ゴーストダンス・フラワーロック②

山田悪魔

序章 最初で最後


 なんだって自分がこんな目に。

 僕は生来の運の悪さを呪いながら、薄暗い隘路あいろを全力疾走する。

 息が苦しい、視界がかすむ。走り始めて数分、されど後ろから追ってくる殺気との距離は一向に離れない。

 後ろを振り返ると、黒々とした四つ足の異形の姿が、思っていたより近くに迫っていた。黒い瘴気を吐き出し、人に害を為す怪異――悪霊。

 目的地までの近道として裏通りに足を踏み入れたのが失敗だった。路地裏でばったり遭遇した瞬間、右腕に切り傷をつけられてしまった。

 。次に接触されてしまえば、僕の身体はあの悪霊に乗っ取られ、ほどなくして僕の自我は消え失せる。

 だが、もう足の動きは鈍ってきている。死に神の足音が、彼我の距離が少しずつ近づいてくる。

 嗚呼、なんてツいてない人生。恐怖の感情の中に、諦念と失望が入り込む。僕はいつだって不運そうだった。沖縄のクラスでただ一人、生態スキャナーにメンタルカラーを『紫茈バイオレット』と識別され、一番治安の悪いと噂の“ここ”九州エリアに送られてそれがハッキリした。占い師に占ってもらえば、確実に受難の相ありと申告されただろう。

 不意に、足先に堅い感触がぶつかって無様に転倒してしまう。咄嗟にうずくまろうとするも、悪霊の体はすでに飛びかかってきていた。

 死に際の珍奇か、スローモーションのように光景が流れる。コマ撮りのように体感一秒ごとに魔の手が迫る中、後悔があふれ出す。

 人気の少ない方へ行くんじゃなかった。こんな誰の手も届かないようなところ……。

 目をかたくつぶる。意味がないから口には出さない。だが、それでも心の中で祈らずにはいられなかった。誰か……――。



「――『勧善懲悪』!」



 ガン! と、何か物がぶつかった音が近くで響いて、思わず目を見開く。

 目の前に広がっていたのは、ボロボロに故障した室外機と、それにぶつかって吹っ飛ぶ悪霊の姿だった。

 え……? 室外機が投げられた……?

 何事かと数瞬フリーズして、ふと背後から気配がして振り返る。

 漆黒の喪服に身を包んだ細身のシルエット、頭にかぶった大きめの軍帽、高級そうなブーツ。その少年は投擲のポーズを取ったまま苛立たしげに悪霊を見つめ、次に僕を一瞥いちべつして側に駆け寄った。


「君、怪我は?」


 彼は僕の全身を見ると、右腕の傷に気づいて一瞬表情を少し歪めた。

 突然のことでパニックになりながらも、僕は開きっぱなしになっていた口を無理やり動かす。


「っあ、あなたは……?」


 だが、少年がその問いに返すより先に、悪霊が動いた。

 狩りを邪魔された怒りからくぐもった叫び声を発し、少年の喉元に食らいつこうとする。

 「危ない」僕が叫ぶのも束の間、彼が向かってくる脅威に対して起こした行動は至ってシンプルだった。寄ってくる虫を払うように、腕を振るう。何の感慨もなさそうな、それだけの一撃で悪霊の体は軽く飛んで、路傍の影に溶けるように霧散した。


「俺は小浪谷こなみや。公安の霊媒師」


 小浪谷――そう名乗った少年は、倒れ込んだ僕に手を差し伸べた。

 僕がゆっくりその手を掴むと、力強く引っ張られ、僕は一瞬で立ち上がった。子どもの頃、施設の大人に手を引っ張られた、あの感覚を思い出した。

 

「……その傷、病院行った方がいいか」


 小浪谷は僕の腕の傷を再び見ると、呟くように言った。

 ここまで夢中で走っていて気がつかなかったが、見ると思っていたより傷口から血が垂れており、ここまでの道筋に血の跡が続いていた。

 そういえば、頭がくらくらする。自覚した瞬間、その感覚が急激に全身を走る。

 僕がふらふらとしているのを見て、小浪谷は背中をこちらに向けると、


「おぶってくから、掴まって」


 少ししゃがんで、掴まるように促した。病院まで連れていくから、と。

 僕が遠慮してためらっていると、いいから、はやく、力が残ってるうちにと急かされ、僕は小浪谷の肩におぶさった。

 小浪谷は一息つくと、一歩を踏み出す。吹き飛ばされるような感覚がして、次の瞬間には空中にいた。「うわああ!!」軽く十メートル近く、小浪谷は跳躍して建物の上を走ると、病院目がけて一直線に突き進んだ。冷たい突風が髪を撫でる。僕らの下で車が走っていた。

 ……噂では聞いていた。公安霊媒師は民間の霊媒師と違い、霊能力を有して除霊を行うと。

 でも所詮は、それも武器の一つだと思っていた。だが、この力は明らかに格が違うような……。


「……お前」


 ふと、小浪谷が静かに口を開いた。さっきは君と言っていたのに、お前になっていた。


「わざと人通りの少ない方へ逃げてただろ」


 僕はどこか怒られるような気がして、びくりと体を硬直させた。

 おかげで発見が遅れた、取憑かれたら面倒なことになっていた。とか言われると思ったのだ。

 だが、口を開いた彼が言ったのはもっと別のことだった。


「……凄ぇな」


 その口調に、僕は「え?」と声を漏らした。


「他人になすりつけようとか考える奴もいるだろ。足で逃げきれるタイプの悪霊やつでもなかったし」


 言ってて途中で照れたのか、小浪谷は首をすくめると、加速して街の上を駆け抜けた。


「別に偉いとは思わない。でも、あの状況でおもんばかれるお前を見て、最後に、九州ここも悪くねーなって…………。感心した」


 ――結局、小浪谷はそれ以上、何も語ろうとしなかった。

 病院に着くと、礼を言う僕をうっとおしげにあしらって、さっさとどこかへ行ってしまった。九州にいるのは今日で最後、明日には関東に帰ってしまうらしい。

 霊媒師――彼らの活動寿命はあまりに短命だ。霊感がある子どものうちしか務まらないこともさることながら、任務で命を落とす者が後を絶たない。

 もう、この先一生、僕はあの少年と再会することはないだろう。

 ……それでも。

 汗に濡れた服の、肌に張り付く不快感が爽快に消し飛んだあの瞬間を僕は生涯忘れることはないだろう。










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