???(月野ミチル)

 ???(月野ミチル)



 シンジくんが眠ってしまった。



 壁に寄りかかったまま、布団も足元しか被ってない姿で。『ありがとう』だなんて、ずっと私が言いたかった言葉を奪い取って、力尽きるように目を閉じてしまった。



 人が眠っていく過程のすべてを、私は初めて見届けたような気がする。あんなふうに力が抜けて、コテンと意識を失うモノなんだ。



「……お〜い、シンジく〜ん? 風邪引きますよ〜?」



 小ボケを言っても、当然ツッコミなど無い。ベッドに少し乗ってほっぺたを突っついても、彼は目を覚まさない。



 こんなにも警戒心のないシンジくんなんて、もしかしたら金輪際見られないかもしれない。強さのせいで実体以上に大きく見える彼が、なんだか私よりも小さく見える。



 ずっと眺めていられそうだったけど、私は少し伸びた彼の前髪を指で払うと、熱で火照った頬を撫でてからなるべく起きないように寝そべらせ、彼の上にゆっくりと布団を掛けた。



「……眉間にシワが」



 何か、怖い夢でも見ているのだろうか。10分ほど経って、蹲るように姿勢を変えるシンジくん。氷嚢がベッドに落ちる。

 私はそれを手に取って中に冷蔵庫の溶けかけの氷を入れると、どこに当てるべきかと考えた末にサイドテーブルへ置いた。



「私がいるよ」



 何となく一人にしたくなくて、しばらく手を重ねていると、突如として彼は縋るように私の手を抱えるよう握り返した。いつもの彼なら絶対にありえない仕草。



 私の知らないシンジくんは、一体どんな苦悩を抱え何と戦っているのだろう。こんなにも強くいられる彼は、どんな過去を生きて立ち向かっているのだろう。



 少しだって想像もつかない自分が、なんだか憂鬱だった。



「私は、あなたの支えになれてるのかな」



 思わず口から溢れた言葉。この旅行中、ずっと堪えていた弱い心が目を覚ます。



「どうすれば、答えに辿り着けるのかな。導いた答えを信じるためには、何を犠牲にすればいいのかな。他のモノをすべて犠牲にして尽くしたら、あなたは私を嫌うのかな」



 急に、怖くなった。



 きっと、彼は私を好きでいてくれている。これまでの頑張りが無駄じゃなかったって、何よりの形で応えようとしてくれている。それなのに、いざ想いを寄せられてしまえば自分がシンジくんに足りているのか分からなくて。



 不安で不安で、仕方ない。一途な彼の一途を、私は受け止められるのだろうか。それが叶わなかったとき、彼は私を見限ったりしないだろうか。



 ……しないんだろうな。



 だって、私が好きになった男だもん。



「あ……っ」



 シンジくんは、手を離すと仰向けになり自分の目に腕を乗せて顔を隠した。まだ眠っているみたいだけど、落ち着いてるのを見るに彼は夢を見ていない。いわゆるノンレム睡眠の状態だ、記憶の整理が終わったと言ったところだろう。



 目元が隠されていると、彼は本当にただの男子高校生だ。疲れ切った瞳も、私の好きな黒いクマも、実は長いまつ毛も見えない。ただ、少し幼い輪郭の、どこにでもいる普通の男子高校生。



 それを見て、私は途端に彼をかわいいと思った。どうしようもない感情が、胸の内側に渦巻いていく。締め付けられるこの感覚は、決して起きているときのシンジくんからは覚えることのないモノ。



 キュンだなんて、甘酸っぱい擬音が似合いそうな代物。抑えきれないくらいに欲望は膨らんで。



 ……それは、やがて弾けた。



「ん……っ」



 彼の唇は、少し乾燥していた。ちゃんと栄養を取っていないのが分かる。よく見ると爪の半月も小さい。ビタミン不足のせいだ。骨も細くて、浴衣の隙間から見える胸板も薄くて、私でも寝かせられるくらい体が軽くて――。



「……んふふ」



 悲しくて、涙が出てきちゃった。



 だって、常人では耐えられないような狂気の中を孤独に生きてきた脆い男の子に、どうして恵まれたみんなが頼り切るのだろうって。みんなの幸せを呼ぶ彼自身がどうしようもなく報われないこの世界が、あまりにも不公平過ぎて。



 純粋な想いは零れ落ちて、目を塞ぎたくなるような現実を乗り越えて、涙が枯れ果てるまで苦しんで、見返りも求めず立ち上がって、一途な想いだけを信じて、誰より傷を負う役目まで背負って。



 そうまでしなければ自分を肯定できない彼の心は、とっくに壊れているんだって理解してしまったから。



 ……そんな彼に、あの日の私はなんてことを頼んでしまったのだろう。私たちの問題を、なんの関係もない彼に持ち込んで、挙句の果てにこんなにも惚れ込んで、そこでもまた迷惑をかけて、助けられるばかりで。



 私って、本当にバカだ。



「気にすんなよ」



 思わぬ言葉にハッとして彼を見るが、やはり静かに眠っている。どうやら寝言のようだけど。なによ、寝てる時まで人助けしているっていうの? 無意識に出る言葉ですら、弱音じゃなくて人を助けるモノだっていうの?



 この男は、本当に――。



「……っ」



 そこまで思い浮かべて、私は涙を拭った。それを口にすることは、彼の生き方を否定することになる。そんなのは絶対にダメだ。私だけは、そんなことを考えちゃダメなのだ。



 だから。



「ありがとう、シンジくん。……大好きよ」



 抱き締めたくなった気持ちを抑えて、私は静かに立ち上がり扉へと向かう。これ以上ここにいたら、愛おし過ぎて頭がおかしくなってしまう。何か一つでも弱音を聞いてしまえば、もう二度と誰かの為に頑張ってほしくないって思ってしまう。



 ……行かなきゃ。



 私が、彼が想ってくれた月野ミチルでいるために。



「おやすみ。告白、待ってるね」



 パタリ、静かに扉が閉まる。廊下は寒い。エレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開く。乗り込んで振り返り、扉が閉まるまでシンジくんの部屋を見ていた。



 エレベーターが、一階へ向かって降りていく。唇に残る微かな感触を指でなぞるだけで、自分を語らない彼の過去を思える。きっと、私だけが分かってあげられる。そう確信できることが、今の私にとって何よりの幸せだった。



 ……それにしても。



 病人の唇にキスをするなんて、私は二度とまともに戻れないところで恋をしているみたいだ。

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