第9話(月野ミチル)②
「こんにちは」
彼は、初めて出会った頃から笑っていた。純粋無垢で、親にも捨てられて一人でやって来たというのに擦れていなくて。何なら、擦れ方すら分かっていない、捻くれた方なんて覚えてない。けれど、自分が孤独だってことは知っている。
そんな、達観したような子供だった。
「お名前は?」
「分からないんだよね、チサトちゃん。お母さん、死んじゃったから」
直感というモノは、ましてや女の直感というモノは案外バカにならないと思う。この子を見た瞬間、この子が笑った瞬間、私はこの子が他人でないことを理解したのだ。
「んふふ。なぁに? お姉ちゃん」
不思議な笑い方だった。
どこか悟ったような、すべてを見透かしているかのような、そんな生意気な笑み。しかし、なぜか妙な親近感を覚えてしまう。まるで私がそうやって笑うことを彼が真似ていたんじゃないかって感じてしまう。
その時、私は気が付いた。
物心がついてから、私は一度も笑ったことがなかったのだと。
「お姉ちゃん、辛いことでもあったの?」
「……うん」
「そっか、大変だね」
逡巡に芽生えた疑問は、脳裏を掠めすぐに思考を支配した。彼は私をお姉ちゃんと呼んだ。他の子に対しては名前で呼ぶのに対し、私のことはお姉ちゃんと呼んだ。
彼も理解したのだ。私と彼が、生まれた場所の違う姉弟であることを。
――ならば、その辛い思いをこの子にも味わわせるのか?
「ねぇ、キミ。私が名前をあげるよ」
「本当に?」
「うん。キミはカケル、ミチルの弟だからカケル」
「んふふ、いい名前で嬉しいよ」
喜ぶカケルを抱き締め、私は今晩自分の身に起きることを考えた。あの胡散臭い男に抱かれる覚悟を決めるためだった。それなのに、考えれば考えるほど抱かれたってカケルを守れる保証のないことに気がついてしまって、どう足掻いても最善の策が思いつかない。
あの男の嘘を暴露する?
無意味だ。周囲の人間は神様でなく神父を盲信している。ここにいるという結果は同じでも、居続けようとした過程が違うのだから、例え教えが嘘だと分かっても何も変わらない。極論を言えば、彼女たちにとって救われ方などどうでもいいのだ。
他に何も無いから、対価として体を捧げる。理屈はよく分かる。神父も彼女たちもその部分を割り切っているからこそ疑問が生まれていないに違いない。ある種暴力に近い、価値観の押し付けにも似ている。すべて曝け出したのだから裏切らないという、女たちの思い込みによってこの教会は成り立っている。
……それを認めることは、母親と私が同じ人間であると認めることになるのではないか?
「誕生日おめでとう、ミチルちゃん」
夜がきた。
ベッドに座らされ、神父の顔が近付く。得も言われぬ気色悪さは耐え難く、体に触れられるたびに怖気で身が強張った。頬を舐められ、胸を触られ、内ももからショーツの中へ指が入ってくる感覚がある。
ただ、怖かった。
この男の目には私など映っていない。性欲に支配された脳みそは体だけを欲している。まるで獣だ。12歳の少女に醜く寄り縋る男の心情を、その過去を、考えるだけで酷い吐き気が私を襲った。
……これに耐えて得られるモノを、私は幸福と呼べるのか?
