水晶の目
フカ
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親父と同じ目の色が嫌だ。今よりもずっとガキのころ、そうマダラにこぼしたときに、奴はそうでもなくない?と言う。
洗面所の鏡に映る、俺を心底憎たらしそうに睨む子どもの俺の瞳は、やっぱり親父と同じだったからまあ腹が立って、んなわけねえじゃん。怒鳴ると、歯磨きを止めてマダラが食い下がる。
「ちがうよ」
「嘘だろ」
「嘘じゃないよ」
「じゃあどこがだよ。違うの」
「場所」
「はあ?」
「場所。だからちがうから」。
なんにも意味がわからなかったが、マダラがあんまり見たことがない真面目な顔で俺を見るから、やめた。
「ね。はやく朝ご飯食べよ」
マダラは俺と水盤の隙間に割り込んで、たぶんそんなに磨けていない歯を水でゆすいだ。
歯磨き粉を口の端につけたまま、洗面所を出ていくマダラの背を眺める。腑には落ちない。
ただ少し嬉しかったから、そういうことにした。
そういうことにしてからしばらく、親父の瞳を盗み見ると、確かにマダラの言った通りな気もしてくる。飯を食うとき、用事があるとき、俺が顔をそちらに向けると親父はすぐに視線に気づいた。口元だけで笑ったりする。読み物をするときにかける銀縁眼鏡のむこうがわ。
親父の瞳はなにも見ない。俺が目の前にいたとしても。
視線は動くし顔は、笑ったり黙ったりするけど目だけはなにも変わらない。グリーン・クォーツのような、透きとおるような緑の目玉でなにも見ない。
親父の目玉は水晶の目だ。どこまでも透明で、鉱物のように光を透かす。
マダラが言った「場所」の意味がわかった気がする。親父の瞳はこの世にいない。死人の目だ。もうすぐ死んでしまうやつの目。あと幾日かで命が終わり、肉体が死に、魂が帰る人間の目だ。
俺はこの目を知っていた。何度も何人もいつだって見る。なのに気づかなかった。彼ら彼女らはバスに乗り、いつも道を歩いているのに。紙カップのまずいコーヒーを路地裏の端ですすりながら、脇を過ぎる俺たちを透きとおった瞳で見る。そしてふっといなくなる。
親父は俺がガキのころから、この目をしたまままだ生きている。
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マダラと一緒にハマーで実家に向かったあの日、ボンネットに乗っかったのはマダラと等々力の首だった。右手にマダラ、左手に等々力の潰れた首を、マダラは髪を等々力は耳を掴んで、フロントガラスのむこうに来たのは親父だった。
止むかと思った雨はざあざあ降りになり、びしょ濡れになりながら首を二つ、ボンネットに叩きつける。窓に飛んだ血が雨で薄まって、下へなぞって消える。
マダラといっしょにきのう洗った、ピカピカになったハマーに生えたマダラと等々力の首が、雨粒でゆっくり滑って、地べたに落ちた。
目に見えるものを頭が処理しきれない。
結果俺は視線を落とす。青の文字で、握るペーパーバックに書き込みがある。
『願望が達成されることを私は知っています』。
親父は土砂降りにうたれたままで口を動かす。
サプライズ。唇がたぶんそう言っている。
親父が界隈のタブーを犯して稼いだ証拠は無くなっていた。代わりに、親父の「邪魔」だっただろう、対抗勢力組の主の机から出てきた。ヒトに恨まれるようなことは、あまりしないほうがいい。特に近しい人間は大切にしたほうがいい。そこの主の妻は、主にぞんざいに扱われ、主を裏切り、最後は親父のせいで下から縦半分になった。
マダラと等々力は結果、親を疑ったことになり、それで罰として死んだ。
俺は、もしかしたらマダラだったら、親父を殺せると思っていた。マダラがスナイパーをやめたとしても、銃火器を管理している店が親父の傘下でも、モーゼルからグレネードにまですべて座標が付いていても、親父の脳天に穴を開けるのはマダラだと思ってた。
