に、ミチルは振り返って首に手を回し俺を押し倒した。壁に頭をぶつけたが、そんなことには気付かないくらい夢中になっているらしい。



 目を閉じて、せっかくの美少女も台無しだってくらいにはしたない。もしかすると、明日世界が終わってしまうのかもしれない。そんなことを思ってしまうくらいに、ミチルは唇の感触に夢中だった。



「……嫌だ、シンジは私のだもん。ずっと私と一緒にいてくれなきゃ嫌だもん。せっかく一緒になれたのに。こんな、たった少し待つのだって辛いのに。何年も離れるなんて絶対に嫌だよ」



 しかし、実を言えば俺にはもう、ミチルを言葉で説得するつもりがない。どうせ、何を言ったって強情で頑固で意地っ張りな彼女の性格が、決して俺の言葉を下回ることなどない。



 の俺では、絶対にミチルに叶わない。俺は決して、彼女を説き伏せることなど出来ない。どう言い繕ったって、最後には必ず彼女の思い通りになるのだから。



「大丈夫。には、ミチルは何も怖くないくらいに強くなってる」



 優しく、ただ優しく、情けなくなるような細腕で彼女を支え反対側へ押し倒す。



 息を呑む音。やがて、迷いを振り切るように、今を噛み締めるように、俺たちは互いを求めながら呟き微笑んだ。



「愛してる」

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