記念日お断り

スケキヨ

記念日お断り

 僕は中学から高校までを男子校で過ごした。

 大学に進んでからも、周りはほとんどが男。

 同じ学部にいた数少ない尊い女の子たちは、どうにも近寄りがたくて。

 そうして社会人になって、しばらく経った今でも女性との距離を掴めないでいる。

 だから僕は、このマッチングアプリに登録した。

 女性との縁のない生活を送っている僕が、真剣に結婚相手を探そうと一念発起した訳だ。

 このマッチングアプリは男性も女性も等しく有料だ。

 真剣に相手を探している責任感を持った大人同士が出会える。

 そしてついに今夜、アプリで出会った女性と初めて対面することとなったのだ。

 僕は女性と二人で食事をするためのお店を初めて検索し、予約をした。

 駅から7分ほど歩いた場所にある、お洒落なバル。

 僕の正面に座った女性は穏やかそうで、思っていたよりも綺麗な人だった。

 そして彼女はよく笑い、聞き上手だったし、話し上手だった。

 おかげで僕の緊張は解れ、女性の前で初めてビールをおかわりしたくらいだった。

 心地よく落ち着いた照明の下で、僕たちは自分の事を教え合った。

 僕は最近、仕事で大きなプロジェクトに参加する事になった話をした。

 

 「仕事量は多くなったけれど、充実しているよ」


 彼女は転職をしてから半年が過ぎたという話をした。


 「覚えなければならない事はつきませんが、同僚にも恵まれて、良い職場です」


 僕は酔いも手伝い、積極的に彼女を次のデートに誘うことにした。


 「女性とこんなに話が弾んだのは初めてだよ。出来れば僕は、また君と同じ時間をともに過ごしたいと思ってる。君がさっき言っていた『予告の時点でいかにもつまらなそうな映画』も一緒に観にいきたいよ。もちろん、君が良ければの話だけれど」


 僕はそう彼女に伝えると、あと他に付け足す事はないだろうかと頭の中を模索した。

 何か自己アピールの材料はないだろうか。

 僕はどうしても彼女を恋人にしたい。


 「ええと、僕は次男で。それから年収は…」


 言いかけて僕は止めた。

 そして訂正する為に言った。


 「ごめん、これじゃアプリのプロフィールを読み上げているようなものだね。お互いがまだ知らない事を話そう。君のプロフィールに『好きなものはスイーツと旅行』と書かれていたけれど、他に好きなものはある?好きなものじゃなくても良い。逆に嫌いなもの…、苦手なものとか」


