第6話 ふたつの夜
その後、イリゼはミーティユ入りの器をエティナに届けたものの、遅いという理由から床に叩きつけられてしまった。意味がわからない。
イリゼは侍女たちによってさっさと追い出され、ようやく開放されたのは下級使用人も寝静まった頃だった。
(……ふう)
短いため息の音でさえ、自由がきかない。
外に設置される備品庫の隣にあるさらに小さな格納倉庫。そこには普段使われない器具がしまわれており、イリゼの寝起きする場所にもなっている。
地面には藁を敷いて寒さを紛らわせ、穴だらけの毛布で全身を覆う。
できれば体の汚れを洗い流したいが、この寒さではさすがに素肌を晒せない。朝方、気温が今よりも上がった頃に素早く拭うとしよう。
(大変なことになった)
起床からいままで働き詰めであったが、眠気より空腹が勝ってまだ寝れそうにない。
それに考えることも山積みなので寝る時間さえ惜しい気がした。
(お母さまの指輪と、声と、縁談)
最後の面倒事にはイリゼも空笑いをこぼしそうになる。
生まれてこの方、自分がベクマン侯爵に疎まれていたのは知っていた。
母がいるうちはどうにかして庇ってくれたおかげで、直接的にイリゼがベクマン侯爵と会うことはなかったものの。
代わりにオフィーリアが自身の体を犠牲にしていたことに、ある程度の年齢になった頃には気づいてしまった。
(私がいると、こんなことばかり起こる)
こうして身を縮こませ寒さに耐えながらいると、いらないことを考えてしまう。
私さえいなければ、母はもっと楽に生きられたのではないか。
私を身ごもっていたから、母は体調を崩して病にかかったのではないか。
母がいなくなってしまった今、誰にも必要とされていない自分の価値とはなんだろう、これ以上生きている意味などあるのか。
自分には、なにもないのに。
オフィーリアの「生きてほしい」という切実な願いと、それに反して日頃イリゼの内側で大きくなる無気力な意思とがぶつかり合う。
(またこういう……だめだめ、この考えは何もかもどうでもよくなる)
いつもこうして持ち直す。
どんなに惨めな扱いをされようとイリゼが自身を保ち続けられているのは、亡き母の思い出と、唯一自分のものといえる大切な名前があるから。
(まあ、女児好き趣味の貴族に買われるだけの価値は、あったみたいだけど)
これに関しては本当に厄介なことになった。
詳しい日取りは定かではないものの、このままでは確実にイリゼは女児好きオッサムダの元へ連れていかれてしまう。
(そろそろ、離れるべきなのかもしれない)
この土地には、母がねむっている。
虐げられるイリゼが未練がましく居続けていたのは、一番にオフィーリアの面影を感じられる場所であったからだ。
(ごめんなさい、お母さま)
イリゼは両手を強く組むと、それをゆっくりと額に当てる。この土地を離れ、ひとりにさせてしまうことをどうか許してほしい。
(――逃げないと)
凍てつく夜、イリゼは強く決意する。
できるならば早いうちに最低限の旅支度を整えて、定期的に街に物資を届けにくる行商人の馬車に潜り込むことさえできれば。
あとは領主城を出る前に、やらなければいけないことがある。
(いつでも逃げるように準備をしながら、隙をみてねらおう)
もちろん指輪は、最優先事項で。
***
決意を新たにイリゼが藁ベッドの上で眠りについた夜。
「それはまた……本当ですか、
時を同じくして、膠着状態からがらりと変わりつつある男がいた。
「僅かだが確かに繋がった。間違いなくこれは――女神の雫の気配だ」
橙色の補助照明がひとつだけ灯った薄暗い室内。
白金髪の男は、そばに控える若く端正な顔立ちの青年に向かって喜色を浮かべる。
だが、そう単純な表情ではなく、多くの感情が入り乱れた横顔に、青年は厄介そうに眉を動かした。
「北だ、明け方には出立する。指輪を、あの女が持ち去った指輪を在るべき場所に戻す」
切れ長の目は神秘の色を宿し、月光に反射して輝きを放つ。
通った鼻筋に繊細な輪郭、年頃の女性ならば惚れ惚れしてしまう顔立ちではある。
しかし先ほどから醸し出される空気はどこか獣じみていて、危険な香りが充満していた。
(暴走……しないといいが。そうも言ってはいられないか)
要するに、この状態の男の相手は、なかなか骨が折れることなのである。
「守護者には?」
「ダヴィデだけ呼べ。ほかはまだ報せる必要ない」
「了解です」
若い青年は場に不釣り合いな笑みを作り、一度部屋をあとにした。
薄手の黒手袋を嵌め、装いも黒に包まれた青年は、闇夜に溶けるように静まり返った廊下を進む。
ふと、立ち止まって窓際から外に目を向けると、満天の星には七色の光の帯が揺らめいていた。
ここではあまり珍しくもない現象だが、いつもより不安定に見えるのは楽園の領主の心情が反映されてしまったからだろうか。
(しばらくは寝不足かね)
ふっと息を吐き、ふたたび歩き出す。
青年の灰色がかった美しい銀の髪が、空気を受けてゆっくりと靡いた。
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