「カケル……っ」
瞬間、私はサイドテーブルに並べられていた分厚い聖書で神父の頭をぶん殴った。人生で初めて、私は決断をしたのだ。
頭を抑える神父を横目に、乱れた服を直して男子寮へ走った。そして、あの子がどこの部屋で眠っているのかを考えながら走ると、廊下の奥に座り込み月を見上げるカケルの姿が目に入った。
「僕、お姉ちゃんを信じるよ。だって、名前をくれた人だもん」
すべてを察していたカケルを見て、私は一も二もなく彼の手を掴み教会を抜け出した。
簡単な話だ。私はカケルを母親よりも守るべき存在だと思った。私だけはこの子を裏切ってはいけない。私が辛い目にあうことは、この子の心を犯すことになってしまう。だから、カケルが幸せにいるためにも私が不幸になってはいけないのだ。
雪の降る町の中、走って、走って。あまりにも寒い外気の中を、ただひたすらに泣きながら走った。山を越え、バイパス沿いの下道を抜け、明け方になってようやく辿り着いたのは小さな建築事務所だった。
「お願いします。ここで働かせてください、何でもします」
幸運だったのは、警察よりも先にオーナーと呼ばれる男と出会えたことだった。彼は、この事務所の他に幾つかの会社を経営しているらしい。冷めきった緑茶を前に、俯きながら通報だけは許して欲しいと懇願すると、彼はこんな事を言った。
「今日から僕の家に住むといい、君たちのビジュアルにはそれだけの価値がある。教会のことも何とかしよう」
こうして、私とカケルは月野家に住まうこととなった。実力ではない、生まれ持った幸運が私を救ってくれた。もしも少しでもバランスが違っていればこうはならなかった。そんな事は分かっている。結局のところ、お父さんだって他の男と何も変わらないことだって分かりきってる。
彼の行動が、心からの善意でないことなど分かりきっている!!
だけど、それしか生き残る道は無かった。才能に甘えるしかなかった。それに、信じたモノが掬われるのならば、関係の間にお金があった方がよっぽど楽だ。お父さんが私をお金稼ぎに使ってくれるのならば、その方がよっぽど簡単だ。
どんな形であれ、命を救ってくれた。重要なのはそこだった。
恋愛なんてモノはこの世界に存在していない。一途なんて絶対にあり得ない。利用し、利用され、そうやって人々は生きていくしかない。純粋な想いなど他人との間には生まれるべくもなく、情は血縁で繋がれた者同士でしかあり得ない。
だから、白百合ヶ丘学院での出来事だって私にとって大した問題じゃなかった。男はみんな、そういう生き物なのだ。私が力の無い女である以上仕方のないことなのだ。男が女を欲する理由は、恋ではなく肉欲でしかないのだ。
母親が神父に依存したように、私もお父さんに依存しただけ。たまたま体でなく金を求める人だったから、私にとって都合がよかっただけ。そこに違いなど無い。信仰する神が違うだけの、どうしようもない母娘の末路というだけだ。
……だから、友達が欲しかった。
絶対に裏切らないって信じられる友達が欲しかった。才能に頼らなくても私を必要としてくれる、そんな友達が欲しかった。
母親とは違うんだって信じたかった。掛け値なしに頼り合える関係を築きたかった。カケルを守りたいと思うからこそ、守るための自信が欲しかった。その為の友達だ。私には、生きていく力が備わっているのだと実感したかった!!
それだけが、私の全てだった。
男なんてどうせ同じ。興味のないようなフリをしたって体しか見ていない。決して私の内側なんて知り得ない。
ならば、同性に見てもらうための努力が必要だ。その為に身を尽くせるのなら、私は何だって出来る。信頼出来る友達が手に入るのならば、安心を得るためならば、どんな苦難だって乗り越えてみせる!
高槻シンジと出会い、あの言葉を聞くまで、私はそう思っていた。
――だから、信じてんだ。それがこの世界で一番幸せだってこともな。
あの話が私を救ってくれた。彼の生き方が異性の見方を変えてくれた。彼が私を助けてくれた。すべてが危うくて、カケルを守ること以外に生きる価値のない人間を辞めさせてくれた。
恋に、落ちたのだ。
決して勘違いなんかじゃない。カケルへの想いと違うことが何よりの証明だ。シンジくんへの気持ちだけは、家族だけど、家族が故に、家族だからこそ、絶対に間違っていないと信じられる。一緒に生きてこなかったから、家族への感情でないことを信じられる。
血で繋がっていることで、この好意が血縁に由来していないことを確信出来た。シンジくんが決して裏切れないと分かるように、私には恋愛であることが分かったのだ。
ねぇ、気が付いてる?
あなたは聡明だけど、結論を間違えたことはないけれど、その過程の考察に大きな差異があったりする。あなたは自分を嫌っているからか。いや、結果を求め過ぎるあなただからこそ、実は必ずと言っていいほど道程にある人の想いを間違えているの。
私に人が美しいことを教えてくれたのは、他の誰でもないシンジくんだったんだよ?
……だから、私たちは絶対に間違っていない。
私たちの恋は、世界で一番、一途でピュアな恋愛だ。
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