 苦手なもの。

 僕がそう言った瞬間、彼女の表情から笑顔が消えた。


 「苦手なものの話でも良いんですか?」


 彼女の問いかけに、僕は頷いた。


 「もちろん」


 僕がそう答えると、彼女は目線を斜め下に落とし、考え込むような仕草をした。

 まるで、いくつもの扉を前にして、どれを開くべきか丁寧に選ぶ作業をしているかのような雰囲気だった。


 「私、記念日が苦手なんです」


 そうして彼女が紡ぎ出した記憶は、転職をする前に勤めていた会社の話だった。






   〈 記念日お断り 〉






 私は記念日が苦手です。

 きっかけは、新卒で入社した会社で三度目の夏を迎えた頃に起こった出来事でした。

 段々と責任のある仕事を任されるようになった私は、ある日の昼食後、直属の上司であるチーフから会議室に呼ばれました。


 「よく来てくれたわね、どうぞ座って」


 チーフに促され、私は席に座りました。

 チーフと私の二人しかいない、広くて電気の点いていない会議室。

 その空間は、これから話される内容の重厚感を演出するには十分でした。

 チーフは私に言いました。


 「あなたの責任感のある仕事ぶりは上でも評判よ。おかげで私も鼻が高いわ。それでね、そろそろまた新しい仕事をあなたに任せようって話になっているの」


 「光栄です」


 私はそう答えました。

 自分の仕事ぶりが評価されるのは嬉しい事でしたから。


 「あなたには、今度の記念日を担当して欲しいの」


 記念日。


 「それは…」


 何の記念日でしょうか。

 私はチーフに尋ねようとしました。

 しかし、その瞬間にチーフのスマートフォンが鳴りました。


 「ごめんなさいね」


 チーフはそう言って電話に出ると、会議室を出て行ってしまいました。

 残された私は、考え込みました。

 記念日とは何の記念日なのか。

 会社の創立記念日なのか。

 はたまた重役や取引先の誰かの誕生日なのか。

 そのときの私は、あまり深く悩んではいませんでした。

 何の記念日かなんて、誰かに聞けば簡単に分かる事だと思っていたからです。

 私は会議室から出て、多くの社員のデスクが並ぶフロアに戻ると、同期を見つけて尋ねました。


 「記念日って知ってる?」


 同期は「知らない」と答えました。


 「そう…」


 私が知らない事を同期も同様に知らなかっただけ。

 特におかしなことでもない。

 ただ、私は一瞬どきりとして、不安を覚えました。

 同期が知らないということは、次は先輩に聞く必要があったからです。

 私はフロアを見渡して先輩を見つけると、今度は先輩に尋ねました。


 「記念日について伺いたいのですが…」


 私が声をかけた時点で、先輩は眉を寄せました。

 そうして、まるで不吉なものを拒むように「知らない」と短く返し、私に背を向けました。

 私はため息を吐きそうになるのを我慢して、自分のデスクに戻りました。

 それからアプリでチーフのスケジュールを確認しました。

 嫌な予感はしていましたが、案の定チーフは既に外出していました。

 恐らく今日はもう電話は通じない。

 まともに会話が出来るのは、休みを挟んで翌週になることが予測されました。

 せめて、その日までには何かを進めておく必要がある。

 そう思った私は、フロアにいる社員一人一人に記念日について聞きました。


 記念日とはいつの日を指すのか。

 記念日の為に何の準備が必要となるのか。

 そもそも記念日とは一体、何の記念日なのか。


 しかし誰一人として、記念日の事を知らないのです。

 会社の共有電子データも確認しましたが、該当する資料は検出されませんでした。

 打つ手を失った私は、そこで初めて深い恐怖を感じました。

 いつかも知らない記念日が私の背後から迫ってきている。

 そんなイメージです。

 私は記念日について何も知ることが出来ないまま、次の週を迎えました。


 「それで、記念日の準備はどこまで進んだのかしら」


 チーフから問われた私は、恐る恐る答えました。

 何一つ進んでいませんと。


 「ええ?」


 チーフの声には、怒りとともに切羽詰まったような色が混ざっていました。

 恐らく、記念日の準備が進んでいないことによって、私を担当者に据えたチーフにも責任が発生する可能性があったのでしょう。

 チーフはイライラした様子で、人差し指の爪先でデスクを叩きながら言いました。


 「分からないのなら、どうして私に相談しなかったの」


 「申し訳ございません」


 私は謝罪しました。

 しかし私は、記念日について何度かチーフに相談していたのです。

 メールで。

 ただ、返信はありませんでした。


 「それで…、記念日とは一体…」


 私は改めて記念日についてチーフに相談しようとしました。

 するとチーフは深いため息を吐き、呆れた様子で言いました。


 「前任者に聞いてちょうだい」


 それを聞いて、私は驚きました。

 前任者がいたなんて!


 「前任者はどなたでしょうか」


 私の問いかけに、チーフは「信じられない」と言わんばかりに目を見開き答えました。


 「せめて、それくらいは自分で調べられるでしょう?」


 私がそれに対して、何と答えれば良かったのかは分かりません。

 ただ私がチーフに何かを相談しようとすると、必ずと言って良い程、チーフのスマートフォンに電話がかかってくるのです。

 私は諦めて自分のデスクに戻ると、内線で総務課に問い合わせました。


 「はい、総務課です」


 私は一縷の希望を胸に、電話口に出た総務課の女の子に問いかけました。

 記念日の前任者を知っているかどうかを。


 「確認しますね。…ああ、タカハシさんです。タカハシY子さん」


 タカハシY子さん。


 「…あ、ありがとうございます!」


 私は今まで手にすることの出来なかった鍵を手に入れたような気がしました。

 ついに前任者の情報を得る事が出来たのですから。

 しかし、芽生えた希望はすぐに光を失うこととなります。

 話は終わっていなかったのです。

 総務課の女の子は、こう続けました。


 「タカハシY子さんは、去年の秋頃に退職されています」


 退職。


 私は放心状態となりました。

 手に入れた鍵を取り上げられたような気持ちでした。


 「それで…」


 私は感情を失ったまま、掠れた声で総務課の女の子に聞きました。


 「あなたは記念日を知っている?」


 「知りません」


 内線は切れました。

 私は受話器を持ったまま、しばらくぼうっとしていました。

 そのうちに、自分のデスクに置かれていた卓上カレンダーが視界に入りました。


 記念日とは、一体いつなの?


