第4話 竹井が現在の職場に就いて

 陸上競技場の施設管理を請け負うスポーツ協会に臨時職員枠で就職面接を受けた日を覚えている。

 地方都市での気軽な一人暮らしに一区切りをつけ、帰郷したのは親の介護があったからである。大企業に勤める兄は転勤続きでこの田舎に転職する隙がなく、姉は嫁いでいた。要介護度が二から三への認定を受け、身の回りや言動が気になるようになって意を決したのである。とはいえ、就職先がすぐに見つけられるなどとは容易には思っておらず、結局は伝手というか縁故によって紹介されたのは帰郷して三か月がすでに経過していた。まるまる無職のこの期間は不安で仕方なかったが、学生時代に経験した陸上競技に一抹でも携われると言う、これもまた何かの縁かと思われて、話に乗ったのだった。まったく知らない業態なら緊張の連続になろうが、管理事務とはいえかじったことのある分野だから業務内容をいちいちメモして変な汗を流す羽目にはどうやらならなくて済みそうだ、と弾む気持ちでの専務理事との面接だった。早番遅番のシフト制で、都市のように開場時間中に何十人、何百人も来るわけでもないので、出勤についても融通が利くとのことで、介護関連で親を病院に連れて行く時とか施設に入所の時とかを考慮してもらえるのは大変ありがたかった。

一通りの職務内容に慣れるのには一月もあれば十分で、小粒なミスはそれ以降もちらほら出るものの、業務全体に影響を及ぼす級の失態はなかった。それどころか、個人利用客の少なさ、高校の部活動などの団体利用が土曜日などに決まっている以外、ほぼ電話番みたいであり、つまりは暇なのである。こんな田舎の競技場のため、担当スタッフは一人であり、三人の管理人が早番遅番、休日を順繰りにしている理由がすぐに分かった。他の職員は勤務時間中の大半をテレビを見て過ごすと言う。竹井もニュースやワイドショーなんかの時にはテレビをつけていた。その時来場する利用者がいてクレームを言われたことはない。竹井は閑散とした競技場をダイエット代わりに歩いたり、静かな環境を良いことに読書をしたりと時間をつぶす方法を徐々に身に着けて行った。もちろんこれで給料をもらっているわけだから、何かしらの貢献をしなければとの思いから、例えば施設周りに設置されていない施設関連の看板の案を提案したり、業務マニュアルを作ってみたり、なんてことを自主的に取り組んだ。簡単に羅列されていただけだった利用規定の詳細をまとめて提出もした。上からの反応が優れて芳しいとは必ずしも言えなかった。田舎ならではの竹井には知らなかった「しがらみ」が裏にあるらしい、と耳に入ったのは時間が少し経ってからである。気づまりさを竹井は感じざるを得なかった。けれども、反発しようとは思わなかった。その権力もなければ、方策もなく、ましてや竹井はそんなことをするのが時間の無駄にしか感じられなかった。自分としてはできる限りの業務時間内の職務の一環としての作業なのだ。蛇の道どころか、魔物の巣窟に入って行く必要性はどこにもない。そんなものかと、むしろ引いておいた方が身のためでもある。

 そういう日々が積み重なり、一年経ち、二年経ち、数えてみればもうはや八年目に突入していた。ここ数年、出勤する時が気が重くて仕方なかった。業務が楽しいなんて感情はもうとっくに消え果ていた。能動的に業務に携わろうと言う心意気など皆無だった。気が滅入るとはいえスタッフジャンパーを着る竹井が出勤をするのは金のためだった。面倒くさい三〇分の通勤の運転も次の給料日を頭の中で待ち望んでいればこそ堪えられる時間だった。

 そんな時だった。本間青年が陸上競技場に来るようになったのは。競技場を使う高校なんて数校に限られていたから陸上部員の顔は大半見知っていた。はじめ、彼は自主トレにやって来る積極的な部員なんだと思った。が、どうも覚えがない。中学時代には確かに見たことがある気がする。部員でもないのに、自主トレとは奇特なものだと感心半分からかい半分の気持ちが正直な感想だった。そんなことしなくても部活に入れば、と単純に思ったのだ。本間青年の本心など知らなかったからだ。それが分かるようになって、孤高に走る彼に複雑な心境が芽生えた。とはいえ、彼が一人走る姿を見るにつれ応援したくなる気持ちは嘘ではなかった。自分は部活動に入っていてそれで走っていた、彼のように個人として走ることなど想像すらしたことがなかった。大人になって一〇キロマラソンの大会に出るためにジョギングをする、そういうこととは違っている気がする。やはり自分と本間青年は違っている。懸命になる彼に、かといって何かできるようなことはなく、気持ちよさそうに走る本間青年の姿をちらりと見るばかりだった。それから二年が経っていた。

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