わたくし、出奔いたします。

星森 三千

*前編


「リィナ、どうやらわしはお前の育て方を間違えたようだ。」

 その言葉思わずひゅっ、と息を飲み込んだ。でも、目の前にいる言葉の主はそんな私の様子など目にも入らないかのように言葉を続けていく。


「そもそも、お前の母が悪いのだ。あれほどきちんと子供の教育をするように命じたにも関わらず、蓋を開けてみれば歴史に算術など、婚姻するのに邪魔な知識ばかり教えおって。いくら学んだところで、女は所詮結婚し婚家に入るのだからそんな知識は不要だ。」


 目の前の父親から発せられる言葉は、絶望を覚えるのに十分だった。私は指先がどんどん冷たくなっていくような感覚を覚えた。

「大体、教育とは作法や教養のことであって、男に勝る知識を付けろという意味ではなくてだな……」


 その先の話は一切頭に入ってこなかった。しばらくすると、父は満足したのか「まあそれでもわしの子だから愛嬌はある」とか「最低限の作法はわかっているようだし、学院を卒業したらすぐ結婚しなさい」などと言って私を下がらせた。



 歴史や算術だって立派な教養でしょうが!本当は面と向かってそう言いたかった。  

 でも。

「そんなこと言って激昂されても困るし。」

 あの父親、温厚そうな見た目で外面が非常に良いのだが、実はとんでもない暴君なのだ。

 いつも言っていることがあまりにも理不尽で、一度夕食の席で反論したことがある。顔も見たくなかったのでそのまま退出したのだけれど、その時は顔を真っ赤にしながら部屋まで追いかけて来たんだよね……。暴力を振られる寸前だったし、何とか部屋に逃げ込んだのに扉を破られそうになった。母や使用人が止めてくれて何とか収まったんだけど、私は過呼吸になって。そしてあの時決意したんだ。

 ――この家を出よう。




 ようやく自分の部屋に着き、ドアを開けた。私は本棚の前にある一人掛けソファに腰かける。

「はあ、疲れた。」ソファに体を預けながら部屋の中を見渡す。我ながら女の子の部屋とは思えないほど物が無く、かなり整頓されている光景だ。


 ……実は家を出ると決めた日から、父に隠れてこっそり自立の準備をしている。部屋の物が少ないのもそのせいだ。学院の合間にはこっそり図書館で試験勉強をしていて、つい先日王宮の文官採用試験を受けたところだ。他にもいくつか試験を受けているが、幸い父にはばれていないらしい。


 王宮の文官は合格してしまえば平民でも身分の保証がされるし、官舎に入ることができる。実の親と言えども無理やり連れ戻したり騒ぎ立てることはできなくなるのだ。


「部屋の片づけと称して荷物はあらかた詰め終わっているし、あとは残していくものを棚に戻せば終わりか。」


 あと一か月後には学院の卒業パーティーがある。パーティーの後は友人宅でお世話になり、折を見て就職先の官舎へ向かう予定だ。もうここへは戻らない。なので家を出る前に部屋を清算しておきたかった。でも部屋を空っぽにすると、私は家を出ていきますと言っているようなもの。

 悟られないためにも必要ないものは処分せず、棚やベッド横のチェストへ飾り残していくことにした。早めに片づけてしまおう。そう思って私は立ち上がり、棚へ物を並べ始めた。


 ここまで準備を進めていたけど、本当は迷っていた。家を出ずとも、家族揃い平和に暮らす方法があるのではないかと。

 でも、先ほどの発言で目が覚めた。育て方を間違えただなんて暴言にも程がある。私を一人の人間と思っているなら、そんな言葉はまず出てこないだろう。


 そうしているうちに、扉をノックする音が聞こえた。

「リィナ様、入ってもよろしいですか?」いつもの聞きなれた声に私は振り返らず、どうぞ、とだけ伝える。入ってきたのは私専属の侍女のアンナだ。


「出奔の準備は順調そうですね。」

「シュッポンって何?」

「そうですね……東の国の言葉なのですが、この国に置き換えますと、貴族籍のある者が逃げ出して行方をくらますことです。丁度これからお嬢様が実行しようとしていることですね。」

「そう。意外としっくりくる言葉だわ。アンナは最後まで東の国にご執心ね。」

「もちろんですよ。私は、ここでのお給金を元手に東の国へ向かい『ブシ』様と結婚するのです!」


 この国から遥か遠くに存在するという、東の国。その国には『ブシ』という髪を一つに結い上げ、己の魂を磨き上げた高貴なる人々が居るらしい。アンナはその国の大ファンだ。


 アンナ曰く「佇まいもさることながら、何と言っても美しいのは結い上げた髷」だそう。私にはわからない世界だが、アンナは東の国へ行くことを目標に大事に給金を貯めている。


「アンナの東の国話が聞けるのもあと少しなのね。寂しくなるわ。」私が卒業とともに家を出ることを伝えた際、それならこの家にはもう用はない。とアンナは東の国へ向かう準備を始めることになったのだ。

「それならお嬢様も一緒に行きますか?東の国。」

「行かないわよ。アンナの話だけで十分お腹一杯よ。」

「それは残念です。」そう言いながらアンナはすました顔をしていて全く残念そうではない。だから私は、しおらしい表情を浮かべアンナへちょっとだけ仕返しすることにした。


「アンナ、手伝ってくれてありがとう。」

「ど、どうしたのですか急に。」突然お礼を言われて驚いたのか、アンナは面食らったような表情をしている。心なしか顔も赤い。


「あなたが居なければ、家を出るのに必要な準備を進められなかったわ。下手したら身一つで家を抜け出すか、途中でばれて結婚まで家に閉じ込められていたかもしれないもの。だから、お礼が言いたかったの。」

 これは本心だ。私一人ではここまで上手く準備できなかった。


「ふふ、その言葉ありがたく受け取っておきます。でも油断は禁物です。家に帰るまでが旅行というではありませんか。お嬢様がこの家から出て、無事に就職先の官舎に入るまでは安心してはいけません。」少し冷静さを取り戻したのか、アンナは私の手を取り念押しするように言う。


「ええ、でも大丈夫。荷物は少しづつあなたが運び出してくれているし、部屋の片づけももうすぐ終わる。後は私がうまくするだけよ。」

「早速、使ってくださったのですね。お気に召したようで何よりです。」

「いいでしょ?私が使う事で、少しづつ東の国ブームが来るかもしれないわよ。」なんて冗談を言いながら私たちは二人でくすくすと笑い始めた。


 失敗すれば私は、父の言うがままどこかへ嫁がされるだろう。

 無事に逃げられますように。そう願わずにはいられなかった。



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