 そのまま卓上カレンダーを乱暴に掴み上げて、床に叩きつけたい衝動に駆られました。

 しかし私はしませんでした。

 私の持つ、何の頼りにもならないと思っていたプライドが、引き留めてくれたからかもしれません。

 もしくは、ただ意気地がなかっただけなのかも。


 それから私は、タカハシY子さんという名前だけを頼りに、記念日について記載されている資料を探し始めました。

 可能性があると思われるキャビネットというキャビネットを調べました。

 会社中にあるキャビネットです。

 途方もない量の重たいバインダーを開きました。

 バインダーの重みで、金具で、紙で、私の手は簡単にぼろぼろになりました。

 毎日、毎日、終電まで会社に残り、始発で会社へ向かいました。

 本当に、気の遠くなるような作業。

 食欲はなくなり、みるみる鎖骨が浮き上がってきました。

 カレンダーと時計と、それから背後を恐れるようになりました。


 ある日の夜のことでした。

 ほとんどの社員が帰った後のフロア。

 私がいつものように床に座り込んだまま作業をしていると、一年後輩の女の子が心配した様子で話しかけてきました。


 「先輩、帰らないんですか」


 「ええ」


 私がそう返すと、後輩の女の子はしばらく考え込む素振りを見せた後、何か閃いたような表情で言いました。


 「先輩、良かったら今から私とラーメン食べに行きませんか?」


 「え?」


 「私この間も、仕事で悩んでいた同期をラーメンに連れて行ってあげたんです。とても感謝されました」


 唐突な提案に、私は何と返していいか考え込みました。

 どうしよう、言葉の選択肢が思い浮かばない。

 こうなったのは、いつから?


 「あと、先輩に聞いてほしい話があって」


 後輩の女の子は、そう言って続けました。


 「私、最近ペットを飼い始めたんです。ほら」


 私の目の前に、スマートフォンが差し出されました。

 そこで私は初めて、自分の目が随分と疲れていることに気付いたのです。


 「その…」


 私は、やっとの思いで言葉を絞り出しました。

 蚊の鳴くような声になっていました。

 一体いつから私はこんな喋り方になったのか。


 「ありがとうございます。でも、もう少し調べたくて…。まだ記念日について何も分かっていないから」


 後輩の女の子の気遣いに感謝しつつ、私は誘いを断りました。

 すると後輩の女の子は、泣き出しそうな表情になったかと思うと、少し怒った様子で言いました。


 「…そんなに記念日って大切ですか?」


 大切も何もありません。

 何故なら、それは私の仕事でしたから。

 しかし、こんなとき、どう返すのが適切なのか。

 返事が出来ないでいる私を見て、後輩の女の子は、ついにぽろぽろと涙をこぼしながら言いました。


 「先輩のそういう頑ななところ…会社のみんな、引いて見てますよ」


 いけない、謝らなければ。

 せっかく私を心配して誘ってくれたのに。

 泣いている後輩の女の子を前に、私はそう思いました。

 しかし困ったことに、言葉が出てこないのです。

 酷く判断能力が鈍っていました。

 どうしよう。

 その時でした、偶然にも私が手にしていたバインダーが、どさりと床に落ちました。

 そうして、偶然にも開いたページ。

 そのページの最後の行に「記念日とは」と記載されていたのです。


 「記念日とは」


 不思議と、何の感情も湧いてきませんでした。

 あれだけ探していた記念日です。

 それなのに。

 歓喜する訳でもなく、私はゆっくりと導かれるようにして手を伸ばし、次のページを開きました。


 「記念日とは」のその先へ。


 次のページは、白紙でした。


 き 念 び と は 。


 私の頭の中で、記念日という言葉とカレンダーの日付と時計の針が、まるでジグソーパズルを逆さまにしたかのように、ばらばらと落ちていきました。


 「ごめんなさい」


 私はやっと、はっきりとした口調で答えました。


 「ごめんなさい、ラーメンには行けないです。飼い始めたペットの話も聞けない」


   会社のみんな、引いて見てますよ。


 「その通りだと思います」


 そして記念日も、私にとっては大切でも何でもない。

 その翌日、私はチーフに退職届を提出しました。


 私は、もう二度とあんな思いはしたくありません。

 こんな風に話せるようになったのも、笑えるようになったのも、ここ最近になってやっとのことなのです。

 ようやく考え方を今ある方向に、向けることが出来るようになりました。

 簡単なことだったのです。

 そもそも私には誰かの期待に応えられるような特別な力は無くて、でもそれは当然で、応える必要なんてものも始めから存在しないって。

 世の中に素敵な方は、いっぱいいます。

 ただ、どんなに素敵な方だったとしても、その方が私に記念日を求める場合、私はお付き合いは出来ません。

 誰も悪くないし、誰も何かを失う訳じゃない。

 私には苦手なものが沢山あります。

 その沢山あるうちの一つが、たまたま記念日だっただけなのです。






**********






 僕がビールを二杯飲んだ後、彼女とは店の前で別れた。

 帰り道の歩道橋の上で僕はふと立ち止まり、スマートフォンに記録しているメモを開いた。

 そこには、僕の恋人になった者に任せたい記念日の一覧が記されていた。


 「……クソッ!」


 僕は叫びながら、思い切り歩道橋の欄干を蹴飛ばした。

 叫んだ瞬間に口から唾液が飛び、僕のあごを濡らした。


 僕は責任から逃げる人間が苦手だ。


 しかし冷静な僕は、すぐに気を取り直して深呼吸をした。

 そうして、あごの唾液を拭うと、僕は再びマッチングアプリを起動させた。

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