俺はマダラになにも勝てない。マダラが勝てなかったのだから、俺は親父に絶対に勝てない。
親父はそれから仕事を俺に回し続けた。犬と子どもがいるやつばかりだ。赤、茶、金色、いろいろな色の毛並みの子どもと犬を殴り、刺して、撃ち殺した。必要なとき、亡骸の処理もみんなやった。みんなかちかちに固まっていたけど手足は細くて、すぐに割れた。俺の部屋に敷き詰められた、78個になったマダラと105の等々力を思い出す。首は含めない。気が遠くなる。
気がつくと夜になり、気がつくと夜が明けていて、朝日だったり曇天が俺の頭上にフタをする。スマホの画面に浮かぶ名前はぜんぶ親父、俺の親父だ、だけになった。スパゲティもミネストローネも、赤色だから食べられない。肉も腸詰めもシンクに戻す。親父がいくつか錠剤をくれる。極彩色のそいつの正体は知っていたけど、飲み込む。腹は空かなくなった。
そんな日をずっと続けた。ある日、目が覚めるとなにかがおかしかった。変に楽しい気もするし、ひどく焦っているような忙しない感じもする。広いベッドから背中を剥がして体を起こす。グレーの天井、床、壁に掛かる絵画、どれも昨日と同じなはずなのに、気味が悪い。天気は曇りで空気が重い。その重さが匂いが、慣れ親しんだものではなくて、別の世界のものみたいだった。
空気の匂いを思い出そうとして気づく。昨日殺した子どもの顔を覚えていない。
髪も目の色も思い出せない。着ていた服も、性別すら思い出せない。
こんなことはなかった。殺した子どもは夢に出てきて、いつも俺の頭に住み着く。自分に似た子に、俺が銃口や刃物を向けるとき、頭の中からこっちを見る。
それがみんないなくなっていた。
どうしてだかはわからない。
子どもをいくら殺しても、頭のなかに住まなくなった。頭のなかはがらんとしている。コンクリートの四方の分厚い壁のなかに、少しだけ白い煙のようなものがある。150センチぐらいの、形があるようなないような煙がゆらゆら揺れる。
空になった俺の頭はマダラを、等々力を、いなかったことにしようとしてくる。気を抜くと記憶が消えて、歪んで、捻じ曲がる。しかも都合がいいほうに。マットは俺に大層懐き、Ninjaを撃墜したのは俺で、母さんはまだ生きている。だから、カレー味のムニエルになった魚を食べたのは誰もいない。
蛍光ピンクや黄緑色の錠剤を噛み砕かなくても、腹はきちんと減るようになった。スパゲティも腸詰めも胃液で溶けて、栄養になって、俺の体になる。
それをまたずっと続けた。そうして、親父には俺の体に、葡萄とカエルの旗印を入れる。首のうしろ、頚椎のうえに、ブラックアンドグレーのカエルが住み着き、俺の一部になった。
カエルの目玉に瞳が入り、体温でぬるくなった施術のイスから起き上がったとき、親父が俺を見ていた。
その時初めて親父の瞳に俺が映っている気がした。
俺と同じ色の瞳を、俺だけがわかるくらいに僅かだけ細めて、正面から俺を見ていた。
良かったな。親父はそう言う。水晶のなかに俺がいる。
親父は泣いていた。
鳴き声が聞こえる。人の声色みたいな音で、首のカエルはぎいぎい鳴いた。
それからまた月が過ぎる。頭のなかの白い煙はいつからか消えてなくなった。
最後に残った対抗勢力を俺がみんな撃ち殺したから、この街はぜんぶ親父のものになる。雪がちらつく冬の日に、祝の席が設けられた。
会食に俺も連れて行くと言うから、髭を剃るために顔を洗った。
蛇口をひねる。水が冷たい。フッ素のにおいがきつい。
曇った鏡を手で拭った。濡れた前髪の向こう側で、俺が俺をじっと見ている。
ひび割れたそれに映る俺の瞳は、親父ときっと同じ場所で、おんなじように水晶みたいに、光を透かしていた。
水晶の目 フカ @ivyivory
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